新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

あらためて8月15日を思えば

2020-08-16 10:46:09 | コラム
あの戦時中を振り返れば:

私は正直に言って、あの昭和16年12月8日から昭和20年8月15日の間に何が起こっていて、我々銃後の日本国民がどのような思いで毎日を過ごしていたかを経験しておられない方々が、今になって寧ろ自虐的というか何かを反省したかの如くに戦争中のことを語るのを聞くのは、決して心良いことではないのだ。貴方がたが当時の何をご存じなのか、何を経験されたのかと尋ねてみたくなるのだ。

昨日も控え目に振り返ってみたが、ここでは本当に言いたかったことを述べてみよう。あの時期を過ごしてきた小学生から中学1年の間の経験から言えることは「戦争というものは狂気が為せる業ではないのか。あの当時は誰もその異様というのか何かに魅せられたような精神状態の中で過ごしてこられなかっただろう方々に、何がお解りかと伺いたい気がしてならない。私たち小国民と雖も聖戦に勝つと信じて連日の大本営発表に欣喜雀躍していたのだ。政府というか軍の発表をひたすら信じて「鬼畜米英」に勝つ為に「欲しがりません勝つまでは」と耐え忍んでいたのだ。

親類縁者や近隣の方々が「赤紙」と称された召集令状を受け取って、万歳の声に送られて戦場に出て行かれたのだった。子供の軍隊を真似た遊びでも「天皇陛下万歳」を唱えていたのだった。学校では校長先生が御真影を捧げ持って皆に訓示され、その文言の中に「天皇陛下」が入れば、全生徒が「気をつけ」の直立不動の姿勢に変わって、一斉に「カツン」と音を立てて靴のかかとを付けるのだった。配属将校でなくとも、礼儀を守らなかった生徒は普通の先生に殴られたものだった。そういうことを皆が何の不思議もなく受け入れていた時代だった。

だが、段々に形勢が不利になってきてアメリカ軍の本土上陸があるかも知れないので、本土決戦に備えるべしという雰囲気が漂ってくるようになった。だが、そう聞けば13歳の子供でも、アメリカ軍が本当に上陸してきたときに、竹槍で戦えるのかと疑問には感じていた。それでも、大人たちはその訓練はしていたし、小学校(じゃなかった国民学校)では男子は剣道、女子は薙刀の稽古に励んでいたものだった。昨日も回顧したように、その頃にもなればB29の空襲は頻繁になり、遂には艦載機が飛来して一般人を機銃掃射で襲うようになっていた。

相手は艦載機で空中からは機銃掃射では防ぎようがなかった。しかも頑是無い子供まで襲ってきたのだ。B29は焼夷弾を本当に雨が降るように落としていた。確か平塚市の空襲は昼間で、校庭の防空壕から焼夷弾が降っていくのが藤沢かでもハッキリと見えた。恐ろしい光景だった。現在、テレビなどで色々と御託を並べている方々が、こういう経験をしているのだろうか。そうであれば、どんなに若くても80歳半ば以上でなければ語れないはずだ。私は藤沢には焼夷弾は落ちないと思っていたが、小石川区の我が家が爆撃されて、家財道具一切と共に焼失した。

こういう経験をしていながら、私は39歳にしてアメリカの会社に転出して、その後の22年半もの間はアメリカの会社の一員として、アメリカの為に対日輸出に日夜懸命に働くようになるとは、夢にも思っていなかった。私はアメリカ軍の空襲で家を焼かれていながら、ただ自分に向かってきた運命に逆らわないようにしようと思って転進しただけだった。それは生活がかかっていたし、家族を路頭に迷わせることがないようにと懸命だっただけ。

今回はここにあの4年弱の間の経験のごく一部をあらためて回顧したが、本心では戦争中のことは思い出したくもないし、敢えて語ろうと思ったこともない。5歳年下の家内も群馬県の前橋で戦災に遭っているが、二人で「あの時はこうだった」というような回顧した事はない。同じ事を繰り返すが、あの時代の経験をしておられない方々が如何にも何かもご承知のように戦争を語られるを聞くのは、決して心地良いことではない。母方では叔父が2人戦死されていた。これだけ言えば十分だろう。