ポンポンダリアの独り言

毎日、何気なく生活する中で感じた事を気の向くまま、思うがままに投稿して見ようと思いました。

ピアノデュオ クトロヴァッツ コンサート

2009年11月30日 | Weblog
日本とオーストリア友好140周年記念のコンサートが田園ホールエローラ(松伏町)において行われました。
あまり聞きなれない“クトロヴァッツ”ピアノデュオとあるのでピアノのコンサートだと思うので興味が湧きチケット予約を3ヶ月前にしておいたものなのです。

一応人の勧めで、ホール・エローラの会員になっているものの利用した事が無かったのでこれもまた初体験という事でワクワクでした。

兄弟のピアニスト(Eduard Kutrowatz/Johannes Kutrowatz)共にウィーン国立音楽大学の教授である2人は教鞭を執るかたわら世界中で精力的に演奏活動を続けているそうです。彼らの音楽教育はヨーゼフ ハイドン音楽院に始まり、ウィーン国立大学では、兄ヨハネスはピアノとクラリネットを、弟エドワードはピアノと打楽器を専攻すると共にピアノ四手連弾や2台のピアノ演奏に本格的に取り組む。
1986年イタリアのストレサ國際ピアノコンクール、ピアノデュオ部門で1位を受賞して以来、その深みにある音楽表現と多彩な演奏技法から世界最高峰のピアノデュオと評されている。とプロフィールに記されていました。

目を見張る連打、兄弟の息の合った演奏、私はクラッシックが好きです。その中でもピアノが好きで良く聞いたりしますがピアノ2台での演奏は初めての観賞でした。初体験、その素晴らしさに息がつまりそうでした。

二人の演奏は6曲とアンコール曲5曲とサービス精神旺盛に思いました。
ピアノの為にアレンジされた曲は一層の味と深みのある旋律・・・それらの曲が演奏されるたびに感動し、惜しみの無い拍手となりました。

演奏記念にCDを発売されていました。初めは購入する気は全然ありませんでしたが・・・もう曲に酔いしれて是非とも買う気持ちになりました。が生憎と持ち合わせが無く・・・たった1枚のみの購入だけでした。
サイン会も行われ、CDの表面にサインをお願いし、快く書いてもらいました。
そして "I wish you good luck!"といって握手をしました。

がっちりと組んだ手、思わず力が入ってしまい “オー!ワオー!”とジェスチュアと顔のゆがみ。I'm sorry so sorry! と言い私も肩をすくめてのジェスチュアをして返し一寸の間の会話も楽しみました。

車の中では早速CDを聞きながら夕闇迫る町の中へと帰路に着きました。

秩父ミューズパーク

2009年11月29日 | Weblog
晩秋を迎え身近な街路樹もカサコソと落ち葉が目に付くようになりました。
以前に新聞に「秩父ミューズパーク」の銀杏並木が見頃を迎えているという記事を見て秩父ミューズパークには、まだ行った事がないので行って見たいと思いながらなんだかんだと自分の用をこなしていて、それから3週間も過ぎてしまったのですが明日は晴天で暖かいと言う天気予報に気が動き11月26日の早朝秩父に向かって出かけました。

途中、薄い霧の中久し振りに通る道路にはすでにライトを付けた車が多く走行していました。1時間半ほど過ぎた頃には紅葉している秩父の山並みが見えはじめ、それからナビに頼りながらの走行となりました。秩父の小鹿野町にミューズパークはあるのです。6時に出発し現地到着9時過ぎでした。

そこはとても広く北門から南門まで細長くて結構広いので要所々の駐車場に車を駐車しながら散策をしました。お目当ての銀杏並木はもうすっかり葉は落ちて閑散とした木の枝だけの銀杏並木が小春日和の太陽に照らされて淋しく並んでいました。

やっぱり遅かったか~! 公園の係りの方に聞いてみましたらもう1週間前には葉は落ちていましたよ・・・・!新聞に載った時の銀杏は一番の見頃だったですね。
聞くだけヤボだったとむなしく話を聞いていました。折角、遠くまで来たので時間の許す限り落ち葉をけ飛ばしながらミューズパークを見て回りました。最近カメラの本体の新しいものを中古で買ったのでそのカメラでの初写しを試みる事にしました。
いい写真が取れるといいなぁ~~!と思いながら被写体を追って見ました。
帰路の道中に長瀞の渓流下りをする船を追ったり、その川にある鉄橋を秩父鉄道が走るのをカメラに納めたりして見ましたがなかなか思うようには写せないので・・・困ったものです。

