♦️449『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のアフリカ(スエズ運河国有化)

2017-09-29 12:51:14 | Weblog

449『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のアフリカ(スエズ運河国有化)

 スエズ運河は1869年に営業を開始した。工事に当たったのは、フランスの技師レセップス他で、フランス資本が行うものであった。1875年に、これをイギリスが買収する。以来、スエズ運河会社がその利益をイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはごくわずかな利益だけが分け前として与えられる日々が続く。1876年、フランスとイギリスが共同でエジプト国の財政の管理を始める。その6年後の1882年には、イギリスがこのエジプト国を占領し、エジプト人を排除しての統治を始める。
 それからかなりの年月が経過していく。第二次世界大戦で、アフリカと中東を巡る情勢は大いに変わった。エジプトにおいては、1952年、ナセルによる軍事クーデターで王制が打倒され、エジプトは共和制に移行する。そして迎えた1955年に、スエズ運河国有化事件が起こる。
 国際経済学者の木下悦二氏は、この事件の背景ならびに契機をこう伝えている。
 「事の起こりは、中立主義を掲げたエジプトが1955年にチェコスロバキアとの間で結んだ武器購入契約である。スエズ運河の意義は低開発国の民族主義が冷戦体制を直接脅かすものとして現れたというにとどまらない。アメリカ、イギリス、フランスはこれを阻止しようと圧力をかけた。
 一つはイギリス、フランスによるエジプト綿花の買い付け量大幅削減であり、今一つはエジプトが経済発展の戦略目標としていたアスワン・ハイ・ダム建設資金の融資承認の一方的破棄であった。後者は世界銀行を中心にアメリカ、イギリスも加わって4億ドルの融資を与えていたものである。エジプトはこの破約に対抗して、スエズ運河の有償国有化を断行して運航料をダム建設資金に振り向ける決意をした。運河の利権国イギリスとフランスは技術者引き揚げ、エジプト資産の凍結をもって応え、なお阻止できないとみて、イスラエルのエジプト侵攻を口実に直接の軍事介入にふみ切った。」(木下悦二「現代資本主義の世界体制」岩波書店、1981)
 木下氏は、この事件のその後の展開について、こう説明される。
 「こうした動きに対し、ソ連および社会主義圏諸国が積極的支援に乗り出し、エジプト綿花の買い付け増量、ソ連のダム建設への資金的技術的援助供与に加えて、軍事介入には当時水爆開発で優位に立っていたソ連が強い警告を行った。さらにアジアやアラブの国々もエジプトの支援に廻った。こうして軍事介入にアメリカが同調しなかったこともあって、この事件はエジプトに有利に解決したのである。」(同)
 これにあるように、当初のエジプトとしては、武器輸入が出来ないかぎり、イギリスとフランスに対し、軍事的な勝利はおぼつかないところであったろう。また、その頃のイスラエルは、アカバ湾の出口であるチラン海峡をエジプト海軍に封鎖されインド洋への出口を失っていたことから、それへの反撃の機会を狙っており、戦争をより困難な方向に導くものであった。こうした状況下で、イギリスとフランスは逆提案という形で運河の国際管理案を持ち出しつつ、イスラエルをエジプトに侵攻させ、さらに両軍がスエズ地区に出兵して第2次中東戦争(スエズ戦争)に拡大させるのであった。
 軍事的な劣勢にあったエジプトのナセル大統領は、彼らに対抗するため、ソ連に接近するにいたる。その甲斐(かい)あってソ連などから戦車約300両、火砲その他約500両などを手に入れたのだという。これは、それまでの中東の軍事バランスを変えるほどの大量の兵器であった。しかし、これによってエジプトがかれらと互角に戦える訳ではなかった。その後の戦争のなりゆきは、イスラエル軍が奇襲によってシナイ半島を占領、エジプトはが後退したところで、国際世論はアメリカのアイゼンハワー大統領をふくめてイギリスとフランスを非難するにいたる。国際世論がエジプトに傾く中で、ついには英仏もスエズ運河の管理をエジプトに委ねることに合意せざるを得なかった。

(続く)

