本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

使命感に対する考察 : その後@9

2006-01-29 00:00:00 | その後
使命感。
英語で天職とは、callingなどともいわれるようだ。もしくは、vocationともいわれるようだ。
callingに関しては、あえて解説するまでもなく「呼び声」というような含意。
vocationは、何か特定のものに関して、自分が向いていると感じるような意識の状態。
いいかえれば、二つとも、使命感という意識に結びつく。
英語での、元来での意味での天職とは、宗教的に神から呼び求められているものというもの、自分がその声に対してこたえていこうという意志を働かせるものという意味合いがある。

しかし、神というものがニヒリズム的な時代状況にあるにせよ、そうでないにせよ、私たちとしては、どこに、どこへ導かれているのかということは容易にはわかりえない。その様な状況下において、いかにわれわれは自らの使命感というものを知りえるのであろうか?もしくは、知りえるということは可能といえるのであろうか?このことに対する答えは、サルトル的な様相を帯びることとなる。いわゆる、二律背反的な意味合いを持ってしまうということだ。
われわれは、使命感を知りえることはできないが、感じることはできる。
というのが、おおむね妥当な回答であろう。

つまり、神はわれわれに啓示を与えてくれはしない。しかし、われわれは、ここでも、対自-即自の神性というようにも述べたように、自ら自己の存在の根拠を形づくることが求められている。という意味では、自分で使命感というものは作ることができる。callingが作られうるという概念自体はおかしい気がする。それもそうだろう、呼ばれているという状態は、第三者的な意味合いが含まれるのであろうから。しかし、これは、対自-即自の神性という概念からしても、さほど難解な概念ではない。
使命感を作るというよりは、こういう方向に、私は向いている、callingな状態であると、vocationを感じていくというのが、使命感の本質的な様態であるといえる。

自分自身の使命感というものが、なにであるかということを確信することが難しいにしても、自分がこういうものに向いているのではないだろうか?自分はこれがしたいんだと発心することは可能であろう。この発心、その使命感を信じるということが、使命感というものに導かれうるための要諦であるといえる。
コメント (4)
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