99『自然と人間の歴史・世界篇』前漢から後漢、さらに三国の鼎立へ
紀元後の8年、前漢が滅んだ後には、新という帝国が建ったのだが、新皇帝の王莽(おうもう)の政治は時代の変化にそぐわず、その評判ははかばかしくなかった。そのため、社会にはなはだしい混乱に陥る。各地に群雄が割拠する中、新は漢王家の劉家一族更始帝によって滅ぼされる。ところが、その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興し、光武帝を名乗る。この王朝のことを後漢(東漢、25~220年)と呼ぶ。この光武帝の治世では、近隣の諸国や有力豪族らが朝貢し、当時の日本列島からも「奴国」(なこく)が詣でる。そして、「漢の倭の奴の国王」の意味の金印を授かっている。文字の発展についても、さらにあった。すなわち、前漢の時代の漢字は漢隷体であったものが、後漢になると楷書体となり、今日私たちが使っている漢字とほぼ変わらない体裁となっている。
その後の後漢だが、2代明帝、3代章帝と名君が続いて国力を回復させる。班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出もするが、こちらははなばなしい戦果は挙げられない。それからは、皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政に関与するようになっていく。ために、国力は低下していく。そして迎えた184年、黄巾の乱が起こる。これによって全国が混乱し、漢の統治力は大きく減退し、さらに宰相の董卓(とうたく)の暴政と、その董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝が実権を失って名ばかりとなっていく。以後は、各地に群雄が割拠する時代になだれ込んでいく。
そんな中で、群雄の一人、曹操の庇護のもと、漢王室は名目のみ存続する状態となっていた。さらに220年に後漢が滅んだ後には、三国が覇を争う時代となっていく。華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、これらの三国が覇を争い合う、三国鼎立の時代となっていく。やがて、220年に曹操が死ぬと、息子の曹丕(そうひ)が後を継ぎ、後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国するにいたり、ここに漢王朝は滅亡する。それからの三国の中では、いち早く蜀が魏にのみ込まれ、あとの魏と呉もそのうち魏の武将であった司馬氏によって責め立てられ、265年には西晋(~316年)による中国統一にとって代わられる。その後には東晋(317~420年)が現れてくる。
(続く)
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98『自然と人間の歴史・世界篇』歴史家・司馬遷の見た古代中国社会
司馬遷の『史記』の「列傳・太史公自序]」には、こうある。
「維(こ)れ我が漢、五帝の末流を継ぎ、三代の業を接(つ)ぐ。周道廃れ、秦は古文を撥去(はっきょ)し、師書を焚滅(ふんめつ)す。故に明堂(めいどう)石室(せきしつ)、金匱(きんき)玉版(ぎょくばん)、図籍(とせき)散亂(さんらん)す。是に於いて漢興(おこ)り、蕭何(しょうか)は律令(りつれい)を次(つ)ぎ、韓信は軍法を申(の)べ、張蒼(ちょうそう)は章程(しょうてい)を為し、叔孫通(しゅくそんとう)は禮儀を定む。則ち文学彬彬(ひんぴん)として稍(ようや)く進み、詩書往々にして間出(かんしゅつ)す。曹参(そうしん)自ら蓋公(がいこう)を薦めて黄老を言ひ、而して賈生(かせい)、晁錯(ちょうそ)は申商(しんしょう)を明らかにし、公孫弘(こうそんこう)は儒を以て顕はる。百年の間、天下の遺文古事の畢(ことごと)く太史公に集まらざるは靡(な)し。