何事も経験だ~!と勝手な解釈にうなづき、暖かった秩父を後にしました。

映画「沈まぬ太陽」

2009年11月24日 | Weblog
「個人の尊厳や生命を奪う、組織悪にメスを入れ日本のはらわたを凝視する問題作と原作:山崎豊子の“沈まぬ太陽”の映画を紹介されていたので見に行きました。“沈まぬ太陽”とは何を意味するのか?が興味もありました。

主演:渡邊謙扮する“恩地”の生き方がありました。そしてこの映画はフィクションなのですね。「御巣高山」で過去に日本航空が墜落し大勢の犠牲者を出しましたが、映画の中では国民空港がいろんな状況の人達を乗せて離陸し、その御巣高山で遭難の場面。墜落する飛行機の中での人々の情景が胸を締め付けられました。
国民空港に席のある恩地がそれから墜落事故に関わり組合闘争にも関わり、会社との衝突で都落ちを余儀なくされ、家族にも迷惑を掛けながらも自分の意思を貫き
会社の悪を見つけて暴くと言った内容でした。

映画を見ながら、一人の男としては魅力的ですが、家庭を犠牲にしてまで貫くのは今風に考えるとあり得ないと思いますが、留守を守る主人公の妻の葛藤はあるとしても信頼関係で乗り越えていく姿に拍手を送る気持ちでした。

現代の世の中にも政治・企業のトップの不正を働くやからが多く新聞沙汰になっています。欲に目がくらみ・・・人間の欲望、それに伴う惨忍さは人間の生活には
付いてまとう煩悩なのでしょうか?

誰にでも平等に照らしてくれる「太陽」は世の中の悪を静かに見据えていて、心清らかな美しい太陽としては沈まない事をこの小説では訴えているのかなぁ?と思いました。

越後湯沢の旅

2009年11月22日 | Weblog
2009年の大河ドラマ「愛・天地人」も今日で最終回となりました。
と言っても私は見てなかったのですが、有志の希望でその大河ドラマに関連する天地人博が南魚沼にあると言う事で計画されました。

11月19日(木)7:45春日部西口より総勢20名を載せたバスは出発しました。
関越のドライブは山々の紅葉がまだ綺麗に照っていて目を楽しませてくれました。
11:32六日町に到着です。早速に天地人博の見学です。1時間の見学時間が取られましたが、興味が無かったので20分もすれば外に出てしまい、残りの時間は景色の写真を撮って過しました。

つむぎの里も見学、今では手間隙かけてのつむぎ折りは、やはり手間をかけて織り上げても着物を着る人も少なくなってさっぱりだし、後継者は勿論期待できない状態で寂しいものだと紬を織って見せる案内の方は話していました。
一反織るのに一日中織っても3ヶ月は掛かるようです。高いものになるはずです。
細かい柄を作りながら織る作業は私は気が遠くなりそうでした。

昼食(蕎麦)私は蕎麦が嫌いなので一人だけ(うどん)にしてもらいました。
もそもそとして、味も苦味を感じる蕎麦。体の為にいいと言われても食感が合わないのよね。

2:00「雲洞庵の土踏んだか・・・・?」と言う言葉があるようですが、赤門から本堂に続く石の裏に法華経を書いて埋めてあるのだそうです。この為、功徳がると言う事からこの言葉が出来たと説明されていました。
又天地人の主人公“上杉景勝”“直江兼続”は雪国の二人が将来名将となるべき基礎を培った少年期はこの「雲洞庵」にて修行を積んだそうです。
なんだか少し興味が湧き大河ドラマの総集編を見たくなってきました。
歴史にも弱いので画像で見ると良く理解できるのではないかとも思いました。

今日の見学の最後は、川端康成「雪国」を高半旅館の“かすみの間”で執筆したそうでその部屋が現代にも保存されていました。この部屋に於いては、映画化される雪国の映画撮影のスタッフも滞在したようで、古の写真が展示されていました。
冒頭の写真は“かすみの間”から川端康成も見ていただろうとする景色です。
ロマンを感じました。

16:00今日のスケジュールはThe End ホテルの窓からは雪の無いゲレンデが側に見えていてひっそりとして、ホテル内も泊り客は我々だけのようで・・・人気なし状態。なんだかもったいないような気もしますがこのような体験はあまり出来ないので甘んじてのんびりと出来ました。
桧木の香りする湯船に身をゆだね旅の疲れを癒しました。

