♦️132『自然と人間の歴史・世界篇』神聖ローマ帝国

2017-09-29 10:27:01 | Weblog

132『自然と人間の歴史・世界篇』神聖ローマ帝国

 神聖ローマ帝国と呼ばれる国家(~1806)は、いつから始まったのか。一つは、962年に東フランク王国のオットーが、マジャール人などを撃退し、イタリア平定に成功したことで声望が高まると、彼はローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられる。その地理的領域は、現在のドイツを中心とした地域であったといえよう。今ひとつは、カール大帝の大フランク王国が、西ヨーロッパほぼ全体を支配するにいたった時からをいうもので、欧米ではこちらの説明の方が通常であるという。いずれにおいても、「神聖ローマ帝国」という国号が現れるのは13世紀のことであるから、ここではひとまず、その「前史」ということにしておきたい。
 さて、オットーが冠を被るようになる前のことを振り返ってみよう。843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、フランク王国は東・西フランクと北イタリアに分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが暗殺される。そのことが尾を引いたため、東フランクの帝位が途絶える。それから919年には、彼の父のザクセン人のハインリヒ1世がオットー(ザクセン)朝をひらく。新国王は貴族層を抱え込むことで東フランク王国の分裂を食い止める。
 そしてハインリヒ1世は、あることを決意するにいたる。自分の後に長男オットーを即位させるに際しては、これからの王室は長子相続でいくことを表明する。その頃はまだ、ドイツ王がその皇帝位を兼ね、かつてのローマ帝国の領域の支配権をもつことを表明する称号としての意味しかなかった。新国王は、盛んに外征を行う。そして、「ローマ帝国を担うドイツ人」という意味あいを込めての戴冠により、「ローマ帝国」皇帝と呼ばれるようになってからは、今度は東方辺境のエルベ川以東にまで進出していく。この頃のオーデル川の向こうには、既にポーランドが誕生していた。オットーは、宗教政策にも長けていた人物であり、現世における「加味の代理人」としてもふるまう。
 この「ローマ帝国」期の皇帝は、イタリア王と東フランク王を兼ねた君主であった。1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねる。ところが、こうして権力の強化に向かっていた帝国のことを、警戒していた勢力があった。1076年ローマ教皇グレゴリウスは、「ローマ帝国」の国王ハインリヒ4世を破門するにいたる。教皇は、帝国の統治範囲を、元のアルプス以北の土地、すなわち「ドイツ人の王国」に限定しようとしたのであった。その破門の翌年のカノッサ事件で、ハインリヒ4世は屈辱的な屈服をした。1122年にはヴォルムス協約が締結され、それの教皇側よ文書においては、国王による上位聖職者の叙任手続きについて、「ドイツ王国」と「帝国とその他の領域」との峻別が見られる。つまり、ここでの教皇側は、厳密な意味での「ローマ帝国」を認めているのではなくて、王権の範囲を「ドイツ王国」に限定しようとしたのであった。
 ところが、1157年には、その力関係に変化が起きる。フリードリヒ1世(バルバロッサ)が、皇帝の地位を教皇よりも上位にあり、神から与えられた聖なる地位であるという意味で「神聖帝国」の国号を使うにいたる。世俗権力がより大きくなってきたのである。この間のローマ帝国皇帝は、オットー1世以来のザクセン朝)(962~1024)からザリエル(フランケン)朝(1024~1125、一時ザクセン朝に戻る)へ、次にシュタウフェン朝(ホーエンシュタウフェン)(1138~1254)へと王統が入れ替わっていく。さらに、そのシュタウフェン家の断絶後の諸侯による選挙で二人が同時に選ばれ、そのどちらも帝国内にいないという意味での、大空位時代(1254~1273)に突入する。その始まりの頃からは、皇帝と諸侯が自らを呼ぶときに「神聖ローマ帝国」(Holy Roman Empire)が使われる。ただし、皇帝は、イタリアへの関心を強く持ちながらも、ドイツ地域においては有力諸侯がそれぞれ領邦を形成していたことから、皇帝の支配権はだんだんと十分に及ばなくなっていく。
 そして迎えた1273年、かかる「大空位」を解決することを目指して、諸侯は相談して、神聖ローマ帝国の帝位をハプスブルグ家のルードルフに与えることにし、彼が選挙でてい皇帝に選出される。その後も、諸侯による選挙で皇帝が選出されるが、有力家系が続いて選出されることが多かった。具体的には、ハプスブルク家、ナッサウ家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバハ(バイエルン)家などがめまぐるしく交替し、同時に二人が選出されることによる二重選挙もあったりで、皇帝の座は安定しなかった。ようやくルクセンブルク朝(1346~1437)のカール4世が出て、1356年に金印勅書を定めることでドイツの有力な7選帝侯による選挙で選ばれると定める。その選帝侯には、裁判権や貨幣鋳造権など、自治権が広く与えられる。
 1438年、ルクセンブルク家の断絶を受けた選挙によってハプスブルク家のアルプレヒト2世が選出されると、以後ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の帝位をほぼ独占して世襲することで、帝位が維持されていく。マクシミリアン1世治世の1495年から行われた帝国改造によって、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなっていく。この頃までには、皇帝のイタリア王権・ブルグント王権は失われるにいたっていた。さらにその後の神聖ローマ帝国だが、17世紀の中頃からは急速に力を失っていく。その皇帝位はハプスブルク家が継承して細々と続いていたのだが、ナポレオン戦争で敗れて1806年に最後の皇帝フランツ2世が退位して、844年に及ぶ歴史に幕を下ろす。

(続く)

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