新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

甲子園の野球に思うこと

2020-08-12 08:52:22 | コラム
テレビ局とマスメディアは何故あれほど高校野球を尊重するのか:

昨11日は酷暑をものともして(?)午前中に外出した以外は、春の選抜を中止した埋め合わせの感が濃厚な交流試合とやらを、さり気なく観察していた。私にはマスコミが何故あれほど高校野球をさも重大事のように採り上げるのは片手落ちというか、他の競技の扱いと較べれば明らかに偏向だと思っている。私の持論は「嘗ての全国中等学校野球大会の延長である甲子園の高校野球は、既にその使命を終えている」なのである。

何となく片手落ちではないかと思わせられる:
この大会は戦後の何もなかった時期に落ち込んでいた国民に明るい話題を提供して楽しませたところに大いなる意義はあった。だが、最早高野連の加盟校が4,000に達した時代ではその在り方が大いに変貌してしまい、子供たちに甲子園に出て勝つ為の枝葉末節の技巧を教え込むのが最大の目的とする指導者たちが群がって、体力が不十分な高校生に夏の暑い最中に「母校」(これは出身校のことで在学している生徒に適用するのは誤り)の名誉だの郷党の誉れなどと言って、あたら前途有為の子供たちに「その為だけの野球」を教え込んでしまうのだ。しかも、トーナメント方式でだ。

今回は32校が1試合だけの為に「聖地」甲子園に招かれて晴れの舞台で野球をやっているという形式だった。そこには苦しい思いをしてトーナメントを勝ち上がるという大目的が欠落していたせいか、従来のような熱気が感じられず、監督の中には連れてきた20名(なのかな?)を全員何らかの形で試合に出して「思い出作り」をさせていたと思わせる試合運びすらあった。私は否定的な言い方しかしないが、このようにして甲子園で試合をやらせる工夫をしたことを一応は評価するが、野球部の経験がない私には「それほどの重大事」とは、中々受けとめられなかった。

名前の変化に戸惑う:
野球の本筋からは離れるが、毎年この(甲子園での)大会を見ていて、正直に言って落胆するというか、ウンザリさせられることがある。それは紹介される生徒というか野球部員たちの「名前」である。既にこれまでに繰り返して触れてきたが、所謂「キラキラネーム」は言うに及ばず、当て字(外国人のニックネームのもじりを含めて)、こじつけ、判読不能、意味不明、重箱読み等に加えるに何時だったか「車夫馬丁のそれだ」と言ったら「丁稚小僧と表現する方が適切」とのご指摘を頂戴したが、我が国の古き良き文化である「命名」が破壊されているのを見るのは忍びないのだ。

兎に角、最早名前は「流行り物」と化してしまったようで、古きは何処の学校にも2人や3人はいる「翔」単独か「翔平」、「翔太」、「翔斗」という複合体が大流行だった。今やヤンキースに行った田中将大にあやかろうとしたのか「大」という字を入れた名前が大流行だ。多くは「ヒロ」と読ませて「雄大」というような具合だ。他に目立つのは「雄太」だの「健太」だのという「太」を使ったもの、「雄平」のように「平」を使ったものは、往年はある一定の層でしか使われていない文字だった。それが当たり前のように普及している。今やそういう認識がないのか。そう言えば「航」という字も多用されて「ワタル」と読ませるようだ。

私がこれらの他に好ましくないと思うのは判読しようがなかった「心海」という者もいたし、古くは何年か前の優勝投手で高橋光成と書いて「タカハシコウナ」というのが西武ライオンズに在籍している。他にもこの手の何と読めば良いのか想像も出来なかった者たちは幾らでもいた。私が憂いているのは「我が国の伝統であり文化であると信じていた、その家に代々伝わる文字を使った命名の習慣は何処かに消え去って、近頃の若き世代の親たちは流行を追って命名しているとしか解釈しようがない流れである。彼等に問いたいのは「自国の文化と伝統を何と心得ているのか」なのだ。

野球には優れた素材が集まっている:
野球の質にも触れておこう。昨日まで見た限りでは「将来プロに行って使えるだろう」と思わせる素材には出会わなかった。敢えて「甲子園の野球」と言うが、これを見ていて毎回感じることは世間で若い親御さんたちが「これからは子供にやらせるのであればサッカーを選ぶ」とは言われる。だがしかし、野球には「この子供たちがサッカー界に行けば、我が国のサッカーの質が変わるだろう」と思わせる素材が、未だに数多く集まっているのが残念なのだ。騒がれている堂安、南野、中島翔、大迫等に大谷翔平や、古くは松井秀喜と較べられる素材を見いだせるかという問題だ。