♦️118『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教)

2017-09-19 20:06:21 | Weblog

118『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(キリスト教)

 その創始者はイエス・キリスト(Jesus Christ)である。このうちの「イエス」(Jesus)は、ギリシア語「イエースース」のラテン語表現で、そのイエースースはヘブライ語「エーシューア」または「エホーシューア」に相当する、また「Jesus」の英語読みでは「ジーザス」と発音される。その意味としては、「救う者」をいう。また、「キリスト」はギリシア語で「油を注がれた者を意味しており、これらをあわせての造語名称といえる。彼は、ローマに隷属していたユダヤの国ナザレ地区に生まれる。貧しい大工の長男であったという。その地で長じて布教の旅に出ていた。行く先々で人々に対し説法を行い、しだいに信徒を増やしていくのだが、それにつれてユダヤ教の聖職者と信仰及び生活において意見が対立していった。特に『旧約聖書』におけるユダヤ教としての厳格な戒律に忠実で、日々の生活の中でこれを厳格に守っていこうというバリサイ派たちとは、事あるごとに対立するようになっていく。
 このパリサイ派の聖職者たちによる追求は執拗であった。今日に伝わっている新旧の『聖書』の大半は史実とは言えない修飾に満ちているといっても過言ではないであろう。とはいえ、在りし日のキリスト本人の言動を伝えていると考えられる事績も、そのかなりを見出すことができると考えられている。例えば、囚われの女を連れてきて「この女は罪を犯している時につかまえられたので、モーセの律法によって石を撃ち殺すことにしたいが、どう思うか」と問い、「出エジプトの」の立役者であるモーセの定めたれる律法に違背しようものなら、キリストをユダヤへの愛国心なしの不心得者として公衆の面前にて断罪するつもりであった。対応に困ったであろうキリストは、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言って、大勢の信者を含む「ユダヤの民」の面前にて、この罠にかかるのを避けた。あるいは、「カエサルに税金をおさめてよいだろうか、いけないだろうか」と問うた。これだと、もしイエスが「おさめた方がよい」と答えるのであれば、ユダヤの「庇護者」としてのローマに税金を納めることを国辱と考えていたユダヤの群衆を欺くことになる。この時、イエスは結局「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言って、ユダヤの大衆にも、ローマの官憲、そしてユダヤ穏健派にも反発を受けないように返答をした。
 さらに、ユダヤ教で神聖な日に数えられる「安息日」を巡っても、騒動が持ち上がった。ユダヤ教の律法(キリスト没後に『旧約聖書』としてまとめられる)においては、安息日に労働をしてはならないことになっている。これを絶対視し、いかなる場合にも遵守しなけれじならないと言い張る人々に対しては、現実の生活が大事であって、それほどこだわる必要はないんだということを述べている。これについては、次のように、キリストはパリサイ派らと意見を異にしたことになっていて、こうある。
 「2の23:ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。2の24:すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。2の25:そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。2の26:すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。2の27:また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。2の28:それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(『マルコによる福音書』の第2章)。
 こうして、人々にとっての安息日というのは、単に労働を休む日ということではなく、その日をもって神を崇め、それを行動であらわすことに通じているのであった。
 いま一つ、この福音書は、キリストの人となりをこう伝えている。
 「3の9:イエスは群衆が自分に押し迫るのを避けるために、小舟を用意しておけと、弟子たちに命じられた。3の10:それは、多くの人をいやされたので、病苦に悩む者は皆イエスにさわろうとして、押し寄せてきたからである。3の11:また、けがれた霊どもはイエスを見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、「あなたこそ神の子です」と言った。3の12:イエスは御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた。ー中略ーイエスが家にはいられると、3の20:群衆がまた集まってきたので、一同は食事をする暇もないほどであった。3の21:身内の者たちはこの事を聞いて、イエスを取押えに出てきた。気が狂ったと思ったからである。3の22:また、エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「彼はベルゼブルにとりつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。
 3の23:そこでイエスは彼らを呼び寄せ、譬をもって言われた、「どうして、サタンがサタンを追い出すことができようか。3の24:もし国が内部で分れ争うなら、その国は立ち行かない。3の25:また、もし家が内わで分れ争うなら、その家は立ち行かないであろう。3の26:もしサタンが内部で対立し分争するなら、彼は立ち行けず、滅んでしまう。3の27:だれでも、まず強い人を縛りあげなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる。3の28:よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。3の29:しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。3の30そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」(『マルコによる福音書』の第3章)。
 それでも、当時のユダヤ社会の中で屈せずに布教を続けていたが、とうとう、キリストの反対者たちは「ユダヤ人の王」とイエスが自称しているとの噂をでっち上げ、これをネタにかれをユダヤ国家の反逆者に仕立て上げていく。ユダヤ議会はイエスに死刑を判決し、事の政治的本質を知らない一般民衆の大方もそれに呼応して「イエスに死刑を」と声高に叫ぶのであった。ローマ総督の審判に際しては「カエサルのほかに、王はありません。・・・・・もし総督がこの者をゆるすなら、あなたはカエサルを愛さないことになりますぞ」との政治的暗示で圧力をかけ、イエスを十字架にかけて処刑することを是認させたのだ、ともいわれている。
 こうしてキリストが無実の罪を着せられ、十字架を背負って死んだのを、かれの後継者たちは、キリストが全人類の罪を背負ったのたという教義にまとめあげた。ここにキリストは、古今に比類なき人類愛を貫いたのであり、その恩恵を受けた人々は、諸国民・諸民族とは別の(もった高い)次元の、全知全能の神に自分たちの「原罪」の許しを乞う存在になったのではないだろうか。
 だからこそ、キリスト教のような一神教では、人々の現実が厳しければ厳しいほどに、「なぜ神は私たちを助けてくれないのですか」という声に対して、神の側からはこたえなくていい。というのは、やがて人々は、「このような苦難が続くのは、神が自分たちを試練に置かれているのだ。なんとなれば、自分達が神に対していまだに至らない存在であることに、あらゆる苦難の根源があるのだ」との結論に落ち着くのだから。

(続く)

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♦️120『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(ヒンドゥー教)

2017-09-19 09:32:50 | Weblog

120『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(ヒンドゥー教)

