新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月26日 その3 「スニーカーの風物詩」をお詫びして訂正します

2019-10-26 12:51:39 | コラム
買い換えてみれば白い底だった:

先頃、3年以上も履き続けたNikeのスニーカーを某商社のファミリーフェアーでUnder Armour(UA)ブランドのものに買い換えた。いきなり余談だが、この「ワード」の厳格さでは“armour”というUK式の綴りは看過して貰えず、下に赤い線を引かれてしまうのだ。アメリカ式であれば“armor”だからだろうが、面白い現象だと思っている。序でに採り上げておけば「スニーカー」(=sneaker)は我が国で一般的に古き日本語での「運動靴」乃至は「ズック靴」を表しているが、私がアメリカで聞いた記憶があるのは“tennis shoes”だけだった。でも、スニーカーで通じるとは思っている。

本題に戻ろう。Nikeの靴は言うなれば「街歩き」というかその辺に出ていく時に履いていたのだが、今やスーツにネクタイという格好をすることなど先ずないので、スニーカーはその辺どころか、何処に出掛ける時にでも履いていたのだった。その結果というかNikeの質では長持ちがしないというのか知らないが、大分弱ってきたので買い換えを決意したのだった。そこで、東京ビッグサイトの会場に入って真っ先に目についたのが、格安で売られていたUAの靴だった。色も気に入ったのでその場で決めてしまった。

買ってから気が付いたのだが、そのスニーカーは近頃街中で見かける圧倒的多数の国の内外のブランド品に見られるような底が白い靴だったのだった。それが流行なのかどうかなどに全く注意をしていなかったのだが、自分が買ってしまったスニーカーは流行のものだったようなのだった。それから初めて気になって、街中で仔細に観察してみると80~90%のスニーカーの底は白いのだと解った。

当方は今更流行を追う年齢でもないのだから、底の色がどうあろうと履き心地さえよければ何の問題もないので気にしないが、スニーカーのデザインに流行り廃りがあるとは気がつかなかったというだけの話だ。読者諸賢もお気が向けば、一度下を向いて観察しながら歩いてみて下さい。でも、スマホのながら歩きと同様に危険かも。

10月26日 その2 スニーカーの風物詩

2019-10-26 10:04:17 | コラム
買い換えてみれば白い底だった:

先頃、3年以上も履き続けたNikeのスニーカーを某商社のファミリーフェアーでUnder Armour(AM)ブランドのものに買い換えた。いきなり余談だが、この「ワード」の厳格さでは“armour”というUK式の綴りは看過して貰えず、下に赤い線を引かれてしまうのだ。アメリカ式であれば“armor”だからだろうが、面白い現象だと思っている。序でに採り上げておけば「スニーカー」(=sneaker)は我が国で一般的に古き日本語での「運動靴」乃至は「ズック靴」を表しているが、私がアメリカで聞いた記憶があるのは“tennis shoes”だけだった。でも、スニーカーで通じるとは思っている。

本題に戻ろう。Nikeの靴は言うなれば「街歩き」というかその辺に出ていく時に履いていたのだが、今やスーツにネクタイという格好をすることなど先ずないので、スニーカーはその辺どころか、何処に出掛ける時にでも履いていたのだった。その結果というかNikeの質では長持ちがしないというのか知らないが、大分弱ってきたので買い換えを決意したのだった。そこで、東京ビッグサイトの会場に入って真っ先に目についたのが、格安で売られていたAMの靴だった。色も気に入ったのでその場で決めてしまった。

買ってから気が付いたのだが、そのスニーカーは近頃街中で見かける圧倒的多数の国の内外のブランド品に見られるような底が白い靴だったのだった。それが流行なのかどうかなどに全く注意をしていなかったのだが、自分が買ってしまったスニーカーは流行のものだったようなのだった。それから初めて気になって、街中で仔細に観察してみると80~90%のスニーカーの底は白いのだと解った。

当方は今更流行を追う年齢でもないのだから、底の色がどうあろうと履き心地さえよければ何の問題もないので気にしないが、スニーカーのデザインに流行り廃りがあるとは気がつかなかったというだけの話だ。読者諸賢もお気が向けば、一度下を向いて観察しながら歩いて下さい。でも、スマホのながら歩きと同様に危険かも。

"It's me.”を論じれば

2019-10-26 09:24:24 | コラム
“It's I.“であるべきだ:

話し言葉は文法通りか:

渡部亮次郎氏主宰の「頂門の一針」誌上で北村維康様に私の“It’s I.”論についてのコメントを頂きまして感謝申し上げたいのです。

私は日本語でも英語でも「話し言葉」にはかなりの数の文法無視の表現があると思っております。その一例として嘗てある元文科省の官僚の方と“Me, too.”についてかなり激しい議論をしたことがありました。これは文法的に見れば誤りで目的格の“me”を主語に使っている点が言わば不合格です。だが、多くのアメリカ人はごく当たり前のように使いますし、文法的に誤りと気付かない我が同胞は平然として使っております。

上記の議論の際に「ライシャワー大使でも私的な会合の席でそう言っておられた」と反論されました。私は「そういうことは間々あるもので、だからと言ってこのような言い方を正当化すべきではない」と解説しました。私が再三採り上げるMBA同士の夫妻は私との夕食の席で奥方がご主人に「今日出会った某氏が“Me, too.”と言ったので幻滅した」と言い、ご主人は「彼はそんな言葉を使ったとは呆れるな」と答えました。この辺りの厳格さがアッパーミドル以上とそれ以上の人たちの矜持を表していると思って聞きました。

我が社の木材部門のチャンとした教養がある工場長は“Don’t say nothing.”のような二重否定を使うことが多かったのですが、この場合も仲間内のみの席でのことした。このような二重否定は下の階層に行くと“He ain’t know nothing.”のようになって、馴れないと何を言っているのか理解できないかも知れません。

日本語の場合ですが、以前にも採り上げたことで「誰々さんにお会いする」はAtokでは「お目にかかる」とすべきだと指摘されます。だが、広く一般的に使われていますが、私は疑問に思っていたので、国文学者で大学教授のKS氏に尋ねました。答えは「『お会いする』では自分に敬語の“お”を付けているので誤りであると言って良いだろう」となっていました。敬語の使い方には屡々誤りがありますが、テレビ等で知識階層であるはずの専門家が誤用されれば「あれで良いのか」と広まってしまうと思って見ております。