♦️608『自然と人間の歴史・世界篇』キューバ危機(1962)

2017-09-07 18:55:12 | Weblog

608『自然と人間の歴史・世界篇』キューバ危機(1962)

 そして迎えた1962年、いわゆる「キューバ危機」で米ソが13日間にわたり外交上を中心に攻防を繰り広げたのである。この時、アメリカ大統領は、ジヨン・F・ケネディであり、ソ連側は、フルシチョフ首相であった。アメリカは、本土をねらうミサイル基地が建設されることを阻止するため、海上封鎖を行う。結局は、ソ連のフルシチョフの譲歩により両国による核戦争の危機は回避される。核戦争が回避されたことになる。
 両首脳の主なやりとりはつぎの通り。
 「あなたが本当に平和と貴国の人々の福利に関心がおありなら、私は同様にソ連邦首相として、我が国の人々の福利に関心があります。さらに、普遍的な平和の維持は両国の共通の関心事であるはずです。もし戦争が現代の状況下で勃発したら、それは単に両国間の戦争ではなく、悲惨で破壊的な世界規模の戦争となるからです。(中略)
 私は提案します。我が国は、キューバに向かう我が国の船舶がいかなる軍備もしていないことを宣言するつもりです。あなたは合衆国がその軍隊でキューバを侵略する意図はなく、キューバを侵略しようとする他のいかなる努力をも支援するつもりがないことを宣言して下さい。そうすれば、キューバ内に我が国の軍事専門家が存在する必要はなくなるのです。」(ケネディ宛フルシチョフ電文、1962年10月26日)
 「平和を脅かす戦いをできる限り迅速に無くすため、平和を望む人々に確信を与えるため、またソ連国民と同様に平和を望んでいると私が確信しているアメリカ国民を安心させるため、ソ連政府はキューバにおける武器基地建設工事の中止命令を出した。さらに、貴殿が攻撃的だと考える武器を撤去し、木枠に詰め、ソ連に持ち帰るようにとも命令した。」(モスクワ放送でのケネディ宛フルシチョフのメッセージ、同年10月28日)(NHK取材班 『十月の悪夢 キューバ危機 戦慄の記録』 NHK出版、1992)
 それでは、米ソのこの問題解決の糸口となったのは、具体的にどのような話であったのだろうか。それは、当時世界中に張り巡らしつつあった、互いの防衛網の調整、いわば「痛み分け」であった、とのスクープがある。経済学者の伊藤光晴氏が、こう分析しているところだ。 
 「フルシチョフがキューバにミサイルを送った時のことです。ケネディはこれを阻止するために、ソビエト大使、アナトリー・ドブルイニンと極秘交渉に入りました。このアメリカ側代表は、大統領の弟ロバート・ケネディでした。
 アメリカはトルコからミサイルを撤退する。それゆえにソビエトもキューバにミサイルを持ち込むなーギブ・アンド・テイクーこれがその提案でした。それゆえにソビエトはこの案をのんでミサイルを撤退したのでした。
 だがケネディは、この内容を公表しませんでした。トルコのことはふせ、キューバからソビエトはミサイルを引いたことだけ発表しました。逆にハト派路線を唱えたスチーブンソンを批難し、強い大統領を国民に印象づけることによって、大衆の支持をとりつけようとする政治的誘惑にかられたのでしょう。まさに言行不一致でした。
 このことが、以後アメリカ国民の中に、力で押すならば、ソビエトはひく、という固い国民感情をつくりだし、以後のアメリカ大統領の行動を制約したはずです。かくて対外交渉が大衆社会下の国民感情によって制約されだしたのです。
 ソビエトとて同様です。力でキューバにミサイルを送ったから、アメリカはトルコからミサイルを引いたと、政治局員たちは確信しているのです。力への確信が表面づらを走りだしました。以後の東欧政策は、つねに強硬政策が勝利を占めるのです。こうした方向に政治が向かうことがわかっている以上、権力者としての私(ブレジネフ・引用者)は、その路線を先取りして、その上に立たざるを得なかったのです。それが私をして、ますます権力者は孤独だと感じさせたのです。」(伊東光晴「経済戯評、現実のなかの経済学」岩波書店、1987、58~59ページ)
 
(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