 ヒンドゥー教の源は、遠くインダス文明の末期に遡る。インダス文明は、紀元前2000年から同1700年頃にかけて、衰退していく。何らかの原因により、都市機能が弱体化していき、地方の文化に吸収されていった。おりしも、おそらく紀元前1500年頃から、アーリア人がイランかにインド北西部に移住してくる。この人々は、インド・アーリア語族という言語集団に属していた。この語族とは、「ヨーロッパ語族の一分派であるインド・イラン語属から、さらに分派して南アジアへと移入してきた言語集団」(上杉彰「インダス文明以降の南アジア」:近藤英夫・NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト『四大文明「インダス」』NHK出版、2000)と言われるのであるが、他ならぬこの語族が編集したのが『リグ・ベーダ』なのである。
 この聖典に基づき成立したのがバラモン教であった。誰が最初に唱え、開いた宗教なのかは、わかっていない。おりしも、紀元前五世紀頃に仏教の隆盛が始まり、バラモン教は変貌を迫られる。そこでバラモン教は民間の宗教を受け入れ、ついには同化してヒンドゥー教へと変化して行く。つまり、ヒンドゥー教というのは、特定の人物が創造、開削したのではない、古代インド文化の滔々たる流れにおいて、無名の人々によって寄せ集められ、形成されてきた宗教なのである。
 こうして成立したヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぐとともに、土着の神々や崇拝様式を吸収したものとなっていく。つまり、多神教なのである。
事の成り行きの次第は、わけても、三大神「ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ」に始まる。そして、追々に仏教などの神も採り入れていく。まずは、ブラフマー(「梵天」と訳される)だが、この神は宇宙の根本原理とされるブラフマン(梵)を人格化していて、天地創造の神となっている。そういうことなので、神々の中心に座っていてよさそうなものだが、後から出たヴィシュヌ神やシヴァ神が勢力を伸ばすようになると、だんだんと「ご老体」の地位に甘んじていく。つまり、若々しい後続の神々によって、隅に追いやられていった。ヴィシュヌは、元はアーリア人が崇拝していた太陽の化身であって、後には創造神にも仲間入りした。またシヴァといえば、バラモン教の文献で説かれる暴風神ルドラと同一視される、荒々しい男性の神である。以上の3者とも、后(妃)がいて、いやこの両者がそれぞれの相手である「配偶神」と交合することによって、はじめて神々として機能するということになっている。わけても、これら女神たちにはそれぞれ独特の存在理念、価値が教義上備わっているらしい。宮本久義氏は、そのことをこう描いておられる。
 「ブラフマーの妃サラスヴァティーは学問と技芸の女神、ヴィシュヌの神妃ラクシュミーは富と幸運の女神で、仏教にも取り入れられて、それぞれ弁才天(弁財天)、吉祥天として尊崇されている。またシヴァの神妃たちは大地母神信仰の流れをくむ宇宙の根源的力シャクティと同一視された。現在では女神信仰は以前にもまして熱烈な尊崇を集め、シヴァ神、ヴィシュヌ神信仰とともに三大勢力を形成している。」(宮本久義「ヒンドゥーの神々」:小西正捷(こにしまさとし)・岩瀬一郎編「図説・インド歴史散歩」河出書房新社、1995)
 さて、ヒンドゥー教はインドの風土に合ったのか、紀元後四~五世紀になると仏教を凌ぐようになる。 その発展の劃期を形成したのが、紀元300年より少し後に始まったグプタ王朝下でのことであった。この王朝の出身は来たインドであって、450年にはインド亜大陸の大半を支配し、西のササン朝ペルシャ(イラン)や東ローマ帝国に劣らない大国となった。グプタの歴代の王たちは、ヒンドゥー教を保護し、多くの寺院が建設された。国家という権威による庇護下にあったことは、現代に伝わる「クマーラグプタ一世の金貨」にまつわる話からも明らかだ。この王の治世は、この金貨が鋳造されたであろう415~450年の期間をカバーしている。金貨に彫られているのは、ヒンドゥー以前の生け贄(対象は馬)の儀式であって、馬は王によって捕獲され、ころされてしまう。代わりに王は、自分の権力の正当性と優越性を満場の人々の前で誇示するという具合であったらしい。王は、また新たな多額の費用をかけて多数のヒンドゥー教寺院を建設した、とある。そんな情況下で、インドの多民族を束ねる宗教として、ヒンドゥー教は民衆に広く信仰されるようになっていく。
 その第一の特徴は、ヒンドゥーの神々が人間的な体や感情を持っていることだ。つまり、人と同じように、神々も血と肉を持っている。なんだか、温かな気持ちにもなってくるのが、人の自然な感性というものであろうか。二つ目の特徴点は、他の同類のものへの対応が排他的でないことだ。インド古代の宗教的な伝統、その中の仏教もジャイナ教の「良い」と思われるところを取り込んだという。これらの宗派の神々も、形や表情などを変えてヒンドゥーの神に加えている。だから、人々が午後の陽がややわらかとなる頃(現代では午後4時)から教会にやって来る。そこにおいては、神々は目覚めている。そして、きらびやかに飾った神々が「いらっしゃい」と迎え、臨場感を高める音楽の演出にも余念がない程だ。グプタ朝時代、当時のインドの多くの人々の目と耳には親しみやすい信仰内容として、個人差や地域差は相当あったても、布教に当たっての大きな軋轢を生むことなく、比較的すんなりと受け入れられていったのではないだろうか。
 
(続く)

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○○67の1『自然と人間の歴史・日本篇』「日本」の登場(海外からの視点)

2017-09-18 22:02:45 | Weblog

67の1『自然と人間の歴史・日本篇』「日本」の登場(海外からの視点)

 「旧唐書」と呼ばれる歴史書が中国に伝わっている。これが編纂されたのは、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉?、張昭遠、王伸らによって、と伝わる。二十四史の1つ。唐(とう、中国読みはタン)の成立した618年からから907年の滅亡までを扱う。当初の呼び名は単に『唐書』だった。それが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
 そんな中の通称「倭国日本伝」の冒頭には、こうある。
 「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。
 世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、其訴訟者、匍匐而前地。多女少男、頗有文字、俗敬佛法、並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。
 日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
 長安三年、其大臣朝臣真人、来貢方物。朝臣真人者猶中国戸部尚書、冠進徳冠其頂為花分而四散、身服紫袍、以帛為腰帯。真人好読経史、解属文容止温雅則天宴之於麟徳殿授司膳卿。放還本国。開元初、又遣使来朝、因請儒士授経、詔四門助教趙玄黙、就鴻臚寺教之。乃遣玄黙、闊幅布以為束修之禮題云。
 白亀元年、調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海、而還其偏使朝臣仲満、慕中国之風因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年、好書籍放帰郷逗留不去。天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡為左散騎常侍鎮南都護。貞元二十年、遣使来朝、留学生橘免勢、学問僧空海。元和元年、日本国使判官高階真人上言前件、学生藝業稍成願帰本国、便請與臣同帰従之。開成四年又遣使朝貢。
 次には、書き下し分を掲げる。
 「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依って居る。東西は五月行、南北は三月行。世ヽ中国と通ず。其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為(つく)り、草を以て屋を為る。四面に小島、五十余国あり、皆焉(こ)れに附属す。
 其の王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これに畏附す。官を設くる十二等あり。その訴訟する者は、匍匐して前(すす)む。地に女多く男少なし。すこぶる文字あり、俗、仏法を敬う。並びに皆跣足なり。幅布を以てその前後を蔽(おお)う。貴人は錦帽を戴き、百姓は皆椎髻(ついけい)にして冠帯なし。婦人の衣は純色、裙を長くして腰に襦、髪を後に束ね、銀花長さ八寸なるを佩ぶること、左右各々数枝なり、以て貴賤の等級を明かにす。衣服の制は、すこぶる新羅に類す。
 貞観五年、使を遣わして方物を献ず。太宗その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
 二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じて、以て起居を通ず。
 日本國は倭國の別種なり。其の國、以って日に在り。故に日本を以って名と爲す。
 或は曰う。倭國自ら其の名の雅ならざるを惡(にく)み、改めて日本と爲すと。
 或は云う。日本は舊(もと)小國にして倭國の地を併せたりと。
 其の人、入朝する者は多く自ら矜大(きょうだい)にして實を以って對(こた)えず。故に中國、焉れを疑う。
 また云う。其の國の界、東西南北各數千里。西の界・南の界は咸(み)な大海に至り、東の界・北の界は大山有りて限りと爲し、山外は即ち毛人の國なりと。
 長安三年、其の大臣朝臣眞人、來りて方物を貢ず。朝臣眞人は猶お中國の戸部尚書のごとし。進德冠を冠り、其の頂に花を爲し、分れて四散せしむ。身は紫袍を服し、帛(はく)を以って腰帯と爲す。眞人、好く經史を讀み、文を屬するを觧し、容止温雅。則天、之を麟德殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本國に還らしむ。
 開元の初、また使を遣わして來朝す。因って儒士に經を授けられんことを請う。四門助敎趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれを敎えしむ。乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の禮と爲す。題して云う、白元年の調の布と。人またその僞なるかを疑う。この題得る所の錫賚(しらい)、く文籍を市(か)い、海に泛(うか)んで還る。その偏使朝臣仲、中國の風を慕い、因って留まりて去らず。姓名を改め朝衡と爲し、仕えて左補闕・儀王友を歴たり。衡、京師に留まること五十年、よく籍を書し、放ちて郷に帰らしめしも、逗留して去らず。
 天寶十二年、また使を遣して貢す。
 上元中、衡を擢んでて左散騎常侍鎮南都護と爲す。
 貞元二十年、使を遣して來朝す。學生橘免勢、學問僧空海を留む。
 元和元年、日本の國使判官階眞人上言す。前件の學生、藝業稍(や)や成りて、本國にらんことを願う。便(すなわ)ち臣と同じくらんことを請う。之に從う。
 開成四年(648年)、また使を遣して朝貢す。」
 これの解釈で問題となるのは、後段の「日本国は倭国の別種なり」という記述をどうみるかであるが、日本側の受取り方には色々な説があって、いまだに定説らしきものがないのが現状である。こうして決着が付いていないのは、7世紀の初頭に至っても、その前の倭がどのような政治状況であり、その後どのような形で日本という国家に繋がって行ったたかが、その相当部分が明らかになっていないからである。

