goo blog サービス終了のお知らせ 

とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

旧エンブレムの審査員が新エンブレムを批判?

2016-04-17 07:16:33 | 著作権
 旧エンブレムの審査員であった方々が今回のエンブレム案について批判しています。

 佐野氏の案を選いだ旧エンブレムの審査員のひとりであった浅葉克己氏が4つの新しいエンブレム案に対して「4作品ともデザインとして低レベル」と批判したということです。「東京五輪に水を差すつもりはありませんが、発表された4作品では世界に笑われてしまう」と言ったということです。

 もうひとり、やはり旧エンブレムの審査員平野敬子氏は、「A案ありきのプレゼン」と言っているそうです。

 両者ともすばらしいデザイナーなのかもしれませんが、ふたりとも当事者です。当事者としてはこういうことは言うべきではない。一般の人が批判しているのとはわけが違う。。もし何か言いたいのならば、佐野氏の旧エンブレムを取りやめることになったときにもっと抵抗すべきだったのです。

 わたしはこのニュースをインターネットで見て、デザインの世界もこういう足引っ張りの世界だったのかと思いました。閉鎖的で既得権で凝り固まった世界だからこそ、第一人者がこういう発言を平気でしてしまう。これでは一般の人が「デザイン界」をだれも信用しなくなります。一般の社会は「デザイン界」の下請けではありません。

 デザインに携わる方々にお願いしたいのは今回の騒動の冷静な検証です。佐野氏のデザインは本当に盗作と言えるものだったのか。盗用とはどういう場合に言えるのか。そして今回のような世界的に注目される大きなデザインコンペはどのように行うのが良いのか。これまでの常識にとらわれないで、一般の人にもわかるような透明性のある開かれたデザイン界になってほしいと思います。

 今回の騒動がいろいろなことを考え、改革する大きなチャンスになればいいと考えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新五輪エンブレム案はオリジナリティがあるのか(著作権の罪4)

2016-04-16 06:37:58 | 著作権
前回の続き

 新たな五輪エンブレム案4作品が発表されました。どれもすばらしい作品です。しかしこの4作品は盗用の問題はないのでしょうか。オリジナリティあふれる個性的な作品なのでしょうか。

 例えばA案、市松模様をつかっているデザインです。ではツートーンの市松模様のパクリということにはならないのでしょうか。たしかに完全な市松模様ではないかもしれません。しかし市松模様をつかってそれをアレンジしているとすれば、佐野氏のデザインよりもオリジナリティはないという感じがします。

 B,C,D案、どれも素敵なデザインだとは思いますが、色使いはそっくりです。原色と金を使う。「金」色がどれにも入っているのは金メダルの意味合いなのでしょうか。ここにもオリジナリティの欠如が感じられます。図案もそこまで個性的と言えるのかと言われると、素敵なデザインの一つであるという程度で、「うわあこれはすごい。」というほどの感動はありません。

 私はどの案もすばらしいと思うのでどれが選ばれてもいいと思います。しかし、オリジナリティという意味で考えるならば少し物足りない。佐野氏の案をやめて出してきた案である以上、もっとオリジナリティあふれるものでなければいけなかったのではないかというのが、私の率直な感想です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五輪エンブレムは盗作だったのか?(著作権の罪3)

2016-04-15 21:27:23 | 著作権
 前回著作権について書いたので続けて書きます。

 佐野研二郎というデザイナーが作った東京オリンピックのエンブレムが盗作ではないかとう疑惑がおき、結局新たに作り直すことになりました。果たしてこれは盗用だったのでしょうか。

 私はこれは盗用ではないと思います。似てはいるけど別物です。このような単純なデザインでこれだけ違えば盗用とは言えない。もし佐野氏がベルギーの劇場のロゴをよく知っていたとしても、それとこれとは違うものだと考えます。似ているとパクリは違う。似ているものまでパクリと言われたらこの世の中ほとんどパクリです。佐野氏のデザインは明らかに単純ではあるが、個性のある立派にデザインだと思います。

 確かに後で出てきたトートバッグのデザインのパクリはデザイナーとして情けない。だから心情的に佐野氏を見方する気持ちはありません。しかしこの問題とその問題は違う。これをパクリとして認めてしまったお偉方も変だと思うし、例のごとく一人悪人を決めてしまうとひたすら「いじめ」るマスコミの愚かさも腹が立ちます。

 まあ、私はデザインの素人ですし、権力もなんにもないのだから、こんなことをここで言うのが一番情けないのかもしれませんが。

 (続きます)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天国への階段」が盗作?(著作権の罪2)