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♦️132『自然と人間の歴史・世界篇』神聖ローマ帝国

2017-09-29 10:27:01 | Weblog

132『自然と人間の歴史・世界篇』神聖ローマ帝国

 神聖ローマ帝国と呼ばれる国家(~1806)は、いつから始まったのか。一つは、962年に東フランク王国のオットーが、マジャール人などを撃退し、イタリア平定に成功したことで声望が高まると、彼はローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられる。その地理的領域は、現在のドイツを中心とした地域であったといえよう。今ひとつは、カール大帝の大フランク王国が、西ヨーロッパほぼ全体を支配するにいたった時からをいうもので、欧米ではこちらの説明の方が通常であるという。いずれにおいても、「神聖ローマ帝国」という国号が現れるのは13世紀のことであるから、ここではひとまず、その「前史」ということにしておきたい。
 さて、オットーが冠を被るようになる前のことを振り返ってみよう。843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、フランク王国は東・西フランクと北イタリアに分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが暗殺される。そのことが尾を引いたため、東フランクの帝位が途絶える。それから919年には、彼の父のザクセン人のハインリヒ1世がオットー(ザクセン)朝をひらく。新国王は貴族層を抱え込むことで東フランク王国の分裂を食い止める。
 そしてハインリヒ1世は、あることを決意するにいたる。自分の後に長男オットーを即位させるに際しては、これからの王室は長子相続でいくことを表明する。その頃はまだ、ドイツ王がその皇帝位を兼ね、かつてのローマ帝国の領域の支配権をもつことを表明する称号としての意味しかなかった。新国王は、盛んに外征を行う。そして、「ローマ帝国を担うドイツ人」という意味あいを込めての戴冠により、「ローマ帝国」皇帝と呼ばれるようになってからは、今度は東方辺境のエルベ川以東にまで進出していく。この頃のオーデル川の向こうには、既にポーランドが誕生していた。オットーは、宗教政策にも長けていた人物であり、現世における「加味の代理人」としてもふるまう。
 この「ローマ帝国」期の皇帝は、イタリア王と東フランク王を兼ねた君主であった。1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねる。ところが、こうして権力の強化に向かっていた帝国のことを、警戒していた勢力があった。1076年ローマ教皇グレゴリウスは、「ローマ帝国」の国王ハインリヒ4世を破門するにいたる。教皇は、帝国の統治範囲を、元のアルプス以北の土地、すなわち「ドイツ人の王国」に限定しようとしたのであった。その破門の翌年のカノッサ事件で、ハインリヒ4世は屈辱的な屈服をした。1122年にはヴォルムス協約が締結され、それの教皇側よ文書においては、国王による上位聖職者の叙任手続きについて、「ドイツ王国」と「帝国とその他の領域」との峻別が見られる。つまり、ここでの教皇側は、厳密な意味での「ローマ帝国」を認めているのではなくて、王権の範囲を「ドイツ王国」に限定しようとしたのであった。
 ところが、1157年には、その力関係に変化が起きる。フリードリヒ1世(バルバロッサ)が、皇帝の地位を教皇よりも上位にあり、神から与えられた聖なる地位であるという意味で「神聖帝国」の国号を使うにいたる。世俗権力がより大きくなってきたのである。この間のローマ帝国皇帝は、オットー1世以来のザクセン朝)(962~1024)からザリエル(フランケン)朝(1024~1125、一時ザクセン朝に戻る)へ、次にシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン)(1138~1254)へと王統が入れ替わっていく。さらに、そのシュタウフェン家の断絶後の諸侯による選挙で二人が同時に選ばれ、そのどちらも帝国内にいないという意味での、大空位時代(1254~1273)に突入する。その始まりの頃からは、皇帝と諸侯が自らを呼ぶときに「神聖ローマ帝国」(Holy Roman Empire)が使われる。ただし、皇帝は、イタリアへの関心を強く持ちながらも、ドイツ地域においては有力諸侯がそれぞれ領邦を形成していたことから、皇帝の支配権はだんだんと十分に及ばなくなっていく。
 そして迎えた1273年、かかる「大空位」を解決することを目指して、諸侯は相談して、神聖ローマ帝国の帝位をハプスブルグ家のルードルフに与えることにし、彼が選挙でてい皇帝に選出される。その後も、諸侯による選挙で皇帝が選出されるが、有力家系が続いて選出されることが多かった。具体的には、ハプスブルク家、ナッサウ家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバハ(バイエルン)家などがめまぐるしく交替し、同時に二人が選出されることによる二重選挙もあったりで、皇帝の座は安定しなかった。ようやくルクセンブルク朝(1346~1437)のカール4世が出て、1356年に金印勅書を定めることでドイツの有力な7選帝侯による選挙で選ばれると定める。その選帝侯には、裁判権や貨幣鋳造権など、自治権が広く与えられる。
 1438年、ルクセンブルク家の断絶を受けた選挙によってハプスブルク家のアルプレヒト2世が選出されると、以後ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の帝位をほぼ独占して世襲することで、帝位が維持されていく。マクシミリアン1世治世の1495年から行われた帝国改造によって、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなっていく。この頃までには、皇帝のイタリア王権・ブルグント王権は失われるにいたっていた。さらにその後の神聖ローマ帝国だが、17世紀の中頃からは急速に力を失っていく。その皇帝位はハプスブルク家が継承して細々と続いていたのだが、ナポレオン戦争で敗れて1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位して、844年に及ぶ歴史に幕を下ろす。

(続く)

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