(続く)

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○○414『自然と人間の歴史・日本篇』原発の経済性

2017-09-18 21:09:59 | Weblog

414『自然と人間の歴史・日本篇』原発の経済性
 
先ず一つ、原発コストの数字が、新潟新報社原発問題特別取材班の著で紹介されている、それにはこうある。
 「東電にとっては高コストとなっている原発だが、政府は立地自治体に配る交付金などの政策経費を織り込んでも最も低コストの電源と位置づけている。その根拠は松村教授も参加した政府の有識者会議で2015年5月に示された試算だ。
 「原子力10.1円~」
 「石炭火力12.3円」
 「LNG火力13.7円」
 確かに原子力が最も安い。だが、試算は原発が設備利用率70%で40年、順調に働くことを前提としている。頻繁に止まった柏崎刈羽原発(かしわざきかりわげんぱつ)には当てはまらない。しかも、原子力は下限値だけが示され、こんな注釈が付いている。
 「福島事故の廃炉、賠償費用などが1兆円増で0.04円プラス」
 「使用済み核燃料の再処理費用などが現状の2倍、22兆円になれば0.6円プラス」」(新潟新報社原発問題特別取材班「崩れた原発「経済神話」柏崎刈羽原発から再稼働を問う」明石書店、2017)
 もう一つ、原発コストの見積もりの記事を見つけた。毎日新聞(2017年8月14日?)によれば、電源別の二酸化炭素(CO₂)排出量(1キロワット時当たり、同社が電気事業連合会のホームページを基に作成したもの)の、電源別比較は次のとおりとされる。
 「中小水力:11グラム、地熱:13グラム、原子力:20グラム、風力:25グラム、太陽光:38グラム、LNG(天然ガス)複合:474グラム、石油:738グラム、石炭:943グラム」
 同記事には、この時点で計画中の大型火力石炭発電所の計画についても、列記されている。
 「秋田市の関西電力など(2基)各65万キロワット、山口県宇部市の電源開発など(2基)各60万キロワット、千葉市の中国電力など107万キロワット、千葉県袖ヶ浦市の九州電力など(2基)各100万キロワット、神奈川県横須賀市の東京電力(2基)各65万キロワット、神戸市の神戸製鋼所(2基)各65万キロワット、愛知県武豊町の中部電力107万キロワット」
 
(続く)

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♦️593『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの公民権運動(196~41970)

2017-09-17 23:21:05 | Weblog

♦593『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカの公民権運動(196~41970)