夜に白いものがヒラり々・・・明日は雪景色?を期待しましたが夜更け過ぎに雨へと変わったようでした。

書道

2009年11月15日 | Weblog

難しい顔をして折手本に漢詩を肉筆で書き入れる我が書道の先生「石塚鳴峰」
金子鷗亭の門下である先生に書のい・ろ・はを習い始めて40年も経過してしまいました。

最近は90歳の高齢になって体の不調を理由に休み勝ちとなっていました。ご自分自身はまだ生徒の前に立ちたいお気持ちはあるようですが、足元もおぼつか無いほどで、お稽古の時に先生宅まで送迎をしてはいるものの、公民館の教室まで歩くのも容易ではなくなって来ていました。

私達も歳が進むに連れて、あっちが痛い、こっちが痛い、調子が悪いなどと言う事が多くなってきているので、お互いに大事にならないうちに、我等が属する“書道研究会”はこの辺で解散しようと言う声が大きくなったので、言いにくい事なのですが、先生にはその旨をお伝えして希望を述べて見ました。
とうとう猫の首に鈴を付けに行ったのでした。
土曜日のお稽古日に先生をお迎えに行った私がその役を勝手に引き受けてしまったのでした。

その日は体調がやはり悪いと言う事で自習となり、自習をそっちのけで
とうとう鈴をつけた事を話をして今後の事を皆で話し合いました。
その夜先生の方からの連絡で、もはやこれまで・・・皆さんに迷惑を掛けるので
解散を呑む。という結果となりました。

思い返せば息子が3歳の時、人前で筆でもって自分の名前が書けたらいいな~と言う思いで先生にめぐり合いました。“子供がちょろちょろすると気が散って書けない!”と叱られながら教室のある公民館へ通うようになりました。
その息子も一児の親となっています。思えばあっという間のようですが、くじけず良く頑張ったと思いました。

先生のお陰様で、昇段試験を受け、「師範」にもなれ、号を先生の名前(鳴峰)の一字を戴いて(鳴秀)の号をいただけました。感謝で一杯です。
なんだか一末の淋しさを感じています。
何とか人前で恥ずかしくなく、自分の名前は書けるようになりましたが・・・今ではコンピューターが発達して、フォントを変えれば、楷書・行書と書いて印刷してしまうので、一寸がっかりです。肉筆はその者の性格を現す文字となるので、コンピューターの文字とは違った味のあるものに書けるものだと思っています。

先生これからは、ご静養され、のんびりとお元気でお過ごしになられる事を切にお願いしたいと思いました。
先生長い間、有難うございました。

明治座公演「晩秋」

2009年11月14日 | Weblog
最近、国民栄誉賞受賞された森光子さんが特別記念講演という文字が目に入りました。

「放浪記」を前代未到の2000回もの公演を続けられた功績で受賞された様ですが、すごいですね~!お歳も89齢、そのわりにはお顔も歳には見えないし足元もしっかりとしていてその素晴らしさに感心していましたが、「晩秋」に出演されいる事が気に入り、座席の場所をA席に奮発して公演を見に行く事にしたのです。

いつもの観劇は招待で無料だとかA席以外の所で3階の末端の座席で、下を見下ろすような席です。オペラグラスで見て、はじめて顔の表情がわかる位置にての観賞でした。

今回は奮発したのにもかかわらず1階の正面の一番後ろの席でした。(団体が前席を陣取っているのです)オペラグラスに頼らなくとも何とか見えました。
花道も見える場所なのに・・・今回は使用されませんでした。残念!

森光子さんは特別講演なのでしょうか?あまり出番はありませんでしたが、物語の中で、“センチメンタルジャニー”を英語で歌われましたが声もしっかり発音も綺麗に歌われたのは驚きでした。元は歌手だったんですね。

人生の「晩秋」を迎えたとき人は何を思い、求めるか?とちらしにありますが、晩秋とは歳を老いた時の事での物語りで、人生の中でいろんなことを経験しながら歳を取り、結果的に舞台の物語はハッピーエンドで幕が降りました。
笑いあり、涙する時ありの舞台でした。森光子さんが出る幕では拍手が多くあったように思いました。
本当に89歳かと思うほどの演技で、長年にわたっての芸能生活の中で気遣われた諸々のことや、彼女の精神力の賜物なのかなぁ?と思いました。自分にも置き換えて、私もその歳迄元気でいられるのかな?とふと考えました。ま、先のことは誰にもわからない事だし、自分なりに精一杯に毎日を過してゆくしかないと思いまた。

「晩秋」のステージの感動を胸に刻み、出口に向かう観衆の流れに身をゆだねました。外に出た時にはいつの間にか晩秋の冷たい雨が降っていました。自分の晩秋はどの様な環境があるのか?とまた考えながら明治座を後にしました。










