♦️664『自然と人間の歴史・世界篇』イラン革命への道(1963~1980)

2017-09-08 21:21:13 | Weblog

664『自然と人間の歴史・世界篇』イラン革命への道(1963~1980)

 1963年、パーレビ国王が土地改革を中軸とする「白色革命」を提唱しました。これは、大地主の勢力を排除しようとするものでした。そのねらいは、石油と鉱工業を中心とする急速な工業化を進めることでした。
 その政治手法は、国民の基本的人権を踏みにじるもので、6万人に及ぶ秘密警察網を使って政策に批判的な国民を圧殺しながら進められました。宮崎義一氏は、こう分析しておられる。
 「当然、農村と都会の間の経済的格差は拡大する一方となった。1959年、農村所得と都市所得の比は1対4.6であったが、66年には、それが1対5.7に拡大した。
 次に都市の内部にも、近代工業と伝統的なバザールの間に亀裂が深まってきた。超近代的な鉱業に対しては、イラン鉱工業銀行からオイルダラーを源泉とする低利の融資が与えられたが、従業員100人以下の伝統的な商工業者によって構成されているバザールに対しては、その便宜は与えられず、バザール内部の金貸しからの高利の融資しか許されなかった。つまり、シャー・パーレビは、イランの経済成長を可能な限り加速することを最善の経済政策と考え、イラン経済の不均衡拡大を承知の上で、偏向的な超近代化政策を敢行したのである。」(宮崎義一「世界経済をどう見るか」岩波新書、1986、78~79ぺージ)
 「その傾向を一層推進したのが、第一次石油危機以降の石油価格の高騰である。イラン第五次5カ年計画(1973-78年)は、石油危機によって目標成長率を上方修正し、それを、実に、25.9%まで高めた。パーレビ国王はこれを実現し、1990年代までにイランを世界の五大工業国(アメリカ、ソ連、EC、日本、イラン)の一つにしたいと考えていた。1973年12月、第一次石油危機の渦中で行われたニューヨーク・タイムズ紙記者のインタビューの中で、「いま、私自身がイランに期待していることは、20年か25年以内に、イランが世界の偉大な先進国の先頭に立つようになることである。これは非常に野心的であるが、必ず実現すると確信している」と公言していた。しかしその結果は、激しいインフレーション(年30%以上)所得格差の拡大、労働者不足、住宅問題などの社会問題の発生によって、国王に対する不満を強めていった。
 ところが、このパーレビ政策を先進工業国は大いに歓迎した。なぜならば、性急な近代化政策のため先進国からの対産油国向け輸出が急増することになったからである。先進工業国にとっては、石油代金は4倍に上昇したとしても、産油国が受け取った石油代金より多額の先進国の工業製品を輸入してくれさえすれば、貿易収支と経常収支の赤字は解消することになるる。しかもその工業製品の輸出価格が、高騰した石油価格をコストの中に十分組み入れた新価格体系を実現しておれば、なおさらのことである。(中略)
 しかし、その反面、すでに述べたようにこのパーレビの五カ年計画は、イラン国民に対して重大な経済困難をもたらした、近代的工業化重視のパーレビ政策に対する国内の怨嗟の声は高まるばかり。この高まる怨嗟は、ついてイランの五カ年計画を挫折に追い込むこととなる。そのため、1977年8月、パーレビ国王はアムゼガル内閣を成立させ、成長率抑制にふみきったが、それは、当然大量の失業者を生み出すこととなった。1977年の経済成長率は2.7%に低下、そしてついに1978年、経済成長はマイナスとなり、失業者の激増とバザール中小業者の不満と、それにシーア派イスラム勢力の結集による反体制国民運動の発生に至る。
 その年12月11日「アシュラ」とその前日にはテヘランで国王に退位を迫る100万人(全国で500万人)のデモとなり、ついに79年1月16日、パーレビは国外に追放され、ついで2月にはホメイニ師が帰国、そして3月、イラン帝国は崩壊し、ホメイニ氏の主張するイスラム共和国政府の樹立となる。いわゆる「イラン革命」である。暫定革命政府によって採用されたのは、「資本主義でも社会主義でもない」イスラム経済政策であり、銀行、産業の国有化、大規模開発工業の中断、ないし縮小であった。
 かくてパーレビの着手した早すぎた近代工業か政策はここで完全に頓挫するばかりか、加えて、「イラン革命」をバックとする第二次石油危機の勃発によって、先進工業国の経常収支の黒字はわずか78年の1年間だけで終わり、79年から再び280億ドルに及ぶ大幅赤字に転落し、第二次OPEC不況に突入することになるる。」(宮崎義一「世界経済をどう見るか」岩波新書、1986、78~81ぺージ)