 1964年2月、公民権法が下院で採決された。賛成290対反対130で可決された。続く6月の上院では賛成73対反対27で可決、これを受けて同7月にはジヨンソン大統領が署名して成立した。
 その主な内容は、人頭税や、投票を阻む税がらみの障壁を憲法違反とする憲法修正第24条の採択を必要とするものであった。同条項は、「非納税者の投票権を禁止または制約する法律を禁止」するもので、具体的には「合衆国市民の投票権を、人頭税その他の税金を支払っていないことを理由にして奪い、または制限してはならない」(shall not be denied or abridged by the United States or any State by reason og failure to pay any poll tax or other tax)というものである。
 公民権法の第2章では、「ガソリンスタンド、レストラン、下宿屋、州際通商を行っているすべての公共宿泊施設、それに娯楽施設や展覧会を誰でも自由に利用できる」と定めてある。第4章では、「連邦準備銀行預金の受け入れプログラムにおける人種差別の禁止」。第7章になると、「いかなる雇用差別も禁じ、平等な雇用機会委員会の設置を求める」ことになる。同法ではまた、司法長官や公民権委員会の権限が随所において強められた。
 1964年3月16日、ジョンソン大統領(民主党)が議会で演説し、「われわれの歴史において初めて貧困を克服することが可能となりました」と述べる。1965年には、投票権法がつくられる。この中で、地方政府職員がアフリカ系米国人の選挙登録を妨げた場合には、連邦政府が登録を行う権限が認められる。この効果により1968年までには、深南部で100万人のアフリカ系米国人が選挙登録をした。
 1965年、米国高齢者法(Older Americans Act: OAA)がつくられる。この法律により、60歳以上の高齢者及び高齢者の介護者は、政府による主に次のようなサービスの提供を受けてことができるようになる。①家庭やコミュニティーでの長期介護サービス:高齢・障害リソースセンター等、②栄養サービス:食事、カウンセリング等、③介護者に対するサービス:支援、訓練等、③健康のための予防サービス:啓発、生活習慣の改善等、⑤高齢者の権利擁護サービス:法的サービス等、⑥アルツハイマー病に係るサービス:在宅介護等、などである。
 1965年の移民法(ケネディ=ジョンソン法)は、移民受入総数を29万人に設定する。人数の内訳をヨーロッパ、アジア、アフリカから17万人(各国上限2万人)、南北アメリカ大陸から12万人(国別の上限なし)と定める。また、この改正移民法は米国市民の親族の優先的受入として移民により離散した家族の呼寄せ枠と、特定の職能を持つ人を採用する雇用枠の確保という2大優先カテゴリーを移民受け入れの基本的な枠組みとした。
 1966年、モデル都市及び大都市法は1964年の公共輸送法を補うために制定された。これは、「スラム街の一掃、都市の交通と景観の改善、公園をはじめとする都市施設の緑化に資金を支出し、まず6都市で実施、最終的には150都市に広げるのが立法目的である。
 1968年につくられた包括住宅法は、住宅差別を禁止する法律である。「60億ドルを貧困および中所得所帯向け住宅の建設と賃貸料補助手当の導入に支出する」ことを定める。同年の住宅都市開発法ではこれが拡充される。
 1968年の選挙において、8人の黒人代議士が誕生する。2年後の1970年の選挙では南部からの2人を含む13人の黒人が当選を果たす。その一人である黒人女性初の女性代議士シャーリー・チザム(Shirley Chisholm)は1969年の“The Business of America Is War”の中で、次のように述べて、レアード国防長官があと2年ベトナムに軍を駐留させる方針を述べたことに対する反論を展開する。
 “We are now spending eighty billion dollars a year on defence -that is two thirds of every tax dollar.At this time,gentlemen,the business of America is war,and it is time for a change.”
「私たちは年間で800億ドルを国防費に費やしています。これは、税収の3分の2に当たります。いまこのとき、皆さん、アメリカのビジネスは仕事であり、そのことを変えるときなのです。」
 彼女はまたこの演説の中で、1960年代に起きた人種暴動の原因を調査したカーナー委員会の報告に触れ、アメリカ社会の深層をえぐる指摘もしている。
 “When the Kerner Commission told white America what black America had always known, that prejudice and hatred built the nation's slums, maintain them and profit by them,white America would not believe it.”
「カーナー委員会は白人に対し、黒人にとっては自明のことであったが、次のように言いました。偏見と憎悪がスラムを作り、維持し、そして彼らに利益をもたらすのだということを。しかし白人のアメリカ人はそのことを認めようとはしませんでした。」
 1968年8月28日、「仕事と自由のためのワシントン行進」には多くの人々が集まりました。キング牧師がリンカーン記念堂前での集会において、「わたしには夢がある」演説を行いました。その中で、彼はつぎのように訴えています。(上岡伸雄編著「名演説で学ぶアメリカの歴史」研究社、2006などより引用)
“I say to you today,my friends,that in spite of the difficulties and frustrations of the moment I still have a dream. It is a dream deeply rooted in the American dream. I have a dream that one day this nation will rise uo and live out the true meaning of its creed:“We hold these truths to be
self-evident;that all men are created equal.”
 この彼の演説は、当時の人権とベトナム戦争で末期的な状況にある現実をアメリカの人々に認識させるまたとない機会となった。

(続く)

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♦️162『自然と人間の歴史・世界篇』コンスタンチノープルの陥落

2017-09-15 23:42:14 | Weblog

162『自然と人間の歴史・世界篇』コンスタンチノープルの陥落

 1299年には、ビザンティン帝国の東方にオスマン帝国が出現する。イスラム教を国教とし、ぐんぐんと力を蓄えていく。一方、西の方では1310年、神聖ローマ帝国(いまのドイツなど)の皇帝ハインリヒ7世が、イタリアに遠征する。ローマ教皇をフランスの支配下から奪回し、ローマで自身が戴冠するためと考えた。その後、ティムール王国の出現で、オスマン帝国のバヤジット1世がティムールに敗北したことで、捕虜にされてしまう。ところが、一代の英雄ティムールが死ぬと、彼の帝国は解体に向かうのだった。そこで、オスマン帝国は復活するにいたる。1396年、ヨーロッパ諸侯軍がバルカン半島に遠征してトルコ帝国と戦う。これを「ニコポリス十字軍」という。
 それからさらに時が流れての1451年、メフメット2世が、21才の若さでオスマン帝国第7代のスルタンとなった。ここにスルタンとは、イスラーム国家において宗教的権威であるカリフから、一定地域の世俗的権力を委託された者の称号であった。セルジューク朝にはじまり、14世紀のオスマン帝国で確立したのだが、世俗の権力の肥大化に伴い、この頃からはカリフの地位も兼ねてのスルタン・カリフ制となる。
 そして迎えた1453年4月、オスマン帝国軍によるビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルへ攻撃が始まった。約15万のオスマン帝国軍に対し、1万ばかりのキリスト教徒が守るコンスタンティノープルを包囲した。攻撃軍が目の当たりにしたのは、首都の市街の回りに三重に巡らされた「鉄壁」の壁であった。防衛側では、コンスタンティノープルが陥落すればおしまいだ。ヨーロッパのキリスト教国はおしなべてイスラム教徒の脅威に晒されると考えていたことは、想像するに難くない。
 やがて上陸させたウルバンの大砲が城壁に向けて撃たれ、その裂け目をねらって歩兵が突撃を開始した。激しい攻防が繰り返されていたが、スルタン直属の精鋭部隊が攻撃に投入されるに及んで、ついに城門の一つが突破された。なだれをうってオスマン軍が市街に入り、皇帝が戦死する。首都の陥落でビザンティン帝国(東ローマ帝国)が滅亡する。この戦争に勝利したオスマン帝国は、この地をイスタンブールと改名し、帝国の首都に定めるにいたる。
 1526年には、オスマン帝国の皇帝スレイマン1世の軍がハンガリー王国を攻撃する。さらに西へ進んで神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲している間に、バルカン半島の全域を支配下に入れる。1538年のプレヴェザの海戦では、スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合軍を破る。これにより、西地中海までのほぼ地中海全域の制海権を手に入れる。1571年のレパント沖の海戦で前と同じ編成の連合軍に敗れたものの、その制海権については譲らなかった
 
(続く)

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♦️131『自然と人間の歴史・世界篇』東ローマ帝国

2017-09-15 22:15:45 | Weblog

131『自然と人間の歴史・世界篇』東ローマ帝国

 多民族の相まみえるアジアとヨーロッパの境の地、幾多の荒波にあらわれ、それらを乗り越えて1000年余の間命脈を保った国があった。313年、ローマ帝国がミラノ勅令でキリスト教を公認する。330年、コンスタンティヌス1世がビュザンティオンに遷都し、これをコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と改称する。392年、ローマ帝国のテオドシウス1世がキリスト教を国教とする。395年、テオドシウス1世が没し、ローマ帝国は2人の息子に分割相続される。これを「ローマ帝国の東西分裂」という。
 410年、西ゴート人が首都ローマを占領、略奪した。これに影響されたのか、413年には、コンスタンティノープルに「テオドシウスの城壁」が建設される。420年、ササン朝ペルシャと交戦する。451年のカタラウヌムの戦いで、西ローマ・ゴート連合軍がフン族の一団を破る。468年、レオ1世がヴァンダルに海戦で敗れる。476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位させ、西ローマ帝国が滅亡する。487年、東ゴート王テオドリックが、皇帝ゼノンの命でイタリアを占領し、東ゴート王国を建国する。
 527~565年のユスティアヌス1世在位の時期には、領土が拡大していった。その勢いは、地中海を「われらが内海」とみなすほどであったともいう。532年、コンスタンティノープルでニカの乱が勃発する。それに、ササン朝ヘルシアとの間に「恒久平和条約」を締結する。555年には、東ゴート王国を滅ぼしてイタリアを支配するにいたる。ラテン文化が優勢な時期を、東ローマ帝国と呼んでいたのに対し、ギリシャ文化が優勢になるようになってから、「ビザンツ帝国」とが慣用名となっていったと考えられる。562年になると、ホスロー1世がエジプトを攻め、またビザンティン・ペルシャの間で平和条約を締結する。572~591年には、ササン朝と交戦が続く。それからユスティヌス朝の終わる610年頃までを東ローマ帝国、その後のということもあるとのこちと。

