♦️805『自然と人間の歴史・世界篇』南アフリカでのアパルトヘイトの廃止

2017-09-30 23:19:29 | Weblog

805『自然と人間の歴史・世界篇』南アフリカでのアパルトヘイトの廃止

 ここに「アパルトヘイト」とは、南アフリカ共和国で1948年から始まり、1990年代まで続いた人種差別政策のことである。そして、この言葉の意味としては、同国で使用されているオランダ系現地語である「アフリカーンス語」においては、「分離」または「隔離」というものであった。
 さて、1990年2月2日、デクラーク大統領がANC(アフリカ民族会議)の合法性を認める見解を発表する。2月11日には、政府がANC(アフリカ民族会議)名誉議長部にて監獄に幽閉されていたネルソン・マンデラを釈放する。
 7月4日、イギリスのマーガレット・サッチャー首相がネルソン・マンデラとダイニング街10番地の首相官邸で会談を行う。サッチャーは、その時のことをこう振り返っている。
 「私は会談のなかで四つの点を指摘した。第1に、私は彼に〃武装闘争〃を停止するよう強く求めた。かつてはどのような正当性があったにせよ、それは終わった。第2に南アフリカ政府は新憲法を制定するための制憲議会を選挙で選ぶことに反対していたが、私は同政府の主張を支持した。白人社会の信頼、法と秩序を維持するためには、政府、ANC、インカタ(ブテレジ首長によるズール族を中心とした民族文化開放運動)、そのほかの勢力がすぐに憲法に関して合意すべきだった。第3に、マンデラ氏が国有化を口にすることが外国からの投資など経済全般におよぼしかねない害を指摘した。最後に私は彼がブテレジ首長と個人的に会うべきだとも主張した。」(マーガレット・サッチャー著・石塚雅彦訳「サッチャー回顧録 下」日本経済新聞社、1993)
 1991年6月に、南アフリカ共和国がそれまでの国策としてのアパルトヘイトの終結を宣言する。これを境に、国民融和の地ならしとして、アパルトヘイト政策が撤廃されていく。この政策を支えていたのは、基本的に4つの法律であり、それぞれの内容と、その撤廃の年代は次のとおりである。まず人口登録法は、出生児の人種別の登録義務を定めていたが、1991年6月に撤廃される。集団居住地法は、国民に対し、人種別に居住地の地域等を定めていたが、1991年6月に撤廃された。施設分離法は、国民に対し、人種別に公共施設の使用を定め、具体的には人種によって学校や病院などの公共施設の利用制限を決めていたが、1990年10月に撤廃された。そして土地法は、白人以外の人種の土地所有を制限したものであったが、1991年6月に撤廃された。
 これらの改革を踏まえ、1994年には、初の全人種選挙が実施された。この選挙でアフリカ民族会議(ANC)が勝利し、政権を掌握し、ネルソン・マンデラが大統領に就任する。1997年には、これまでの政策の総仕上げとして、全人種の平等などを柱とする新憲法が施行された。

(続く)