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️884『自然と人間の歴史・世界篇』ドバイショック(2007)

2017-09-08 21:11:45 | Weblog

884『自然と人間の歴史・世界篇』ドバイショック(2007)

 アラブ首長国連邦は、1971年12月に独立した。このアラブ首長国連邦(UAE)を構成する7首長国とはアブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマーン、ウンム・ル・カイワイン、ラアス・ル・ハイマ、フジャイラである。その中の一つ、ドバイは、2007年には年18.1%増であった国内総生産(GDP)成長率は、2009年になるとマイナス2.4%に落ち込んでしまった。これを「ドハイ・ショック( Dubai's shock)」と呼んでいる。
 では、ドハイ・ショック( Dubai's shock)はどのようにして起きたのでしょうか。
ドバイ・ショックは、2009年11月下旬にアラブ首長国連邦(UAE)の一員であるドバイ首長国が背負っている債務の大きさから「ドバイの支払い能力」への国際的な懸念が起き、それを巡って世界中に広がった信用不安のことをいいます。
 ドバイ首長国政府が同年11月25日に、ドバイの代表的な政府系持ち株会社のドバイワールドと、その傘下の不動産開発会社のナキールが抱える全ての債務の支払いを猶予してもらうよう、返済繰り延べを債権者に要請する、と発表しました。政府によると、ドバイワールドの債務はナキール分を含めて総額590億ドル(日本円では約4兆6千億円)を上回るとのことでした。
 ドバイ首長国は、UAEの首長国の一つで、連邦の首都があるアブダビ首長国が大量の油田を持つ一方で、ドバイは原油をほとんど産出しません。そこで、原油に依存しない経済で何とか自立することをを目指していました。
 具体的には、港湾開発や航空網の整備を進め、その地理的な優位性を生かして中東湾岸地域の商業・交通拠点を目指していました。そこで問題なのは、その目標を達成するために、官民一体となって、巨額の借り入れを繰り返して大型開発を進めてきたことにあります。
 しかしながら、2008年秋の「リーマンショック」を皮切りにして、世界的な金融危機後に同国への資金流入もまたやせ細っていきました。その過程で、それまで右肩上がりであった不動産価格も大きく下落したことで、これまでの開発・成長モデルに大きな陰りが生じ、そして開発資金の多くを借金に依存していたことによる、債務返済、つまり資金繰りに窮するに至ったのでした。
 バイ首長国政府は、国際社会に対して、返済期日を2010年5月30日まで繰り延べてもらいたいとしました。
 これに対して中東の湾岸諸国と取引の多い欧州金融機関への収益懸念などがドミノ式に広がっていきました。英国やドイツ、フランスなどの主要株式市場で欧州株が急落すると共に、ユーロなどの通貨も売られ、これが世界の金融市場の閉塞感の侵攻に拍車がかかる、という負の連鎖反応が市場を駆け抜けていきました。
 日本に関しては、日本株が大きく売られる一方で、消去法的に円が大きく買われたため、外国為替市場で円相場の上昇があり、2009年11月27日の日本時間の早朝には、一時、14年4カ月ぶりの高値となる1ドル84円台まで上昇した。
 その後については、ドバイ政府自体の信用不安に直結する可能性もあることを憂慮した同じアラブ首長国連邦の一つ、石油資源を持ち、金融センターをも持つアブダビが「兄弟国」であるドバイ救済に乗り出すことで、ドバイが経済的破綻を回避させるべく動き始めたのに始まります。
 具体的には、アブダビ政府政府などが100億ドルをドバイに支援したことでドバイの危機的状況はぎりぎりで国家的破綻を免れたのでした。実際の返済塩基の対象債務の額は260億ドルと言われています。ナキールどうなったかと言えば、ドバイワールドから切り離されてドバイ政府の管理下に置かれることになったのです。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️680『自然と人間の歴史・世界篇』国境紛争1(イラン・イラク戦争、1980~1988)