(続く)

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♦️140『自然と人間の歴史・世界篇』中世における商工業圏の形成と発展

2017-09-12 21:11:06 | Weblog

140『自然と人間の歴史・世界篇』中世における商工業圏の形成と発展

 中世に入ると、ヨーロッパに幾つかの商業業圏が形成されていった。まずは、まるで長靴のようなイタリア半島を西と東で挟むような位置関係で、ヴェネチアやピサなどと地中海貿易の覇を競った。ミラノやフィレンツェなどの内陸都市が、毛織物をはじめ、貨幣経済の進展に伴い金融業で栄えたのに比べ、物流中心の商人資本が重きをなしていた。これらを含めた全体を「地中海商業圏」という。
 そこで一例を挙げよう。港湾・海港都市としてのジェノバ(Genova、英語ではジェノア Genoa)は、前5世紀頃に始まる。商港として栄えた。ローマ時代はイタリア北部の中心都市となっていた。ローマの後はやや衰退していた。しかし、10世紀頃には勢力を盛り返す。おりしも、中世ヨーロッパでは封建社会が安定的になり、荘園内の生産性も向上し、人口が増加していた。また、ヨーロッパ各地で余剰生産物が増え、それらを交換する商人という職業が生まれ、定期市などが頻繁に開催された。
 11世紀からは、さらに手広く商売していく。地中海を中心に、スペインにも出掛けるし、アフリカ沿岸、それに東方にも進出していった。東に向かっては、東に向かっては、十字軍の遠征により、ヨーロッパ以外の交易路が開拓されたことも寄与したであろう。香辛料や絹織物などを東方から仕入れ、ヨーロッパ各地に販売し、莫大な利益をあげるようになった。15世紀からはしだいに陰りをみせ、1796年にはフランスに占領される。その後の1815年ピエモンテ領となり、さらにイタリア王国に統合された。
 二つ目に、北海やバルト海地域で商売を動きがあった。こちらは、北ドイツのハンブルク・リューベック・ブレーメン、フランドル地方のガン・ブリュージュ、イギリスのロンドンがを形成し、木材・海産物・塩・毛皮・穀物・鉄・毛織物などの交易で栄えた。これを「北ヨーロッパ商業圏」と呼んでいる。
 さらに地中海商業圏と北ヨーロッパ商業圏を結ぶ重要地域には、新しい商業圏が育っていく。ドイツのケルン・マインツ・ニュルンベルク・アウグスブルク・ミュンヘン、フランスのシャンパーニュ地方やパリ・ルーアン・リヨン・ボルドーなどで商工業が勃興していったことで、「中部ヨーロッパ商業圏」ともいえるものが形成されていった。
 これらのうち、イタリア地域では、カロリング朝断絶以降、13世紀頃からは都市の経済力が上がるにつれ、封建領主からの自立するための自治権を都市が求めるようになっていく。国王や領主などに迫って、都市に対する様々な権力の放棄・委譲を認めた特許状を得るなどした。特許状の内容としては、市場開催権、貨幣鋳造権、交易権及びその集大成としての自治権などが含まれていた。

(続く)

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♦️448『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のアフリカ1(アパルト・ヘイト(1945~)

2017-09-12 10:38:19 | Weblog

448『自然と人間の歴史・世界篇』戦後のアフリカ1(アパルト・ヘイト(1945~)

 1948年、NPがUP(United Party:統一党)を選挙で破り、政権の座に就きました。NPはこの全国選挙でアパルトヘイトをスローガンに掲げました。
 英国の勢力は、1948年の国民党政権の樹立以降は現地を支配し、黒人に税金を課すこともためらいませんでした。このため、土地と生活手段を奪われた黒人は採掘現場へと労働にでざるをえなくなくなる。国民党政権の政策は次のとおり。かれらは、すべての南アフリカの国民を4つの人種に分けて考えた。白人、カラード(混血)、インド人、黒人。そして異人種間の結婚の禁止、非白人への居住地指定による強制移住、白人とそれ以外の人種との間で公共施設の分離等であった。参政権は白人のみに与える。以上はアパルトヘイト(人種隔離政策)と呼ばることになる。
 白戸圭一氏による説明には、こうある。
 「白人政権は1959年制定のバントゥー自治促進法などに基づき、総人口の約8割を占める黒人を国土の13%の土地に強制移住させる土地を推し進めた。黒人は十の「部族」に分類され、部族ごとに「ホームランド」と呼ばれる土地に住むこととされた。白人政権の狙いは、すべての黒人を、どこかのホームランドに帰属させ、最終的に全ホームランドを「独立」させることだった。ホームランドが「独立」すれば、白人政権の理論の上では、南アは白人、インド系、カラード(混血)、アジア系だけを国民とする「黒人が一人もいない国」となる。つまり、南アは全黒人を追い出すことで「黒人差別のない国」となるという理屈だった。
 白人政権は、荒唐無稽としか言いようのないこの政策を本気で推し進めた。十のホームランドのうち四つを「独立」させ、六つを自治領とし、各
ホームランドには白人政権からの補助金で腐敗した黒人有力者の傀儡(かいらい)政権が作られた。ちなみに、この「独立」を承認した国が世界で南アだけであったことは言うまでもない」(白戸圭一「ルポ資源大国アフリカー暴力が結ぶ貧困と繁栄ー」東洋経済新法社、2009、70~71ページ)
 1991年6月に南アフリカ共和国がそれまでの国策としての終結を宣言することになるアパルトヘイトは、1948年から始まった人種差別を旨とする政策であった。この言葉は、同国で使用されているオランダ系現地語である「アフリカーンス語」においては、「分離」または「隔離」を意味する、といわれる。さしあたり、この政策を支えたのは4つの主要な法律であり、それぞれつぎのようなものあった。
①人口登録法(1950年)
 出生児の人種別の登録義務を定めるもので、1950年に立法化されました。この法律は1991年6月に撤廃された。
②集団居住地法(1950年)
 現住民問題法(1920年)を起訴に強化されてきたアフリカ人に対する居住制限を強化するものとして、1950年に制定された。国民に対し、人種別に居住地の地域等を定めるものであったが、1991年6月に撤廃された。
③施設分離法(分離施設保護法:1953年)
 国民に対し、人種別に公共施設(学校や病院等)の使用を定めている。人種によって学校や病院などの公共施設の利用制限を決めている法律で、1953年に立法化され、長らく被差別者を苦しめた後1990年10月に撤廃された。
④現住民土地法(土地法:1913年)
 1913年に立法化され、白人以外の人種の土地所有を制限していた。この法律は、制定当時、人口の約70%を占めるアフリカ人に対し、僅か7.3%の広さの土地(所有または賃貸)を現住民の保護居住区として割り当てるものであった。1991年6月に撤廃された。
 1951年、NPのマラン政権がヨハネスブルグ近郊の黒人居住区ソフィアタウンの解体に着手した。同地区が、ANC(アフリカ民族会議)、共産主義者(これより先1950年に、マラン政権により共産主義鎮圧法が制定され、南アフリカ共産党は非合法化されていた。)、インド過激派たちの反政府運動の拠点となることを未然に防ごうとしたのであった。
 これらに関連して、NP政権になってからは、道徳倫理まで踏み込んだ立法として、異人種結婚禁止法(1949年制定、1985年廃止)や不道徳法(1950年制定、1985年廃止)が制定されていく。さらに、めずらしいところでは、1952年制定のバンツー改正法により、アフリカ人の男子全員がパス(身分証明書)の常時携帯を義務付けられた。それは、1986年にはパス法が廃止となるまで続いた。