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♦️106『自然と人間の歴史・世界篇』ササン朝ペルシア

2017-09-30 10:16:41 | Weblog

106『自然と人間の歴史・世界篇』ササン朝ペルシア

 紀元後の3世紀になると、パールス地方のペルセポリス付近に定住し、パルティア帝国に支配されていたペルシア人の貴族アルデシール1世が、パルティア帝国の王と対立し、224年に王を討つ。226年クテシフォンを陥れる。これにより、パルティア帝国は衰退かせ滅亡への道へと下り、パルティア帝国に取って替わる形で、アルデシール1世は初代のペルシア王となる。こうして古代イランの地にあらわれたこの王朝を、ササン朝ペルシア帝国(226~651)という。アケメネス朝ペルシア帝国以来のペルシア人の王国の誕生である。
 ここに「ササン」とは、アルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティア帝国と同じクテシフォンに置かれた。パルティア帝国が遊牧イラン人主体であった。これに対し、この帝国は農耕イラン人であるペルシア人が建国した。さらにアケメネス朝時代からペルシア人の拠り所であり、アルデシール1世が祭司の家柄であるササン家出身であることから、この王朝は自らの正当性をイランの伝統を継承することに置く。その一環としてか、230年にはゾロアスター教を国教にして、宗教面からも国家統一をはかる。
 こうして新しい王朝をひらいたアルデシール1世であるが、彼は、西方のローマ帝国(紀元前27~紀元後395)の皇帝セウェルス・アレクサンデルと長きにわたって戦ったものの、破れる。けれども、ローマ帝国に対して力で渡り合ったという意味では、面目を保ったのではないか。そのアルデシール1世没後、王位を継承した子のシャープール1世は、ペルシアの中央集権化に努めた。彼は、外征にも積極的であった。東方へ向けては、インドのクシャーナ朝(1~3世紀)を敗ってアフガニスタンに進出した。また、父の代から抗争を続ける西方のローマ帝国とも戦い、軍人皇帝ヴァレリアヌスと対決し、260年皇帝を7万余のローマ軍とともに捕虜とする、これを「エデッサの戦い」という。ペルセポリス近郊にあるナクシェ=ルスタムの岩壁に刻まれた戦勝記念碑には、ヴァレリアヌス帝が馬上のシャープール1世の前で跪いている姿が彫られている。その後も、389年アルメニア地方をローマと分割して統治するにいたる。そのアルメニアの帰属をめぐって、ローマ帝国とササン朝との抗争は続く。シャープール1世はアルメニアに進出してローマ軍を破り、東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫する。
 395年には、ローマ帝国は東西に分裂する。ササン朝にとっては東ローマ帝国(ビザンツ帝国、395~1453、ただしコンスタンティノープル遷都の年である330年を建国年とする場合もある)が新たな敵となる。ササン朝第15代バフラーム5世治世の425年、アフガニスタン北部に興っていたエフタルと激戦を交わされる。ササン朝は西のビザンツ帝国、東のエフタルと、2大強敵と戦う宿命に立たされた。
 ササン朝最大の君主・ホスロー1世(在位は531~579)の時代になると、6世紀に中央アジアに興ったエフタルに侵入され、一時衰えていた。そしてホスロー1世が出て国力を回復し、エフタルを撃退するとともにビザンツ帝国と互角に戦うにいたる。こうしてホスロー1世はササン朝の盛り返していくのであった。562年には、エジプト遠征を行い、翌563年にはトルコ系遊牧騎馬民族突厥(とっけつ、552~744)と同盟を結んでエフタルを挟撃してこれを滅ぼし、バクトリア地方を征服、570年には南アラビア(イエメン地方)遠征を行い、同地を占領した。ホスロー1世の最大の対決相手は、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世、在位527~565)だった。当時のビザンツ帝国は、周辺のゲルマン国家、534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を征服)を下し、を次々と征服して国力を上げていた。