2017-09-08 21:00:43 | Weblog

680『自然と人間の歴史・世界篇』国境紛争1(イラン・イラク戦争、1980~1988)

 1980年9月22日から1988年8月20日までの約8年間に渡って、イランとイラクが戦争を交えました。
 戦争に至った背景には、アラブ世界の覇権争いがあったことがうかがわれます。
直接的な契機の一つは、1975年に両国間で結ばれた「アルジェ協定」にあり、この協定では『両国の国境を、シャトル・アラブ川の中心とする』という内容でした。イランが長年これを守らなかったとして、イラクが宣戦布告する理由に挙げられました。
 民族的な問題も指摘されています。イランはペルシャ系、イラクはアラブ系という民族的な違いがあります。同じイスラム教でも、イランはシーア派が多数を占めている上に主導権を握っています。一方、イラクは国内ではシーア派が大多数にも関わらずスンニ派が主導権を握って政界と産業界の要職わ占めていました。
 イラクのフセイン政権がイランの革命の波及を恐れたことも戦争を仕掛けた理由の中に入っていたことでしょう。
 戦争の経緯については、1980年の9月22日にイラク軍がイラン領に侵攻して始まりました。緒戦はイラクに有利でしたが、翌年南部戦線でイランが反攻し、1982年には逆にイラン軍がイラク領に入り込んできて形勢が逆転しました。
 その後は一進一退で、戦争が長期化するに従って、国際的な石油戦略に影響が出始め、特にアメリカが関わるようになると複雑化の様相を呈してきた。
 これを憂慮した国連が、1987年の安全保障理事会で両国に対し、即時停戦を求める決議を全会一致で採択しました。形勢不利と見ていたイラクはこれを受諾する意向を示しました。ところが、イランは先に仕掛けてきたのはイラクだとして、フセイン大統領を国際裁判にかけ、彼と彼の勢力の失脚を要求して、これが認められないとなると停戦要求を拒否しました。
 が、イランのペルシャ湾でのアメリカの石油タンカー誤爆などでアメリカとの関係悪化し始め、この圧力や国際世論に屈した形でイラン側も1988年8月20日になり停戦に応じたことで、戦争は終結しました。
 この戦闘による双方の死傷者は、多大であり、互いに国力を消耗する結果となりました。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️606の1『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)

2017-09-08 19:59:59 | Weblog

606の1『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ3(テヘラン協定とリヤド協定)

 1969年9月、リビアでは、カダフィ大佐の指揮で新政権が樹立され、かれらはリビアで操業している独立系石油会社に対し、原油公示価格および石油所得税率の引き上げを要求しました。独立系石油会社は当時、リビア産原油に大きく依存していましたので、リビアの要求を大筋で受け入れざるを得ませんでした。
 1970年12月、OPECの第21回総会がベネズエラのカラカスで開かれました。
この会議においては、原油公示価格のさらなる引き上げ、石油の利益に対する所得税率を最低55%へ引き上げるとともに、従来行っていた石油会社に対する値引きを禁止することで、先進諸国によるインフレに伴う産油国側(発展途上国)の購買力の低下を補償する必要がある、などの方針が決議されました。
 これを受けてペルシア湾岸産油6か国が、イランの首都テヘランにおいてメジャーズ(13社)との交渉に入り、その交渉の結果、1971年2月14日にはテヘラン協定(tehran agreement/ teheran agreement)が締結されました。その内容の概略は次のとおりでした。
①ペルシャ湾岸原油の公示価格を一律に1バーレル当たり30セント引き上げる。
②税法上従来認められていた公示価格からの諸控除を撤廃する。
③公示価格を1975年までの毎年1バーレル当たり2.5%プラス5セント引き上げていくこと。
④ペルシャ湾岸6カ国は、本協定の期間中は、他地域の産油国において本協定と異なる事項を適用した場合でも、本協定を上回るものは求めないこととする。
⑤利益に対する所得税率を1975年までに最低55%に引き上げることとする。
 このテヘラン協定の最大の意義は、何であったのでしょうか。それは、OPECが国際石油市場における全般の、もう一方の当事者として認知されたということに他なりません。これを受けて、1971年4月、リビアはメジャーズとの間に「トリポリ協定」を締結しました。
 また、テヘラン協定は1975年までのペルシャ湾岸産の石油の公式価格を固定させようというものでしたが、1971年8月のいわゆる「ニクソン・ショック」以来の度重なる米ドルの切り下げ、国際通貨変動に対処して、1972年1月20日にテヘラン協定の補正としてジュネーブ協定、さらには新ジュネーブ協定が結ばれ、アメリカを中心とする国際通貨の変動に伴って米ドル表示の公示価格をその都度変動させることになりました。 続いて、1972年12月になると、もう一つの大きなOPECの攻勢が実を結ぶことになります。それは、1968年6月のOPEC総会で石油利権への経営参加という考え方が初めて示されたのに始まります。その後、この考えはさらに具体化され、1972年1月からメジャー側との交渉が始まりました。メジャーズはこれに対してはなかなか譲歩しようしませんでした。なぜなら、この潮流の拡大が続けば、やがて産油国側との石油利権を対等の立場で決めていくこともあやうくなるであろうことを見通していたからです。しかし、ここでも結局、メジャー側が譲歩を余儀なくされ、1972年12月に、既存の石油利権のうち25%分を産油国のものとして認めること、そして1983年まで産油国側の経営参加率を51%にまで引き上げることで交渉がまとまりました。これが「リヤド協定」と呼ばれているものです。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