(続く)

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♦️329『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義の始まり

2017-09-12 10:22:04 | Weblog

329『自然と人間の歴史・世界篇』帝国主義の始まり

 19世紀後半から末葉にかけて世界が投入した世界のことを「帝国主義の時代」という。それ以前のあり方にもこの言葉が使われるものの、ここに至って体系的にまとまった概念として使われるようになったものである。とはいっても、この時代の帝国主義の歴史的地位については、当時の人びとの頭の中ではなかなかに複雑な仕組み、組み合わせになっていたのではないかと考えられる。それが資本主義という社会体制を土台にして成立していたことには異論がなかったものの、この概念は、人間社会の上部構造の話となると「全体主義」や「排外主義」なり「人種主義」などの概念と絡み合って用いられていた。
 そこで、まず帝国主義の土台の部分から簡単にみておこう。レーニンの『資本主義の最高段階としての帝国主義』(略称は「帝国主義論」)に、こうまとめられている。
 「第四に、独占は植民政策から生じた。金融資本は、植民政策の数多くの「古い」動機に、原料資源のための、「資本輸出」のための、「勢力範囲」のための-すなわち有利な取引、利権、独占利潤、その他のためのー、さらに、経済的領土一般のための、闘争をつけくわえた。ヨーロッパの列強が、1876年にまだそうであったように、たとえば、アフリカの10分の1をその植民地として占取していたにすぎないときには、植民政策は、土地をいわば「早いもの勝ちに」占取するという形で、非独占的に発展することができた。
 だが、アフリカの10分の9が奪取されてしまい(1900年ころ)、全世界が分割されてしまったときには、不可避的に、植民地の独占的領有の時代、したがってまた、世界の分割と再分割のための大きな闘争のとくに先鋭な時代が、到来したのである。
 独占資本主義が資本主義のあらゆる矛盾をどれだけ激化させたかは、周知のところである。ここでは、物価騰貴とカルテルの圧迫とを指摘すれば十分である。矛盾のこの激化こそ、世界金融資本が最終的に勝利してからはじまった歴史的過渡期の、もっとも強力な推進力である。」(ヴェ・イ・レーニン「資本主義の最高段階としての帝国主義」大月書店、1957の「レーニン全集第22巻、347ページから間接的に引用)

(続く)

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♦️885『自然と人間の歴史・世界篇』イラン核合意(2003~2016)

2017-09-11 09:20:19 | Weblog

885『自然と人間の歴史・世界篇』イラン核合意(2003~2016)

 イランは、1970年のNPT(核拡散防止条約)の発足当初から加盟していた。とはいえ、イラン革命の高揚感に象徴される1980年代に入り、二酸化ウランや六フッ化ウランを入手し、遠心分離器の実験やレーザー濃縮実験を開始した模様。1990年代に入ると、テヘランの核関連施設における実験で、少量のプルトニウムの抽出に成功したという。
 2003年、IAEA( 国際エネルギー機関、International Atomic Energy Agency 、国際連合傘下の自治機関)の理事会にて、イランに対する非難決議案を全会一致で採択する。2006年に入ると、国際連合安全保障理事会が動く。この安保理において、英仏独3カ国が提出したイランに核開発中止を求める決議1696を採択した。同決議には、は8月末までに核開発を中止しない場合、制裁措置を検討することが盛り込まれた。2008年、IAEAが国連への報告の中で、遠心分離機約3800基が設置され、低濃縮ウラン約480キロが製造済みとした。2008年には、IAEAがイランが新たなウラン濃縮装置「カスケード」を設置し、ウラン濃縮を継続、拡大していると報告した。
 2009年、IAEAがイランのウラン濃縮を報告、その中でナタンズの遠心分離機は7000台体制になり、うち5000台が稼働していると報告した。同年6月に再選されたマフムード・アフマディーネジャード大統領は、核問題は「過去の問題」と述べ、ウラン濃縮停止に応じる考えがないことを示した。この年の10月、イランが新核施設の査察を容認するにいたる。11月には、イランが10か所の濃縮施設の新設を表明する。
 2010年2月、アメリカのオバマ大統領は、イランがウランの濃縮度を20%に高める工程を開始したことについて、この活動を続けるなら「次の措置は制裁だ」と警告した。この発言の背後に、アメリカと緊密な外交関係にあるイスラエルの意向が働いていたことは、疑いなかろう。6月、国連安保理がイランへの追加制裁決議を賛成多数で可決した。
 2013年8月、アフマディーネジャードがイラン大統領を退任し、後任に穏健派と目されるハサン・ロウハーニーが就任する。10月、ロウハーニーとアメリカのオバマ米大統領との断交以来初の電話会談も実現した。イスラエル側は全くロウハーニーの主張を受け入れておらず、イスラエル単独での軍事攻撃も辞さない姿勢を崩さなかった。そして11月、イランと欧米など6カ国で交渉が行われる。イランと国連安保理常任理事国とドイツの6カ国が核開発の透明性を高める代わりに対イラン制裁の一部を緩和する措置をとることで合意した。
 2015年7月、前の6か国とイランとの間の核協議が最終合意(正式にはJoint Comprehensive Plan of Action(JCPOA)、つまり「包括的共同作業計画」と呼ばれる)に達した。イラン側は核開発の大幅な制限、国内軍事施設の条件付き査察を受け入れる。

 イラン国内では核開発能力自体は維持した。すなわち、イランの核開発に関する制限を行い、イランは部分的に平和目的の原子力開発を行うことは認められた訳だ。この合意を最高指導者のアリー・ハーメネイーも同意したことが伝わる。2016年1月、IAEAはイランが核濃縮に必要な遠心分離器などを大幅に削減したことを確認と発表した。これを受けてイランと6か国(安保理常任理事国である米英仏中ロとドイツ)は同日、合意の履行を宣言し、米欧諸国はイランに対する経済制裁を解除する手続きに入った。ただし、この「核合意」の中ではミサイル開発やミサイル実験については一切触れられていないことに留意する必要がある。

(続く)

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♦️145『自然と人間の歴史・世界篇』中世都市ヴェネツィアの自治

