♦️105『自然と人間の歴史・世界篇』アケメネス朝ペルシア

2017-09-30 10:13:37 | Weblog

105『自然と人間の歴史・世界篇』アケメネス朝ペルシア

 アケメネス朝ペルシアを語るには、どのくらいまで遡るべきだろう。アッシリア帝国(?~紀元前612、首都はアッシュール、紀元前8世紀末からはニネヴェ)。アッシュール・バニパル王(在位は、紀元前669~626)のもとで最盛期を迎える。紀元前612年には、リディア王国(小アジア地方、インド・ヨーロッパ系)、メディア王国(イラン高原、インド・ヨーロッパ系)、カルデア王国(バビロン地方、セム系)、そしてエジプト王国(第26王朝)に分立するにいたる。
 これらのうち、メディア王国は、ペルシアとメソポタミアを治めていた。そんな中でも、イラン地方では、配下にあったインド・ヨーロッパ系のペルシア人(イラン人)が独立心にを強めていく。現在イラン南部に位置するパールス(パルサ。アラビア語では「ファールス」)がラテン語化し、「ペルシア」と呼ばれるようになったという。始祖アケメネス(生没年不明)のもとでおこったが、やがて、キュロス2世がペルシア人の王として振る舞うようになってからは、メディアからの解放運動が激化していく。紀元前550年には、メディア王国の最後の王を殺害し、メディアを滅ぼしたキュロス2世は、スサ(スーサ。イラン西南部)を都にアケメネス朝ペルシアを(紀元前550~同330)建国し、同国の初代君主となる
 キュロス2世は、紀元前546年にリディア王国、紀元前538年に新バビロニア王国を滅ぼし、領土を拡大していく。戦いに明け暮れるばかりではなく、新バビロニア王国を征服した後には、バビロン捕囚(紀元前586~同538)を受けていたユダヤ人をパレスチナに解放し、被征服民に対しても信仰の自由、祭祀・慣習許可など寛大な対応を行った。キュロス2世の没後、王位に就いた子カンビュセス2世は、紀元前525年にエジプトにも侵攻して第26王朝を滅ぼし、第27王朝をおこした。これによりアケメネス朝ペルシアは、古代オリエントのみならず、東はインド西部、西はエーゲ海、北は中央アジア、南はアフリカの地中海沿岸部その他まで、ほぼ全オリエント統一を達成し、それまでの歴史上アッシリア帝国に次ぐ第2の地理的領域をもった世界帝国となる。
 アケメネス朝ペルシアを全盛期に導いたのは、カンビュセス2世没後に即位した三代目のダレイオス1世(在位は紀元前522~同486)である。彼の功績は、イランのケルマンシャー東方にある楔形文字(ペルシア文字)の磨崖碑・ベヒストゥーン碑文に刻まれている。ダレイオス1世は、これ以外にも税制(サトラッピア単位に徴税額を決定)や新貨幣制度(金貨・銀貨鋳造)を行う。さらに、スサ南西(現在のイランの首都テヘランの南約650キロメートルのところ、ファールス州にある)に王都ペルセポリスを建設するにいたる。この都市の建設は、紀元前520年頃に始まり、それからほぼ60年後に完成したというから、驚きだ。かくも大規模な都市の正門とされるクセルクセスの門(通称「万国の門」)を入ると、人面右翼獣身像が居丈高な姿で迎えてくれる。貢ぎ物を持って訪れる属国の使者は、さらに進んで最大の宮殿アバダナ(謁見の間)に進んだのであろうか。ペルセポリスには、楔形文字で刻まれた碑文(ペルセポリス碑文)や階段のレリーフがちりばめられ、帝国の権威を演出する役割を担っていたと考えられる。
 その後、ダレイオス1世は、イオニアをめぐってギリシア・ポリスと戦闘を交えるものの(これをペルシア戦争という。紀元前500~同449)、勝利するにはいちらなかった。その後に子のクセルクセス1世がこれを受け継ぎ戦うが、これも敗退を重ねる。その後はゆるゆると衰退し、最後の王ダレイオス3世も東方遠征を行っていたマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356~同323)の軍と戦って敗死してしまう。紀元前330年、首都のペルセポリスはマケドニアのアレキサンダー大王の侵略による火災で炎上し、アケメネス朝ペルシアは建国220年目にして滅亡する。
 アケメネス朝滅亡後には、ペルシアはアレクサンドロス帝国による支配下に置かれた。アレクサンドロス大王没後、帝国は分立し、領土の大半を継承したセレウコス朝シリア(紀元前312~同63)の統治となる。その後、中央アジアからバクトリア(ギリシア系)、カスピ海東南地方(パルティア地方)からパルティア(イラン系)が独立した。その1つパルティア王国はイラン系遊牧民の一派パルニ族首長アルサケス(生没年不明)がティリダテス1世として、ヘカトンピュロスを首都にアルサケス朝パルティア(紀元前248?~226?、中国読みでは「安息」(あんそく)という)を創始したことに始まる。セレウコス朝を西へ追って、領土を拡げていったパルティア王国だが、ミトリダテス1世(在位は危険前171~同138)のとき王国として確立し、バビロニア侵入後の紀元前141年、ティグリス河畔にあったセレウコス朝のセレウキアを陥れる。また紀元前129年、同地近郊に新都クテシフォンを建設、セレウコス朝滅亡後はローマ帝国と戦いを交わしていく。

(続く)

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