新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

国語を乱すカタカナ語批判

2015-03-02 08:45:08 | コラム
カタカナ語排斥論者としてあらためて言えば:

私としては20年以上も前から繰り返して「何処の何方がカタカナ語で日本語に戸籍を得てしまったものを使うのを止めなさいと言う気はない。ご随意に」と言ってきたつもりだ。だが、先日のあるメルマガで、この年来の主張を知らなかっただろう方が私の主張に批判的なことを言っていたのを読んで、ここで敢えてもう一度繰り返しておくのも良いかと考えた次第だ。

なお、以下は2008年にある勉強会で行ったプリゼンテーションの導入部に加筆したものである。

私はこの手の言葉が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが不思議であった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語は融通無碍であるという素晴らしさを見出した。それだけに止まらず、外来語を基にして新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と創造性を見る思いがするのだ。

このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎると痛感させられた。これまでにこのことを幾度か採り上げて論じた際に、かなり厳しい反論および反対に出会った。

即ち、「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう。最早日本語の一部になっているではないか」という方が多かった。私の論旨は「これらを使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても構わないと思う。だが、この種の言葉の実態は純粋な日本製の言葉であり、英語(ないしは外国語)とは全く無関係であるものが圧倒的に多いという認識だけは持っていて欲しい」である。

私はこれらの言葉を英語にしてみれば全く別な意味になる例が非常に多いことを知って貰いたかっただけだ。英語教育改革論者の視点に立てば、カタカナ語の99%以上は我が国の誤った英語教育が原因で、英語の本来の意味からかけ離れた使われ方になっており、間違ってもこれが英語だと思って「会話」などで使って貰いたくないのだ。

何故この主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語だろうと思って使ってしまう結果になる点を好ましくない」と考えているからである。更にこの際、「何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたい」であった。

プリゼンテーションでは引き続いて「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを簡単に論じている。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、漢字のような「表意文字」と「表音文字」のひらがなとカタカナも使っている日本語との違いがあると指摘している。そこに文法の違いが加わるのである。カタカナ語ではこのような違いをほとんど無視している点を問題にしたいのだ。我が国の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えている」辺りがおかしなカタカナ語を生む原因となっていることを指摘しておく。



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