 ホスロー1世は、対外政策を有利に進めるばかりでなく、内政においても有能であった。国土を4行政区に分割して土地台帳をつくり、地租制度を入れて財政を強化した。バビロニアでは運河を建設し、古代メソポタミアからの灌漑農業を発展させ、国内の交通路も整備していく。宗教面では、シャープール1世の時にマニ教が保護されたことがあったのだが、ホスロー1世は国教としてのゾロアスター教(火を扱うことから「拝火教」ともいう)の整備に努め、聖典『アヴェスター』を編纂させる氏法では、マニ教は異端として禁止される。また、ササン朝の文化はシルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えていく。他の宗派に向けては、マズダク教の弾圧とキリスト教の寛大策がある。さらに431年、ホスロー1世はビザンツ帝国におけるエフェソスの公会議で、異端とされたキリスト教・ネストリウス派(キリストの神性と人性を分離して解釈する一派)を、反ローマ帝国の一環として受け入れる。
 また、過去の君主と比べても群を抜く文化の保護者であった。諸外国から学問・芸術品・特産物を取り入れていく。最も輝きをなしたのは工芸品であろうか。金・銀・青銅・ガラスなどを材料にして皿・瓶・香炉・陶器などが製作された。この工芸文化は、その後ペルシアに現れるイスラム世界でも影響を受け、西は地中海諸国を中心に、東はインド・中国(南北朝・隋唐時代)をへて、日本の飛鳥・奈良時代にも伝播するのである。奈良の正倉院(しょうそういん)には白瑠璃碗(しろるりわん)・漆胡瓶(しつこへい)、同じく奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)においても獅子狩文錦(ししかりもんきん)などがその代表である。他にも、「ササン朝美術」は、現在も異彩を放っている。語学ではこれまでのパフレヴィー語に加えギリシア語・サンスクリット語が研究されたという。全体に、アケメネス朝以来の伝統文化にインド、ギリシア、ローマといった東西の諸外国文化を融合させ、新しいペルシア文化を開花させた。
 ホスロー1世の治世後も、ビザンツ帝国と何度も戦う。有名なのは、ホスロー2世の治世になっての27年のニネヴェの戦いでは、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスの軍と激突する。そのホスロー2世の治世下でシリアやエジプトを攻略するなどしたことで、ササン朝の版図は最大となった。しかし、対外政策における軍費負担は、帝国の財政を逼迫させていく。諸侯の内部対立も激しくなっていった。ホスロー2世没後のササン朝ペルシア帝国の君主は、ほぼ1~2年の王位交代劇を繰り返していき、だんだんに国力が衰えていった。その間もボスボラル海峡を挟んで西の東ローマ帝国とも戦わねばならなかったこともある。そして、正面を向いては、新たなる敵・アラブのイスラム軍の来襲も始まる。
 そして迎えた7世紀、ササン朝最後の王ヤズデギルド3世(在位は532~651)のとき、しかし、長期にわたるビザンツ帝国との抗争は次第に国力を奪い、その間にアラビア半島に興ったイスラーム教勢力がササン朝領に侵攻を開始していた。642年、アラブの正統カリフのウマル1世(在位は634~644)のイスラム軍が、ササン朝における交通の要衝であったニハーヴァンド(ザクロス山脈北西方面)でペルシアと大戦争を繰り広げる。そして、ペルシアのヤズデギルド3世の軍はウマルの軍に完敗、ウマルはササン朝ペルシアの領域を占領する。ヤズデギルド3世はカラクーム砂漠南部のメルヴまで逃亡する。これを「このニハーヴァンドの戦い)」といい、これをもってササン朝ペルシアは滅亡した。これによってイラン人のイスラーム化が進み、西アジア史は一変していく。

(続く)

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♦️105『自然と人間の歴史・世界篇』アケメネス朝ペルシア

2017-09-30 10:13:37 | Weblog

105『自然と人間の歴史・世界篇』アケメネス朝ペルシア

 アケメネス朝ペルシアを語るには、どのくらいまで遡るべきだろう。アッシリア帝国(?~紀元前612、首都はアッシュール、紀元前8世紀末からはニネヴェ)。アッシュール・バニパル王(在位は、紀元前669~626)のもとで最盛期を迎える。紀元前612年には、リディア王国(小アジア地方、インド・ヨーロッパ系)、メディア王国(イラン高原、インド・ヨーロッパ系)、カルデア王国(バビロン地方、セム系)、そしてエジプト王国(第26王朝)に分立するにいたる。
 これらのうち、メディア王国は、ペルシアとメソポタミアを治めていた。そんな中でも、イラン地方では、配下にあったインド・ヨーロッパ系のペルシア人(イラン人)が独立心にを強めていく。現在イラン南部に位置するパールス(パルサ。アラビア語では「ファールス」)がラテン語化し、「ペルシア」と呼ばれるようになったという。始祖アケメネス(生没年不明)のもとでおこったが、やがて、キュロス2世がペルシア人の王として振る舞うようになってからは、メディアからの解放運動が激化していく。紀元前550年には、メディア王国の最後の王を殺害し、メディアを滅ぼしたキュロス2世は、スサ(スーサ。イラン西南部)を都にアケメネス朝ペルシアを(紀元前550~同330)建国し、同国の初代君主となる
 キュロス2世は、紀元前546年にリディア王国、紀元前538年に新バビロニア王国を滅ぼし、領土を拡大していく。戦いに明け暮れるばかりではなく、新バビロニア王国を征服した後には、バビロン捕囚(紀元前586~同538)を受けていたユダヤ人をパレスチナに解放し、被征服民に対しても信仰の自由、祭祀・慣習許可など寛大な対応を行った。キュロス2世の没後、王位に就いた子カンビュセス2世は、紀元前525年にエジプトにも侵攻して第26王朝を滅ぼし、第27王朝をおこした。これによりアケメネス朝ペルシアは、古代オリエントのみならず、東はインド西部、西はエーゲ海、北は中央アジア、南はアフリカの地中海沿岸部その他まで、ほぼ全オリエント統一を達成し、それまでの歴史上アッシリア帝国に次ぐ第2の地理的領域をもった世界帝国となる。
 アケメネス朝ペルシアを全盛期に導いたのは、カンビュセス2世没後に即位した三代目のダレイオス1世(在位は紀元前522~同486)である。彼の功績は、イランのケルマンシャー東方にある楔形文字(ペルシア文字)の磨崖碑・ベヒストゥーン碑文に刻まれている。ダレイオス1世は、これ以外にも税制(サトラッピア単位に徴税額を決定)や新貨幣制度(金貨・銀貨鋳造)を行う。さらに、スサ南西(現在のイランの首都テヘランの南約650キロメートルのところ、ファールス州にある)に王都ペルセポリスを建設するにいたる。この都市の建設は、紀元前520年頃に始まり、それからほぼ60年後に完成したというから、驚きだ。かくも大規模な都市の正門とされるクセルクセスの門(通称「万国の門」)を入ると、人面右翼獣身像が居丈高な姿で迎えてくれる。貢ぎ物を持って訪れる属国の使者は、さらに進んで最大の宮殿アバダナ(謁見の間)に進んだのであろうか。ペルセポリスには、楔形文字で刻まれた碑文(ペルセポリス碑文)や階段のレリーフがちりばめられ、帝国の権威を演出する役割を担っていたと考えられる。
 その後、ダレイオス1世は、イオニアをめぐってギリシア・ポリスと戦闘を交えるものの(これをペルシア戦争という。紀元前500~同449)、勝利するにはいちらなかった。その後に子のクセルクセス1世がこれを受け継ぎ戦うが、これも敗退を重ねる。その後はゆるゆると衰退し、最後の王ダレイオス3世も東方遠征を行っていたマケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356~同323)の軍と戦って敗死してしまう。紀元前330年、首都のペルセポリスはマケドニアのアレキサンダー大王の侵略による火災で炎上し、アケメネス朝ペルシアは建国220年目にして滅亡する。
 アケメネス朝滅亡後には、ペルシアはアレクサンドロス帝国による支配下に置かれた。アレクサンドロス大王没後、帝国は分立し、領土の大半を継承したセレウコス朝シリア(紀元前312~同63)の統治となる。その後、中央アジアからバクトリア(ギリシア系)、カスピ海東南地方(パルティア地方)からパルティア(イラン系)が独立した。その1つパルティア王国はイラン系遊牧民の一派パルニ族首長アルサケス(生没年不明)がティリダテス1世として、ヘカトンピュロスを首都にアルサケス朝パルティア(紀元前248?~226?、中国読みでは「安息」(あんそく)という)を創始したことに始まる。セレウコス朝を西へ追って、領土を拡げていったパルティア王国だが、ミトリダテス1世(在位は危険前171~同138)のとき王国として確立し、バビロニア侵入後の紀元前141年、ティグリス河畔にあったセレウコス朝のセレウキアを陥れる。また紀元前129年、同地近郊に新都クテシフォンを建設、セレウコス朝滅亡後はローマ帝国と戦いを交わしていく。

(続く)

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