♦️128『自然と人間の歴史・世界篇』西ヨーロッパの形成(フランク王国の盛衰)

2017-09-28 21:38:55 | Weblog

128『自然と人間の歴史・世界篇』西ヨーロッパの形成(フランク王国の盛衰)

 フランク王国は、元はライン川の東岸周辺にいたゲルマン人の最有力の一派、フランク人が打ち建てた国とされる。いわゆる「ゲルマン人の大移動」の一つの流れで、だんだんに西方へ移動していく。476年に西ローマ帝国が滅亡してからは、その後を襲い、ライン川と右岸からガリア(現在のフランス)に侵入していく。当時のかれらは、大まかにサリ族とリブアリ族という支族にわかれていた。それぞれ『サリカ法典』、『リブアリ法典』というラテン語で書かれた部族の規則をもっていたという。
 481年、フランク人のサリ族のメロヴィング家のクローヴィスがフランク人の各部族を統一する。相次ぐ戦いで西ゴート人他の勢力を下しつつ、北フランスの大方を占領し、自ら王をなることでメロヴィング朝フランク王国(481~751)を建国する。
 5世紀末頃、クローヴィスが改宗してアタナシウス派に帰依するにいたる。これにより、ローマ・カトリック教会と結びつく端緒をつくる。彼の後継者たちも、このローマとの友好関係を深めていく中で、534年にはチューリンゲン王国やブルグント王国を攻めて滅ぼし、ガリア全域を手に入れる。フランク人たちは、ライン川中流域からマイン川流域へと進出し、この地域はその後に「フランケン」と呼ばれることになる。とはいえ、メロヴィング朝はゲルマン人の分割相続制を継承していた。そのことから混乱が繰り返され、6世紀半ばには東北部(アウストラジア)、中西部(ネウストリア)、南部(アクイタニア)、東部(ブルグンド)の4つに分かれる。国王も4人いて、互いに覇を競い合うということになる。
 それでも、7世紀初めのクロタール2世の時にいったん統一は回復されたが、その内実は、一致団結とはほど遠いものであったとか。そのうちに、クロタール2世を助けたピピン(大ピピン)のカロリング家が、宮宰として実権を振るうようになっていく。このカロリング家だが、王国東部の分国であるアウストラシアの宰職を代々継承していた。またこの頃から、ヨーロッパ南部へのイスラームの侵入が激しくなっていく。ここにして、メロヴィング朝は存亡の危機に立たされる。732年にカロリング家の宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエの戦いでイスラム勢力の進出を食い止めると、カロリング家の名声がさらに高まっていく。
 そして迎えた751年、カール・マルテルの子ピピン(小ピピン)が他の内部勢力を抑え、既に名目的存在と化していたメロヴィング家を押し退け、新しい王位に就きピピン3世となることで、カロリング朝フランク王国(~987)を創始する。その見返りに北イタリアのランゴバルト王国のラヴェンナ地方を攻め取る、そして、この奪いとった土地であるラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進するにいたる。768年、その息子のカールが後を継ぐと、彼は774年に北イタリアに侵攻してランゴバルド王国を滅ぼし、800年にはローマのサンピエトロ寺院でローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられる、これを「カールの戴冠」と呼ぶ。このようにしてローマ教会の保護者としてキリスト教世界の中の宗教的権威の座をも獲得したことで、カール大帝のフランク王国は西ヨーロッパのほぼ全域を支配する王国へとのし上がっていく。
 現在のフランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・北イタリアを合わせた地域に加えて、東方ではハンガリーに侵入したアヴァール人を撃退したカール大帝であったが、イベリア半島ではイスラーム勢力と戦った。大帝は当時の上層階級の文化の守護にも熱心であり、アーヘンの宮廷にイギリスから神学者アルクィンを招くなどしたという。しかし、地中海はイスラム勢力によって抑えられたため地中海を掌握することでの遠隔地貿易は行うことができず、西ヨーロッパには農業生産を基盤とした封建社会が続くこととなった。
 やがてカール大帝の子や孫たちの時代になると、封建制度のもとにあったフランク王国の統一性の弱さが路程されていく。カール大帝の死後は分割相続というゲルマン社会の相続制度もあって、大フランク帝国の領土は分割へと向かっていく。843年のヴェルダン条約において、まず東フランク王国ができる。それから中部、そして西部のフランク帝国と分かれていく。これらのうち中部フランク王国は、やがてロートリンゲン(現代のフランスのロレーヌ)、ブルゴント(現在のフランスのブルゴーニュ)、そしてイタリアの三つに分割されていく。さらにその後の歴史の経過において、東フランク帝国はロートリンゲンを併合して今日のドイツにほぼ相当する地域の支配に進み、西フランク帝国は今日のフランスの母胎になっていく。それからも、カロリング家の王位を巡っては三国それぞれで世襲が続いていくのであったが、875年にはイタリア王国が、次いで911年には東フランク王国が、さらに987年には西フランク王国が断絶する。

(続く)