太史公よって父子相続(あひつ)いで其の職を簒(つ)ぐ。曰く、ああ、余維(おも)ふに先人の嘗(かつ)て斯の事を掌(つかさど)りて、唐虞(とうぐ)に顕れ、周に至り、復た之を典(てん)す、故に司馬氏は世に天官を主(つかさ)どり、余に至る、欽(つつし)み念(おも)ふかな、欽み念ふかな、と。天下の放失せし旧聞を罔羅(もうら)し、王迹(おうへん)の興(おこ)る所、始を原(たづ)ね終りを察し、盛を見(あら)はし衰を観、之を行事に論考し、三代を推略し、秦漢を録し、上は軒轅(けんえん)を記し、下は茲(ここ)に至り、十二本紀を著(あらは)し、既に之を科條(かじょう)す。時に並べ世を異(こと)にし、年差明らかならず、十表を作(な)す。
禮楽は損益し、律暦(りつれき)は改易し、兵権・山川・鬼神、天人の際(きわ)、敝(へい)を承け変に通ず、八書を作す。二十八宿は北辰(ほくしん)を環(めぐ)り、三十輻(ふく)は一轂(こく)を共にし、運行窮(きわ)まり無く、補拂(ほひつ)股肱(ここう)の臣を焉(これ)に配し、忠信は道を行ひ、以て主上に奉ず、三十世家を作す。
義を扶(たす)け俶儻(てきとう)にして、己をして時に失はしめず、功名を天下に立つ、七十列伝を作す。凡そ百三十篇、五十二万六千五百字、太史公書と為す。序略、以て遺を拾ひ芸を補ひ、一家の言と成す。厥(そ)れ六経(りくけい)の異伝に協(かな)ひ、百家の雑語を整斉(せいせい)し、之を名山に蔵し、副を京師(けいし)に在し、後世の聖人君子を俟(ま)つ。
第七十。太史公曰く、余、黄帝以来太初に至るまでを述歴して訖(いた)る、百三十篇。」
これの中段以下に「天下の放失せし旧聞を罔羅(もうら)し、王迹(おうへん)の興(おこ)る所、始を原(たづ)ね終りを察し、盛を見(あら)はし衰を観、之を行事に論考す」とあるのは、現代訳では「わたしは天下の散らばり、すてられてあった旧き伝聞をもれなくあつめ、王者のあと興ったところについては、始めをたずね終わりを見たし、衰える様までを観察した」となるであろう。ここに彼が述べているのは、何がいつどのようであったのかを述べるのは、それらのことをまとめて記す者自身が、主体的に進めていくことなのであった。この司馬遷の凛(りん)とした姿勢は、「黄老思想をうけながら、天官の意識から生まれた思想であり、『春秋』の意図をこえるものである」(藤田勝久「司馬遷とその時代」東京大学出版会、2001)ともされているところであり、当時の支配的な思想潮流であったであろう儒教(孔子が提唱)基づくものではなく、今日の私たちにも通じる、事実をありのままに論述しようとする姿勢にも通じるものであったろう。
(続く)
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97『自然と人間の歴史・世界篇』秦から前漢へ
主に項羽の軍の奮戦により秦が亡びると、それからは項羽と劉邦とが覇権争いをする。すったもんだの争いを経ての紀元前206年には、劉邦が項羽を下す。劉邦は前漢(西漢、(紀元前202~紀元後220))を立国し、初代皇帝・高祖となる。その高祖だが、その後はとりたてて大きな動きはみせなかった。対外政策では、匈奴(きょうど)2代目君主である冒頓単于(ぼくとつぜんう、在位紀元前209?~同174)に首都長安を一時占領され、対外和親策を余儀なくされた。彼は、戦略的妥協のできる人でもあったところが、生まれたばかりの国家に幸いした。その彼は、紀元前195年に没す。
それからしばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握った。紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位したのが5代文帝であった。彼は温厚な性格で、無理な政治をおこなうことなく、民心の把握に努めた。6代景帝はも「文景の治」と呼ばれる政治を行い、漢の国力は大いに伸長する。それでも、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が次々反乱を起こす。これを「呉楚七国の乱」と呼ぶ。王権の失政ということではなかったので、この乱は約半年で鎮定される。すると、これによって諸侯の勢力は大きく削られていく。