2016-04-14 18:14:08 | 著作権
 レッドツェッペリンの「天国への階段」がスピリットというアメリカのバンドの「トーラス」という曲の盗作だと、スピリットのギタリストの遺産管財人から著作権侵害で訴えられたということです。私はこれは著作権の問題として正当に審議できるのかが疑問です。されに著作権侵害以前の問題として、当人ではなく、しかも発表後40年以上たってから訴えられるということが常識外れであり、このような非常識な著作権法が大きな問題であると考えます。

 曲を聴いてみると確かに似ているといえばにています。しかし、まあこの程度なら問題ないという気もします。感覚の違いでどうとでもとれます。これを裁判で争うということは、どういう結果でもありうるような気がします。「疑わしくは罰せず」という原則ならば当然無罪です。もしこれが有罪とするならばそもそも著作権って何かから始めなければいけません。

 昔、アメリカの裁判で、著作権違反で莫大な額の罰金を支払わせる判決が出たという記憶があります。この判決が多くの人の頭に残っています。今思えば、これはアメリカの「国家的はったり」だったのではないかという気がします。著作権という権利を多くの人に印象付け、著作権をアメリカの既得権益したのです。そういう戦略だったのではないでしょうか。この戦略がTPPの知的所有権70年に延長につながってきています。

 しかし、文化は模倣からはじまります。ある程度先行作品に似ているのは当たり前です。似ているという程度で著作権侵害と言っていたのでは文化は衰退するだけです。完全なパクリは著作権として認められるべきですが、「似ている」という程度ではそれがむずかしい。明確な基準がなく、その場その場の主観の問題になってしまうのでは裁判にそぐわない問題です。

 さらにそれが遺産管財人からの訴訟だというのもおかしな気がします。現状の法律ならばそれは可能なのでしょうが、そもそも法律がおかしい。やっぱり著作権を主張できるのは著作者であるのが当たり前であり、当人が訴えずに遺産管財人が訴えるというのは、経済の非常識さを表しているようにしかおもえません。こんなばかな訴訟が当たり前になれば、だれも資本主義を信じなくなり、経済は混乱するだけです。

 社会は常識の上に成り立つものです。非常識が常識になってしまっている現在の著作権に関する法律は改正されるべきだと、すくなくとも私のような法律の素人は考えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 なぜ音楽を聴かなくなったのか(著作権の罪)

2016-04-09 06:19:29 | 著作権

「無料でも音楽を聴かない層増加」というニュースが出ていました。音楽離れが進んでいるということです。様々な要因があると思いますが、私は要因のひとつとして大きいのは著作権だと思っています。一見直接結びつかないように思えるかもしれませんが、

 音楽好きは自分でも音楽をしたくなります。楽器を演奏し作曲をしたくなる。そして自分なりの音楽を創造したくなります。文化が発展するためにはそういう創造意欲が必要になるはずです。自分でも絵を書くから絵画好きになる。自分でも演劇をするから演劇好きになる。映画を見ていたら自分でも映画を撮りたくなる。創造意欲こそが文化を発展させてきたのです。

 ところが最近の行き過ぎた著作権は創造意欲を減退させます。作曲してもどこか聞いたようなメロディーになってしまう。著作権違反になってしまうのではないか。そういえば著作権違反で裁判で何十億だか支払う判決があったなあなどと思い出す。ああ、面倒だ。音楽なんかやってられない。ということで音楽の世界から離れていく。そんなばかなと思われる方もいるかもしれませんが、こういう著作権の面倒くささは製作者の足かせになっているのは確かなのです。

 ビートルズの初期とか、パンクロックの時代なんか、みんな同じようなコード進行で同じような曲がたくさんありました。それでもみんな何にも言わずに「新曲」を発表していたわけです。しかし最近は著作権の意識が高くなってしまい、なんでもかんでも囲い込まれてしまい、何を作っても結局パクリになってしまうのではないかという不安が生まれてしまい、委縮してしまうのです。こんな自由のない表現活動、みんなが逃げていきます。

 著作権という発想は製作者を守るためのものですので、必要ではあると思います。しかし、最近の著作権は行き過ぎです。製作者が死亡すれば著作権は消えるというのが常識です。発表した年から50年もたてば著作権は消滅するでいいでしょう。この程度が適当であり、それ以上の期間著作権を守るというのは文化を死滅させるものです。

 文化は創造者とそれを受容する層がお互いに入れ替わる可能性があるからこそそこに「村社会」ができ、そしてそれが拡大していくのです。場合によってはそれが巨大ビジネスになる場合はありますが、それによってあぶく銭を稼いでやろうという腐った資本主義とは絶縁しなければいけません。文化が死滅してお金だけが残る世界の何がおもしろいのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする