67の1『自然と人間の歴史・日本篇』「日本」の登場(海外からの視点)
「旧唐書」と呼ばれる歴史書が中国に伝わっている。これが編纂されたのは、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉?、張昭遠、王伸らによって、と伝わる。二十四史の1つ。唐(とう、中国読みはタン)の成立した618年からから907年の滅亡までを扱う。当初の呼び名は単に『唐書』だった。それが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
そんな中の通称「倭国日本伝」の冒頭には、こうある。
「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。
世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、其訴訟者、匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法、並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
長安三年、其大臣朝臣真人、来貢方物。朝臣真人者猶中国戸部尚書、冠進徳冠其頂為花分而四散、身服紫袍、以帛為腰帯。真人好読経史、解属文容止温雅則天宴之於麟徳殿授司膳卿。放還本国。開元初、又遣使来朝、因請儒士授経、詔四門助教趙玄黙、就鴻臚寺教之。乃遣玄黙、闊幅布以為束修之禮題云。
白亀元年、調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海、而還其偏使朝臣仲満、慕中国之風因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年、好書籍放帰郷逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡為左散騎常侍鎮南都護。貞元二十年、遣使来朝、留学生橘免勢、学問僧空海。元和元年、日本国使判官高階真人上言前件、学生藝業稍成願帰本国、便請與臣同帰従之。開成四年又遣使朝貢。
次には、書き下し分を掲げる。
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世ヽ中国と通ず。其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。
其の王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。官を設くる十二等あり。その訴訟する者は、匍匐して前(すす)む。地に女多く男少なし。すこぶる文字あり、俗、仏法を敬う。並びに皆跣足なり。幅布を以てその前後を蔽(おお)う。貴人は錦帽を戴き、百姓は皆椎髻(ついけい)にして冠帯なし。婦人の衣は純色、裙を長くして腰に襦、髪を後に束ね、銀花長さ八寸なるを佩ぶること、左右各々数枝なり、以て貴賤の等級を明かにす。衣服の制は、すこぶる新羅に類す。
貞観五年、使を遣わして方物を献ず。太宗その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。
日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。
また云う。其の國の界、東西南北各數千里。西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國なりと。
長安三年、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず。朝臣眞人は猶お中國の戸部尚書のごとし。進德冠を冠り、其の頂に花を爲し、分れて四散せしむ。身は紫袍を服し、帛(はく)を以って腰帯と爲す。眞人、好く經史を讀み、文を屬するを觧し、容止温雅。則天、之を麟德殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本國に還らしむ。
開元の初、また使を遣わして來朝す。因って儒士に經を授けられんことを請う。四門助敎趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれを敎えしむ。乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の禮と爲す。題して云う、白元年の調の布と。人またその僞なるかを疑う。この題得る所の錫賚(しらい)、く文籍を市(か)い、海に泛(うか)んで還る。その偏使朝臣仲、中國の風を慕い、因って留まりて去らず。姓名を改め朝衡と爲し、仕えて左補闕・儀王友を歴たり。衡、京師に留まること五十年、よく籍を書し、放ちて郷に帰らしめしも、逗留して去らず。
天寶十二年、また使を遣して貢す。
上元中、衡を擢んでて左散騎常侍鎮南都護と爲す。
貞元二十年、使を遣して來朝す。學生橘免勢、學問僧空海を留む。
元和元年、日本の國使判官階眞人上言す。前件の學生、藝業稍(や)や成りて、本國にらんことを願う。便(すなわ)ち臣と同じくらんことを請う。之に從う。
開成四年(648年)、また使を遣して朝貢す。」
これの解釈で問題となるのは、後段の「日本国は倭国の別種なり」という記述をどうみるかであるが、日本側の受取り方には色々な説があって、いまだに定説らしきものがないのが現状である。こうして決着が付いていないのは、7世紀の初頭に至っても、その前の倭がどのような政治状況であり、その後どのような形で日本という国家に繋がって行ったたかが、その相当部分が明らかになっていないからである。
(続く)
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414『自然と人間の歴史・日本篇』原発の経済性
先ず一つ、原発コストの数字が、新潟新報社原発問題特別取材班の著で紹介されている、それにはこうある。
「東電にとっては高コストとなっている原発だが、政府は立地自治体に配る交付金などの政策経費を織り込んでも最も低コストの電源と位置づけている。その根拠は松村教授も参加した政府の有識者会議で2015年5月に示された試算だ。
「原子力10.1円~」
「石炭火力12.3円」
「LNG火力13.7円」
確かに原子力が最も安い。だが、試算は原発が設備利用率70%で40年、順調に働くことを前提としている。頻繁に止まった柏崎刈羽原発(かしわざきかりわげんぱつ)には当てはまらない。しかも、原子力は下限値だけが示され、こんな注釈が付いている。
「福島事故の廃炉、賠償費用などが1兆円増で0.04円プラス」
「使用済み核燃料の再処理費用などが現状の2倍、22兆円になれば0.6円プラス」」(新潟新報社原発問題特別取材班「崩れた原発「経済神話」柏崎刈羽原発から再稼働を問う」明石書店、2017)
もう一つ、原発コストの見積もりの記事を見つけた。毎日新聞(2017年8月14日?)によれば、電源別の二酸化炭素(CO₂)排出量(1キロワット時当たり、同社が電気事業連合会のホームページを基に作成したもの)の、電源別比較は次のとおりとされる。
「中小水力:11グラム、地熱:13グラム、原子力:20グラム、風力:25グラム、太陽光:38グラム、LNG(天然ガス)複合:474グラム、石油:738グラム、石炭:943グラム」
同記事には、この時点で計画中の大型火力石炭発電所の計画についても、列記されている。
「秋田市の関西電力など(2基)各65万キロワット、山口県宇部市の電源開発など(2基)各60万キロワット、千葉市の中国電力など107万キロワット、千葉県袖ヶ浦市の九州電力など(2基)各100万キロワット、神奈川県横須賀市の東京電力(2基)各65万キロワット、神戸市の神戸製鋼所(2基)各65万キロワット、愛知県武豊町の中部電力107万キロワット」
(続く)
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