2017-09-10 23:12:26 | Weblog

145『自然と人間の歴史・世界篇』中世都市ヴェネツィアの自治

 初期のヴェネツィア共和国は、アドリア海の沿岸地域はもともと「東ローマ帝国」の支配下にあった。だが、このヴェネチア人たちは、したたかであった。地中海交易で力をつけていった。「自治権」を持っていたので、完全従属ということではない。697年には、最初の代表者(「Doge」(ドージェ)という)を選出した。これが「ヴェネチア共和国」の始まりであった。以来、中世はおろか、近代の1797年の共和国滅亡まで、ちょうど1100年を生き抜く。
 ドージェの選任方法は明確には定められておらず、有力な家門から選出するという慣例があるのみであった。それ故に、初期のヴェネツィアではドージェが自身の血縁者に後を継がせようとする傾向が強かった。政治の実権を握っていた貴族たちは、ドージェが世襲制となることで共和制が崩壊することを、恐れた。そこで、改革がなされる。ドージェが後継者を指名することを禁じる法律が制定された。1172年には、ドージェは40人の委員による選挙により決められることとなった。
 その選出の舞台は、大評議会という上級貴族の集合の場であった。大評議会とは、25歳以上の貴族全員で構成され、時代によって差はあるものの、1000人から1500人の男子の集まりであったという。これは立法機関であり、時によっては法的機関としても作用していたという。この大評議会の中枢が『元老院』であって、その中には元老院議員(追加議員を含む)と各部署の長官がいて、16世紀にはその総数は260名にもなっていたという。
 1268年に新たに制定された選挙方法では、さらなる工夫がよみとれる。ちなみに、このヴェネチア共和国の社会構造は13世紀末頃から貴族、市民、庶民の3層に分かれていて、その中の貴族だけが参政権を持っていた。まずは、30人の委員がくじ引きにより大評議会から選ばれる。それからは、籤(くじ)引きを含めたかなり複雑な手続きを経てゆき、ついにドージェが選ばれる、そのドージェは終身任期であった。
 なぜそんなに複雑な手続きにするのかは未だによくわからないものの、その手続きが「これでもか」とだんだんに継ぎ足されていくうちに、有力家門といえどもドージェの位を自由にすることは難しくなっていくのを意図していたのではないだろうか。た。この制度は共和国滅亡まで綿々として維持されたという。

(続く)

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♦️328『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義者鎮圧法

2017-09-10 22:22:22 | Weblog

328『自然と人間の歴史・世界篇』社会主義者鎮圧法

 新しい国家としての統一がなってからのドイツは、近隣諸国との間でフランスの孤立を意図した同盟を結んでいく。1873年にオーストリア・ロシアとの間に三帝同盟を結んだ。また1882年に、オーストリアとイタリアとに働きかけて三国同盟を結んだ。その後バルカンで半島においてオーストリアとロシアとの対立が激化して三帝同盟が弱体化すると、1887年にはロシアとの間に新たな安全保障条約を結んだ。
 おりしも国内では、急速な資本主義化により、階級対立が激しくなりつつあった。1875年には社会民主主義のラサール派と、社会主義を標榜するマルクス主義派(アイゼナッハ派)がゴータで合同大会を開き、世界最初の労働者の単一政党である、ドイツ社会主義労働者党(1890年にはドイツ社会民主党に改称)を結成した。この時、歴史に名高い、『ゴータ綱領批判』がマルクスとエンゲルスによってなされた。労働者階級は、社会構造の変革にめざめつつあった。およそこれら動きは、ビスマルクの出身階層である土地貴族としての「ユンカー」や資本家層には大きな脅威となってきた。
 そして迎えた1878年には、皇帝狙撃事件が起きる。このときのドイツ帝国の首相はビスマルク(1871~90在任)であって、皇帝の下で国民に対しある種の独裁政治を行っていた。かれの政治手法とは、「アメとムチ」の使い分けで有名だ。その彼が、この事件を口実に議会の協力を得て制定したのが、通称「社会主義者鎮圧法」であった。もう一つの政策スローガンの「アメ」としては、労働者を社会主義者から遊離させるため、独自の社会保障制度の制定などの社会政策が進められた。この社会主義者鎮圧法だが、「社会民主主義、社会主義もしくは共産主義的な活動」によって国家、社会秩序の転覆を図ろうとする結社、集会、印刷物、寄付金の徴集などを禁止した。そしてこの目的を達成するべく、ほか、特定地域の部分的戒厳令の施行、違反者の居住地制限なども規定していた。
 さてもさても、この法律は時限立法で、その期限は延長をつづけ,結局12年間この法のもとにあったのだが。制定から10年後の1888年、ヴィルヘルム1世が亡くなり、フリードリヒ3世が即位したが在位わずか99日で没し、孫のヴィルヘルム2世(在位は1888~1918)が29歳で即位した。ヴィルヘルム2世は、社会主義者鎮圧法を維持するかどうかの扱いを巡って宰相のビスマルクと対立した。ビスマルクの方は、社会主義者鎮圧法の有効期間を延長しようとしていた。それに対し、1890年9月には、ヴィルヘルム2世は社会主義者鎮圧法の延長を否決した議会の決定、同法は失効した。同法施行後の10年間に、1299の印刷物、332の団体が禁止されたという。
 そればかりではない、ヴィルヘルム2世は、安全保障条約の更新をめぐってもビスマルクと対立していた。ヴィルヘルム2世は、友好国との安全保障条約の更新を拒否した。1890年、ビスマルクはとうとう辞職を余儀なくされ、ヴィルヘルム2世の親政が始まった。
 この頃までに、ドイツの資本主義は重化学工業を中心に工業がめざましく発展していた。1840年代の産業革命によって、その発展の基盤が整えられていった。その後1910年までにはイギリスを追い抜き、アメリカに次ぐ世界第二の工業国となっていく。軍備についても増強していく。こうした培った経済力と軍事力を背景に、ドイツは「世界政策(新航路政策)」と呼ばれる積極的な帝国主義政策に乗り出していった。

(続く)

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♦️664『自然と人間の歴史・世界篇』イラン革命への道(1963~1980)

2017-09-08 21:21:13 | Weblog

664『自然と人間の歴史・世界篇』イラン革命への道(1963~1980)