♦️605『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ2(1960年9月~第一次石油ショック前)

2017-09-08 19:47:01 | Weblog

605『自然と人間の歴史・世界篇』産油国と石油メジャーズ2(1960年9月~第一次石油ショック前)

 それから約1ヶ月後の1960年9月にOPEC(石油輸出国機構)が結成されますが、その精神的支柱となったペレス・アルフォンソの思想とは、自国だけでなく、産油国全体が結束してこそおのおのの石油資源維持策を進めていくことができる、というものでした。ここに、双方の石油を巡る争いは新たな段階へと歩を進めます。
 このOPECの1960年9月14日の結成時点での(「原加盟国」という。)は、イラン、イラク、サウジアラビア、クウェート、そしてベネズエラの5か国でした。
 この第1回のOPEC総会(会場はバグダット、本部はオーストリアのウィーン)は、石油の公示価格をメジャーによる引き下げ以前の水準に戻すよう要求を突きつけることでの決議を採択しました。しかしながら、当時の石油の需給がゆるみつつあったことや、発足時のOPEC側の生産規制の足並みをいっぺんに整えることの困難であることなども加わり、彼らの要求実現はかないませんでした。
 その後、1962年6月、OPEC総会は新たな要求をとりまとめました。それは、従来、メジャーズ等の石油会社から産油国政府に支払われる利権料が、産油国に納付する税額から差し引かれていたのを改め、以降は、その利権料を税額から差し引かない形にすることが決議されたのでした。この決議が採択されて以降のメジャーズとの粘り強い交渉の結果、1964年にはメジャー側はOPECの要求を受け入れることになりました。
 さらにその後、1965年と1966年の二度にわたり、産油国側としての生産計画を策定するとともに、彼らにとって適正かつ有利な水準で公定価格を決定しようとの試みはあったものの、まだ当時は石油需給が引き締まっておらず、そのため生産規制による価格引き上げよりも、自らの石油生産を増やすことで石油収入を増加を図ることの方が現実的と判断していたため、その試みは結局実を結ぶことはありませんでした。
 次の機会は政治がらみで、1967年6月に発生した第三次中東戦争のときに訪れました。このとき、石油を持つアラブ諸国はバグダッドにおいて外相会議を開いて、イスラエル側に圧力をかけるため、その後ろにいる先進国メジャーに対し石油供給の制限策をとろうしたものの、イランとベネズエラが加わっていなかっこと等の理由から、これも失敗に終わりました。
 その翌年の1968年、サウジアラビア、クウェート、そしてリビアの三国は、互いに結束を固めてメジャーズに立ち向かうため、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成するに至りました。また、OPECの陣容も、1961年にカタールが、1962年にリビア、インドネシア(石油純輸入国になったことを理由に2008年末に脱退)が、1967年にアブダビが、1968年にはアラブ首長国連邦(UAE)が、1969年にアルジェリアが、1971年にはナイジェリア、1973年にエクアドル(1992年に「加盟国の停止」を受けて脱退した)が、1975年にガボン(1995年に脱退)が、それぞれ加わっていきます。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