ふれあい公民館祭り

2009年11月13日 | Weblog
11月7日8日と今年も地区の公民館祭りが行われました。
今までは無料だった公民館が平成20年より予約システムがネット上で行う事となり、しかも有料になった事で人数的にも少なく負担が大きいので、まだ無料の公的施設に移動して「墨絵研究会」を続けていました。

無料の時での公民館活動として、公民館祭りには参加していた関係で今年も参加をすることになったのです。会員は講師を入れ、7名のみ。こじんまりとしていますが墨絵を書いている時は世間話をしながらそれなりに楽しい時間なのです。
練習は月に1回のみ。おまけに講師は高温多湿と寒冷時には日本を離れて“チェンマイ”(タイ)に行ってしまうので自習となります。

本当は講師が居なくなるのでは辞めてしまおうとも思いましたが、私が主になって頼んだ事だし、ここで辞めると墨絵に必要な道具(墨、顏彩、筆、半紙、色紙 etc.)が無駄になってしまうであろうし、ましてや書かなくなる事請け合いだと思うので、皆さんを引き止めて、本当の有志のみでの会となっているのです。

年に一回の公民館祭りに参加する事で、その日に間に合わせるように一応は、練習にも身が入ると思うので実践をしているわけなのです。
公民館祭りの当日には観客にはサクラ?もいるのですが・・・墨絵コーナーを見に来るお客様も結構来ていただけて、私たちの作品を見て、本当に思っているのかどうかわかりませんが・・・「お上手ですね、これくらい書けるといいですね~」なんて、きっとお世辞を言われていると思いながらも、やはり参加してよかったかな?と思いました。

下手な横好きという言葉があるように、その線で続けていく決心をしました。

りゅうのすけ

2009年11月07日 | Weblog
孫が下敷きをどの様にして出した音なのかわからないが、“グウェグウェ”と変な音が聞こえた。でもどこかで聞いた音・・・あ!そうだ!りゅうちゃんが嘔吐する前触れの音だ!とママが言った。そうそう、リュウちゃんの吐く音だ。と孫も続いて思い出した。とんだ思い出し方よね・・・!?

金魚の水槽の上に在りし日の「りゅうのすけ」の写真が置いてあって、皆でその写真を見て懐かしむ。一生懸命約15年間みんなのマスコット的存在であったのです。

私は猫は毛が抜けるし、泥足で部屋に上がってくるので好きな存在ではなかった。
しかし娘は結婚した相手が猫好きの様で猫を飼っていました。ある日その猫は死んでしまい、淋しくなっていた矢先のこと、前を走る車が猫を轢いたのを目撃!

あ!やられた!と思ったとたん惹かれた猫の頭がむっくりと起きたそうです。
まぁ!生きている・・・!と思ったらその轢かれた猫を無意識のうち獣医さんの所へ持って行ったそうです。
その猫は一命を取りとめて首には「パラボナアンテナ」のようなものを付けられ傷口をなめないようにされていました。獣医さんの治療には、保険というものがないので結構治療費は掛かると娘はぼやいていました。それでも先に死んだ猫の生まれ変わり・・・だと思えて飼う事にした様子。その頃はまだ子供もいなかったのでそんな気持ちになったのかも?

猫はまだ青年?だったのか直りも早くて、パラボナアンテナは取れて首周りはスッキリしたようですがどうも下半身は麻痺してトイレも自分では出来ない状態となっていました。

そんなこんなしているうちに、孫も生まれて、今までお猫サマだったのが、自分達の子供の方へ愛情を注がれて、猫は一寸おいておかれた状態?私は猫が赤ん坊にやっかんで引っかきはしないかと気をもみましたが、おとなしい猫でその心配もないようでした。
猫嫌いだった私までもが、その猫の頑張りに応援するようになり、猫もスリスリとよってきたりして喉をなでると喉を“ごろごろぐる~”と喜んでいる様子、だんだんと可愛く思うようになりました。もっぱら娘たちが留守をする時には、トイレをさせに来たり、餌を与えたりの仕事をおおせつかったりするので、猫のほうも、ちょいと私に機嫌をとっておかないとヤバイ!?と思ったかどうかは定かではありませんが、娘宅に行くと玄関に直ぐ出て来てスリスリとそのしぐさをしていました。

そういった訳でりゅうのすけ(猫)は一歩も外へでられず、いざって歩きました。たまに窓ガラス越しに自然に歩いている猫の姿を見つけては本能のまま気にして外を伺って、低くうなったりもしているのを見ていると、外へでて猫同士の世間話もしたかろう・・・と思ったこともありました。