 1963年、パーレビ国王が土地改革を中軸とする「白色革命」を提唱しました。これは、大地主の勢力を排除しようとするものでした。そのねらいは、石油と鉱工業を中心とする急速な工業化を進めることでした。
 その政治手法は、国民の基本的人権を踏みにじるもので、6万人に及ぶ秘密警察網を使って政策に批判的な国民を圧殺しながら進められました。宮崎義一氏は、こう分析しておられる。
 「当然、農村と都会の間の経済的格差は拡大する一方となった。1959年、農村所得と都市所得の比は1対4.6であったが、66年には、それが1対5.7に拡大した。
 次に都市の内部にも、近代工業と伝統的なバザールの間に亀裂が深まってきた。超近代的な鉱業に対しては、イラン鉱工業銀行からオイルダラーを源泉とする低利の融資が与えられたが、従業員100人以下の伝統的な商工業者によって構成されているバザールに対しては、その便宜は与えられず、バザール内部の金貸しからの高利の融資しか許されなかった。つまり、シャー・パーレビは、イランの経済成長を可能な限り加速することを最善の経済政策と考え、イラン経済の不均衡拡大を承知の上で、偏向的な超近代化政策を敢行したのである。」(宮崎義一「世界経済をどう見るか」岩波新書、1986、78~79ぺージ)
 「その傾向を一層推進したのが、第一次石油危機以降の石油価格の高騰である。イラン第五次5カ年計画(1973-78年)は、石油危機によって目標成長率を上方修正し、それを、実に、25.9%まで高めた。パーレビ国王はこれを実現し、1990年代までにイランを世界の五大工業国(アメリカ、ソ連、EC、日本、イラン)の一つにしたいと考えていた。1973年12月、第一次石油危機の渦中で行われたニューヨーク・タイムズ紙記者のインタビューの中で、「いま、私自身がイランに期待していることは、20年か25年以内に、イランが世界の偉大な先進国の先頭に立つようになることである。これは非常に野心的であるが、必ず実現すると確信している」と公言していた。しかしその結果は、激しいインフレーション(年30%以上)所得格差の拡大、労働者不足、住宅問題などの社会問題の発生によって、国王に対する不満を強めていった。
 ところが、このパーレビ政策を先進工業国は大いに歓迎した。なぜならば、性急な近代化政策のため先進国からの対産油国向け輸出が急増することになったからである。先進工業国にとっては、石油代金は4倍に上昇したとしても、産油国が受け取った石油代金より多額の先進国の工業製品を輸入してくれさえすれば、貿易収支と経常収支の赤字は解消することになるる。しかもその工業製品の輸出価格が、高騰した石油価格をコストの中に十分組み入れた新価格体系を実現しておれば、なおさらのことである。(中略)
 しかし、その反面、すでに述べたようにこのパーレビの五カ年計画は、イラン国民に対して重大な経済困難をもたらした、近代的工業化重視のパーレビ政策に対する国内の怨嗟の声は高まるばかり。この高まる怨嗟は、ついてイランの五カ年計画を挫折に追い込むこととなる。そのため、1977年8月、パーレビ国王はアムゼガル内閣を成立させ、成長率抑制にふみきったが、それは、当然大量の失業者を生み出すこととなった。1977年の経済成長率は2.7%に低下、そしてついに1978年、経済成長はマイナスとなり、失業者の激増とバザール中小業者の不満と、それにシーア派イスラム勢力の結集による反体制国民運動の発生に至る。
 その年12月11日「アシュラ」とその前日にはテヘランで国王に退位を迫る100万人(全国で500万人)のデモとなり、ついに79年1月16日、パーレビは国外に追放され、ついで2月にはホメイニ師が帰国、そして3月、イラン帝国は崩壊し、ホメイニ氏の主張するイスラム共和国政府の樹立となる。いわゆる「イラン革命」である。暫定革命政府によって採用されたのは、「資本主義でも社会主義でもない」イスラム経済政策であり、銀行、産業の国有化、大規模開発工業の中断、ないし縮小であった。
 かくてパーレビの着手した早すぎた近代工業か政策はここで完全に頓挫するばかりか、加えて、「イラン革命」をバックとする第二次石油危機の勃発によって、先進工業国の経常収支の黒字はわずか78年の1年間だけで終わり、79年から再び280億ドルに及ぶ大幅赤字に転落し、第二次OPEC不況に突入することになるる。」(宮崎義一「世界経済をどう見るか」岩波新書、1986、78~81ぺージ)

(続く)

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♦️884『自然と人間の歴史・世界篇』ドバイショック(2007)

2017-09-08 21:11:45 | Weblog

884『自然と人間の歴史・世界篇』ドバイショック(2007)

 アラブ首長国連邦は、1971年12月に独立した。このアラブ首長国連邦(UAE)を構成する7首長国とはアブダビ、ドバイ、シャルジャ、アジュマーン、ウンム・ル・カイワイン、ラアス・ル・ハイマ、フジャイラである。その中の一つ、ドバイは、2007年には年18.1%増であった国内総生産(GDP)成長率は、2009年になるとマイナス2.4%に落ち込んでしまった。これを「ドハイ・ショック( Dubai's shock)」と呼んでいる。
 では、ドハイ・ショック( Dubai's shock)はどのようにして起きたのでしょうか。
ドバイ・ショックは、2009年11月下旬にアラブ首長国連邦(UAE)の一員であるドバイ首長国が背負っている債務の大きさから「ドバイの支払い能力」への国際的な懸念が起き、それを巡って世界中に広がった信用不安のことをいいます。
 ドバイ首長国政府が同年11月25日に、ドバイの代表的な政府系持ち株会社のドバイワールドと、その傘下の不動産開発会社のナキールが抱える全ての債務の支払いを猶予してもらうよう、返済繰り延べを債権者に要請する、と発表しました。政府によると、ドバイワールドの債務はナキール分を含めて総額590億ドル(日本円では約4兆6千億円)を上回るとのことでした。
 ドバイ首長国は、UAEの首長国の一つで、連邦の首都があるアブダビ首長国が大量の油田を持つ一方で、ドバイは原油をほとんど産出しません。そこで、原油に依存しない経済で何とか自立することをを目指していました。
 具体的には、港湾開発や航空網の整備を進め、その地理的な優位性を生かして中東湾岸地域の商業・交通拠点を目指していました。そこで問題なのは、その目標を達成するために、官民一体となって、巨額の借り入れを繰り返して大型開発を進めてきたことにあります。
 しかしながら、2008年秋の「リーマンショック」を皮切りにして、世界的な金融危機後に同国への資金流入もまたやせ細っていきました。その過程で、それまで右肩上がりであった不動産価格も大きく下落したことで、これまでの開発・成長モデルに大きな陰りが生じ、そして開発資金の多くを借金に依存していたことによる、債務返済、つまり資金繰りに窮するに至ったのでした。
 バイ首長国政府は、国際社会に対して、返済期日を2010年5月30日まで繰り延べてもらいたいとしました。
 これに対して中東の湾岸諸国と取引の多い欧州金融機関への収益懸念などがドミノ式に広がっていきました。英国やドイツ、フランスなどの主要株式市場で欧州株が急落すると共に、ユーロなどの通貨も売られ、これが世界の金融市場の閉塞感の侵攻に拍車がかかる、という負の連鎖反応が市場を駆け抜けていきました。
 日本に関しては、日本株が大きく売られる一方で、消去法的に円が大きく買われたため、外国為替市場で円相場の上昇があり、2009年11月27日の日本時間の早朝には、一時、14年4カ月ぶりの高値となる1ドル84円台まで上昇した。
 その後については、ドバイ政府自体の信用不安に直結する可能性もあることを憂慮した同じアラブ首長国連邦の一つ、石油資源を持ち、金融センターをも持つアブダビが「兄弟国」であるドバイ救済に乗り出すことで、ドバイが経済的破綻を回避させるべく動き始めたのに始まります。
 具体的には、アブダビ政府政府などが100億ドルをドバイに支援したことでドバイの危機的状況はぎりぎりで国家的破綻を免れたのでした。実際の返済塩基の対象債務の額は260億ドルと言われています。ナキールどうなったかと言えば、ドバイワールドから切り離されてドバイ政府の管理下に置かれることになったのです。

(続く)

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