そして、いよいよ武帝(紀元前141~同87)の時代が到来する。その前から充実した国力を背景に、隣接地域に積極的な出兵を行うにいたる。まずは、北方の遊牧大勢力であった匈奴に向かう。匈奴勢力の漢の西域からの駆逐ひとまずに成功した武帝は、大規模な西域経営に野心をおこした。ねらいとしては、当時匈奴に敗れて中央アジアのアム川上流まで追われていた大月氏(だいげつし、紀元前140?~紀元後1世紀頃)に対し、互いに力をあわせて匈奴を挟撃しようと約束を取り付けたい。
その交渉のために、紀元前139年頃、武帝の命を受け、張騫(ちょうけん、?~紀元前114)が長安を旅立ち、西域に向かう。彼は侍従という低い身分だったのだが、才気活発であったらしい。百人あまりの従者と案内役の奴隷・甘父(かんぽ)を連れて河西回廊を進んでいたところ、漢とは敵対関係にある匈奴(きょうど)に捕らえられてしまう。というのも、大月氏は匈奴に対する戦意はなかったためこの計画が匈奴強度流れてしまい、とらわれの身となってしまう。それでも、約10余年を経て脱出し、目的の大月氏国(だいげっしこく)の地を踏むことが出来た。さらに、1年余同国に滞在後の紀元前126年(同129年とも)頃に漢に帰国したと伝わる。
そして迎えた紀元前129年以降、将軍の衛青(えいせい)や霍去病(かくきょへい)に匈奴の征討を命じる。わけても霍去病の軍は7万に及ぶ匈奴兵を斬殺したともいう。漢は、これにより匈奴を北方へ退かせることに成功する。武帝の侵略は、南方にも向けられる。南越(なんえつ。紀元前203~同111)を征服してベトナム中部まで領土を拡大していく。そこに南海郡をはじめとする9郡を設置する。紀元前108年になると、東方に転じて朝鮮の衛氏朝鮮(えいしちょうせん、紀元前190?~同108)を首都の王険城(現在の平壌)に滅ぼす。そして、楽浪(らくろう)、真番(しんばん)、臨屯(りんとん)及び玄菟(げんと)の朝鮮4郡を漢王朝の直轄領に組み込むのに成功する。
こうして大軍団でもって周辺諸国を攻撃したことで、これら諸国を服属させて全盛期を迎える。また、とはいえ、張騫の大月氏派遣により、西域に点在する諸国の地理事情、文化・社会情報が漢王朝にもたらされた。その後の張騫については、当時バルハシ湖南東部にいたトルコ系烏孫(うそん)へも使者として派遣された。その後の前漢の領土拡大であるが、紀元前121年頃、オルドス地方(現在の中国内モンゴル自治区。黄河の湾曲によって囲まれているところ)では朔方郡(さくほう)が置かれた。河西地方(かせい。「黄河西方」を意味し、現在の中国の甘粛省(かんしゅくしょう))においては、敦煌(とんこう)、酒泉郡(しゅせん)、張腋郡(ちょうえき)、・武威郡(ぶい)の4郡が置かれる。このあたりはやがて、周囲の数多くのオアシス小都市をも巻き込んでの、古代シルクロードの重要な西のとっかかりの部分として重要な交易路となり、河西回廊(「甘粛回廊」とも)と呼ばれるようになっていく。
こうして東アジアとその周辺にかつてない影響力を誇った漢帝国であったのだが、新たな戦いや支配地域での争いが次々と起こるようになっていく。それらへの対応で明け暮れるうちに漢の財政はしだいに圧迫され、国力は下り坂に向かっていく。10代目の宣帝の治世になると、国力は一時回復する。彼は、「中興の祖」とたたえられるのであったが、その後はつっかえ棒がなくなったかのように衰退が進み、8年、外戚の王莽(おうもう)を帝位を掠奪して「新」王朝を建国し、すでに地方においても支える諸侯のほとんどなくなっていた漢王朝はいったん滅びる。
