106『自然と人間の歴史・世界篇』ササン朝ペルシア
紀元後の3世紀になると、パールス地方のペルセポリス付近に定住し、パルティア帝国に支配されていたペルシア人の貴族アルデシール1世が、パルティア帝国の王と対立し、224年に王を討つ。226年クテシフォンを陥れる。これにより、パルティア帝国は衰退かせ滅亡への道へと下り、パルティア帝国に取って替わる形で、アルデシール1世は初代のペルシア王となる。こうして古代イランの地にあらわれたこの王朝を、ササン朝ペルシア帝国(226~651)という。アケメネス朝ペルシア帝国以来のペルシア人の王国の誕生である。
ここに「ササン」とは、アルデシールの祖父の名に由来する。都はパルティア帝国と同じクテシフォンに置かれた。パルティア帝国が遊牧イラン人主体であった。これに対し、この帝国は農耕イラン人であるペルシア人が建国した。さらにアケメネス朝時代からペルシア人の拠り所であり、アルデシール1世が祭司の家柄であるササン家出身であることから、この王朝は自らの正当性をイランの伝統を継承することに置く。その一環としてか、230年にはゾロアスター教を国教にして、宗教面からも国家統一をはかる。
こうして新しい王朝をひらいたアルデシール1世であるが、彼は、西方のローマ帝国(紀元前27~紀元後395)の皇帝セウェルス・アレクサンデルと長きにわたって戦ったものの、破れる。けれども、ローマ帝国に対して力で渡り合ったという意味では、面目を保ったのではないか。そのアルデシール1世没後、王位を継承した子のシャープール1世は、ペルシアの中央集権化に努めた。彼は、外征にも積極的であった。東方へ向けては、インドのクシャーナ朝(1~3世紀)を敗ってアフガニスタンに進出した。また、父の代から抗争を続ける西方のローマ帝国とも戦い、軍人皇帝ヴァレリアヌスと対決し、260年皇帝を7万余のローマ軍とともに捕虜とする、これを「エデッサの戦い」という。ペルセポリス近郊にあるナクシェ=ルスタムの岩壁に刻まれた戦勝記念碑には、ヴァレリアヌス帝が馬上のシャープール1世の前で跪いている姿が彫られている。その後も、389年アルメニア地方をローマと分割して統治するにいたる。そのアルメニアの帰属をめぐって、ローマ帝国とササン朝との抗争は続く。シャープール1世はアルメニアに進出してローマ軍を破り、東方ではインドのクシャーナ朝を圧迫する。
395年には、ローマ帝国は東西に分裂する。ササン朝にとっては東ローマ帝国(ビザンツ帝国、395~1453、ただしコンスタンティノープル遷都の年である330年を建国年とする場合もある)が新たな敵となる。ササン朝第15代バフラーム5世治世の425年、アフガニスタン北部に興っていたエフタルと激戦を交わされる。ササン朝は西のビザンツ帝国、東のエフタルと、2大強敵と戦う宿命に立たされた。
ササン朝最大の君主・ホスロー1世(在位は531~579)の時代になると、6世紀に中央アジアに興ったエフタルに侵入され、一時衰えていた。そしてホスロー1世が出て国力を回復し、エフタルを撃退するとともにビザンツ帝国と互角に戦うにいたる。こうしてホスロー1世はササン朝の盛り返していくのであった。562年には、エジプト遠征を行い、翌563年にはトルコ系遊牧騎馬民族突厥(とっけつ、552~744)と同盟を結んでエフタルを挟撃してこれを滅ぼし、バクトリア地方を征服、570年には南アラビア(イエメン地方)遠征を行い、同地を占領した。ホスロー1世の最大の対決相手は、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世、在位527~565)だった。当時のビザンツ帝国は、周辺のゲルマン国家、534年にヴァンダル王国、555年に東ゴート王国を征服)を下し、を次々と征服して国力を上げていた。
ホスロー1世は、対外政策を有利に進めるばかりでなく、内政においても有能であった。国土を4行政区に分割して土地台帳をつくり、地租制度を入れて財政を強化した。バビロニアでは運河を建設し、古代メソポタミアからの灌漑農業を発展させ、国内の交通路も整備していく。宗教面では、シャープール1世の時にマニ教が保護されたことがあったのだが、ホスロー1世は国教としてのゾロアスター教(火を扱うことから「拝火教」ともいう)の整備に努め、聖典『アヴェスター』を編纂させる氏法では、マニ教は異端として禁止される。また、ササン朝の文化はシルクロードを通じて、日本を含む東アジアにも影響を与えていく。他の宗派に向けては、マズダク教の弾圧とキリスト教の寛大策がある。さらに431年、ホスロー1世はビザンツ帝国におけるエフェソスの公会議で、異端とされたキリスト教・ネストリウス派(キリストの神性と人性を分離して解釈する一派)を、反ローマ帝国の一環として受け入れる。
また、過去の君主と比べても群を抜く文化の保護者であった。諸外国から学問・芸術品・特産物を取り入れていく。最も輝きをなしたのは工芸品であろうか。金・銀・青銅・ガラスなどを材料にして皿・瓶・香炉・陶器などが製作された。この工芸文化は、その後ペルシアに現れるイスラム世界でも影響を受け、西は地中海諸国を中心に、東はインド・中国(南北朝・隋唐時代)をへて、日本の飛鳥・奈良時代にも伝播するのである。奈良の正倉院(しょうそういん)には白瑠璃碗(しろるりわん)・漆胡瓶(しつこへい)、同じく奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)においても獅子狩文錦(ししかりもんきん)などがその代表である。他にも、「ササン朝美術」は、現在も異彩を放っている。語学ではこれまでのパフレヴィー語に加えギリシア語・サンスクリット語が研究されたという。全体に、アケメネス朝以来の伝統文化にインド、ギリシア、ローマといった東西の諸外国文化を融合させ、新しいペルシア文化を開花させた。
ホスロー1世の治世後も、ビザンツ帝国と何度も戦う。有名なのは、ホスロー2世の治世になっての27年のニネヴェの戦いでは、ビザンツ皇帝ヘラクレイオスの軍と激突する。そのホスロー2世の治世下でシリアやエジプトを攻略するなどしたことで、ササン朝の版図は最大となった。しかし、対外政策における軍費負担は、帝国の財政を逼迫させていく。諸侯の内部対立も激しくなっていった。ホスロー2世没後のササン朝ペルシア帝国の君主は、ほぼ1~2年の王位交代劇を繰り返していき、だんだんに国力が衰えていった。その間もボスボラル海峡を挟んで西の東ローマ帝国とも戦わねばならなかったこともある。そして、正面を向いては、新たなる敵・アラブのイスラム軍の来襲も始まる。
そして迎えた7世紀、ササン朝最後の王ヤズデギルド3世(在位は532~651)のとき、しかし、長期にわたるビザンツ帝国との抗争は次第に国力を奪い、その間にアラビア半島に興ったイスラーム教勢力がササン朝領に侵攻を開始していた。642年、アラブの正統カリフのウマル1世(在位は634~644)のイスラム軍が、ササン朝における交通の要衝であったニハーヴァンド(ザクロス山脈北西方面)でペルシアと大戦争を繰り広げる。そして、ペルシアのヤズデギルド3世の軍はウマルの軍に完敗、ウマルはササン朝ペルシアの領域を占領する。ヤズデギルド3世はカラクーム砂漠南部のメルヴまで逃亡する。これを「このニハーヴァンドの戦い)」といい、これをもってササン朝ペルシアは滅亡した。これによってイラン人のイスラーム化が進み、西アジア史は一変していく。
(続く)
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