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♦️589『自然と人間の歴史・世界篇』フルシチョフ失脚とコスイギン経済改革

2017-09-28 10:12:21 | Weblog

589『自然と人間の歴史・世界篇』フルシチョフ失脚とコスイギン経済改革

 1964年10月、第一書記で首相のフルシチョフが失脚した。彼の党第1書記からの事実上の解任は、それについて書かれた色んな史料を当たると、およそつぎのような模様であったらしい。10月12日、休暇中の彼を出し抜いた形で、党中央委員会幹部会が開催され、二つの決定事項があった。一つは、農業問題に関する討議の必要などを話してフルシチョフをこの場に呼び出すこと、今ひとつは同時にモスクワに党共産党中央委員とその候補などを招集することだった。翌13日から14日にかけて、保養先からモスクワに呼び戻されたフルシチョフを入れて党中央委員会幹部会が開催される。そこで、バトルが始まる。その中で、ブレジネフなどはフルシチョフの下で行われてきた経済改革の遅れ、集団指導違反などを理由に批判を彼に集中する。
 最後にはブレジネフがフルシチョフの党第1書記職を解任する動議を出したときには、誰一人これに反対する委員はいない。そこで、フルシチョフをして「闘うつもりはない」と全ポストから勇退させることに成功し、その党内手続として予定どおり、この席でフルシチョフ辞任問題で緊急の中央委員会総会を招集することが決定される。続く14日、ソ連共産党中央委員会の場で、フルシチョフの辞任は満場一致で採択された。要するに、フルシチョフに受けて立つだけの余裕を与えなかったのではないか、そうであるなら、まさに仕組まれた辞任劇であった訳なのだ。
 1966年の第23回共産党大会において、ブレジネフはソ連共産党書記長の肩書きをもって登場する。それより先の1965年5月の戦勝記念日の基調報告で、彼は「国防委員会の長であった党書記長」のスターリンの業績を激賞したことは、フルシチョフ失脚の背後に誰がいたのかを内外に知らせた。
 明けて1965年からは、コスイギン首相が中心となって経済改革を進める。ただし、ブレジネフと保守派の目の光っているところでの、実践であったことに留意されたい。その際、理論的な後ろ盾となったのが企業経営への利潤指標の導入であった。企業による成功指標を利潤と関係させることを説いた経済学者リーベルマンらを登場させたのが1962年9月9日付け「プラウダ」における彼の論文「計画・利潤・報奨金」の紹介であった。この論文は、中央集権的計画化を緩和し、企業の自主的決定の権限を拡大し、「計画標準収益率指標」、すなわち利潤率を企業活動の評価基準とすることを勧告したものである。
 これを皮切りに、政府による、企業の独立採算・経済自主性を与える経済改革(新工業管理方式)が準備されていく。1965年9月の共産党中央委員会総会で、コスイギン首相が行った報告「工業管理の改良、工業生産の計画化の改善と経済的刺激の強化について」は、工業企業に対する新しい管理が必要となっていることをさらけ出した形だ。それからは、企業の法的地位、権限を明確にしたところの「社会主義国営生産企業規程」がつくられ、1966~1967年には新制度の下での企業の計画化、運営の方法を規程した国家計画委員会(ゴスプラン)の実施要領と、それに基づく「指示」「標準規程」の類いが定められた。また、1967年、工業のための新しい「技術生産財務計画」の構成が明らかにされるととともに、卸売物価の改訂がなされていく。
 こうした資源配分上の欠陥は、技術水準が低く、産業連関もさほど複雑でない時期にはさほどの問題とはならず、むしろ集中生産によるメリットの方が強調された時期もあり、国民経済にとって致命的なものにならずに容認されてきたのであるが、経済規模が膨れ上がり、産業連関も複雑になってきた1950年代末からは何らかの手だてを早急に実施しなければならなくなる。果たしてこれらに必要な技術はどのくらい発達していたかはよくわからない。この問題の処理に関して必要とされる一定の手順とは、まずモニタリング(計測)、アセスメント(評価)、コントロール(管理政策)となるのだが、それには、すべての原因と考えられる要因を検証しなければならない。
 この一連の改革は別名「コスイギン改革」と呼ばれているが、成果と挫折が相半ばしつつ続けられていき、1967年からはペースダウンしていく。そもそも、企業への自主性の付与、賃金、ボーナスなどの提案は、一方で経済における国家と政府の集権的統制、ひいては共産党支配を弱める行為でもあり、ブレジネフはこれに乗り気でなかったのではないか、とも言われる。第9次5か年計画では、国民所得の37%から40%増加、工業生産高の42%から46%増加、農業生産の20%から22%増加が見込まれていた。結果としては、期間中、工業生産高は43%、うち生産財46%、消費財は37%増加。これらのうち、農業生産目標については達成できなかった。要するに、期間中の国民経済活動効率指標の達成は、はかばかしいものではなかったらしい。社会的労働生産性の伸び率は3分の2に低下した。鳴り物入りの改革にも関わらず、コスト削減ははかどらなかったのだ。

(続く)

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