(続く)
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96『自然と人間の歴史・世界篇』秦による中国統一
紀元前221年、秦の始皇帝が当時の中間地帯を統一した。その秦だが、初めは当時の中国の一番西にあった。紀元前771年、秦が初めて諸侯の列に加わる。紀元前714年、平陽(陝西(せんせい))に遷都する。紀元前627年には、晋(しん)の襄公の軍がが、秦の繆公(ぼくこう)の軍を破る。紀元前578年、晋が、斉、宋などの諸侯と秦を討とうと動く。紀元前408年には、魏(ぎ)が秦の河西地方をとる。紀元前364年には、韓、魏、趙を石門(陝西)で秦を大破するのであった。
だが、秦はひるまない。その軍団は鍛え抜かれていく。他国と覇を競うには、東へと出ていくしかない。紀元前359年、商鞅(しょうおう)が中心となり、いわゆる「第一次変法」が実施に移される。秦が新しく生まれ変わることになっていく。紀元前350年、咸陽に遷都し、商鞅のいわゆる「第二次変法」が行われる。紀元前338年にかれを重く用いていた孝公が死ぬと、それまでの強権政治に嫌気がさしていた部下達が商鞅を失脚させ、彼は刑死する。紀元前333年、秦に対抗するため、遊説家の蘇秦(そしん)が合従(がっしょう)策を説いて回る。紀元前330年、秦が魏を攻撃し、戦いに敗れた魏は河西の地を秦に与えてしまう。
紀元前328年、張儀が秦の宰相となり、秦に敵対する諸侯による合従策(がっしょうさく)を崩す動きをする。紀元前325年、秦が王号を採用することで、恵文王と号す。紀元前310年、張儀による連衡策が進み始める。紀元前259年、皇太子の政(後の始皇帝)が生まれる。紀元前256年、秦が周(東周)を滅ぼし、ここに周の王統が絶える。紀元前249年、呂不韋(りょふい)が秦の宰相となる。紀元前247年、政が秦王に即位する。秦王が、呂不韋を退け、代わりに李斯(りし)を重用する。呂不韋は、実は彼の父親であった。紀元前233年、戦略かとして功のあった韓非子(かんぴし)を捕らえ、自殺せしめる。紀元前230年には、秦が韓(かん)を滅ぼす。紀元前228年には趙(ちょう)を、紀元前225年には魏を、紀元前223年には楚(そ)を、紀元前222年には燕(えん)を滅ぼす。
そして迎えた紀元前221年、秦は斉を滅ぼし、ついに中国統一を果たす。初めて皇帝号を用いることとし、郡県制を全国に施行するにいたる。統一国家としての秦は、度量衡の統一政策を行うとともに、漢字を隷書体(れいしょたい)へと進展させることを行う。度量衡や貨幣の統一にも進んでいく。前220年には、始皇帝が北巡を行う。前210年、東方への巡幸いを行い、古から天帝のおりるところとされていた泰山(たいざん)において、封禅(ほうぜん)の儀式を行う。紀元前213年、始皇帝の長男で将軍の蒙恬(もうてん)は匈奴を討つ。紀元前214年、李斯が丞相となる。万里の長城の建設を開始する。南越を攻撃し、広東、広西を支配するにいたる。紀元前213年、「焚書」(ふんしょ)を行う。続いての紀元前212年、今度は「坑儒」(こうじゅ)を行う。
前210年に始皇帝が巡幸中に没すると、一体何があったのだろうか。丞相の李斯が宦官を含む勢力が二世皇帝を擁立する。遠征していた父思いの蒙恬は、偽りの命令を受け、自殺するのであった。紀元前209年、陳勝と呉広による挙兵があり、項羽(こうう)や劉邦(りゅうほう)らも挙兵する。紀元前208年、宦官の趙高(ちょうこう)が丞相となる。紀元前207年、今度は趙高が二世皇帝を殺し公子嬰をたてる。その公子嬰が趙高を殺すという具合に、政治の中枢が崩れていく。紀元前206年、秦の都が、楚の項羽によって占領されると、秦の宮殿はことごとく灰になる。公子嬰が劉邦に降り、秦が滅亡する。
(続く)
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