大分たって娘のうちが2階建てになりましたが、その階段は猫にとってリハビリになったのか前足だけでズリズリと階段を上がっていたのが、後ろ足も少しは使えるようになり、よろけながらも四足で立つ事もできるようになったのです。
猫草を食べては、グェグェゲボと前触れの音がして、ママは汚物を入れる籠を猫の口に持っていったり大騒動。

二人目の孫も生まれ、猫はだんだんと中年太り。寝そべっては時々チロリと片目を開け様子を見たり、孫たちの遊び相手になったりと情操教育に役立っているようでした。

私も季節の変わり目になると猫の毛がごっそり抜けるので、粘着テープで猫の体の毛を吸い付かせ、ごっそりと抜ける毛がテープにつくのが面白くて、良く取らせてもらったのです。猫は痛いのか時々白目をむき低く唸りますが、引っかくわけでもなく又なされるままにのびていました。たまに私がテープを手にしていると逃げて行く事もありました。やっぱりいやなのでしょうね。

この様にして月日も光陰矢のごとしで過ぎてゆき、本当にある日突然、娘の旦那に
朝の挨拶でもしたのか顔を見て“にゃ~”と言ったとたんにその場に動かなくなったそうです。

娘宅の人気者のリューチャン(りゅうのすけ)の愛称で頑張って精一杯生きてくれた猫に拍手を送りたい心境でした。
paruさんのブログで「猫は目で訴えるのか?」という記事がありましたが、私は猫も目で訴えているのだと思います。 リュウちゃん良く頑張った!

文化の集い

2009年11月05日 | Weblog
今超人気の脳科学者・茂木健一郎氏が文化の日に孫の学校に講演にこられました。分刻みに引っ張りだこの彼はモジャモジャ頭で質素な服装でリュックを背負って学校に現れました。

11月3日AM10:00 めったにお目にかかれない人物だしテーマは
「脳を活かす長生き術~生涯けんこうですごすために」

興味シンシンで寒い小学校の体育館へと足を運びました。
講演でまず最初に話した事は「私は普通講演には出かけませんが、どういうわけか母親に言われて仕方なく講演に来ました。」

そうなんです、茂木氏は春日部出身です。恩師の話、友達の話、と続き今日のメインテーマーに入りました。
生涯健康に過すには①ずうずうしく生きる②くよくよしない③興味を持つべし
④人とのかかわりを持つ事などをわかり易く気取りのない話し方で聴衆をひきつけていきました。

あっという間に1時間が過ぎ質問コーナーとなり、何でも、どんな事でもいいから
どーぞ!と言う言葉に引かれ前列に座っていた私は手を上げ質問しました。

“昔から天才と気違いは、紙一重と言いますが脳はどのようになっているのでしょうか?”
“ある一つの事をさせると人の何倍も優れた事ができるが、その他のことは何も出来ない状態にあることを言う”という回答でした。
一寸質問の回答としては気に入りませんでしたが、次の講演をまだ控えていると言う事を聞いている事と、脳に関して専門的に言われてもこっちの脳がついていけないのであきらめました。
“今まで、この様な質問はありませんでした。とても斬新な質問ですね!”
と言われなんだか恥ずかしくなりました。馬鹿丸出し!と言ったところです。

彼のモジャモジャの髪の毛に関して小さい頃からのコンプレックスであったようです。いじめにもあったそうですが、勉学が秀でていたのでくよくよせずに済んだそうです。
頭のいい人でも、悩みがあると思うと親しみが感じられ人生、順風万般ではないと話の中から感じられもしました。
講演の後ネットで彼のブログを見ると今日の講演の事が記されてありました。

わ鐵

2009年11月02日 | Weblog
11月1日、紅葉が彩る秋もたけなわになってきました。
わたらせ渓谷鉄道」を被写体にしてみようと、写真の仲間で挑戦してみました。

「わたらせ渓谷鉄道」は足尾銅山で産出される銅を運ぶ為に足雄鉄道として施設された鉄道です。わたらせ渓谷鉄道はその文化的価値が認められ、駅舎や橋梁・トンネルなど、38の鉄道施設が登録有形文化財となっているようです。
明治→大正→昭和→平成と長い歴史を見守ってきた鉄道施設は、列車から全て見ることが出来ると案内パンフに書いてありました。

春日部6:04発伊勢崎線で出発、“太田”にて桐生線に乗り換え、“相老”(あいおい)にて、たらせ渓谷鉄道に乗り換え“水沼”8:41着ここでまず第1の撮影スポットで参加者10名が被写体を探しに散りました。

一日フリー切符(1800円)を買いましたが、なにせ電車の本数が少ないため、時刻表とにらめっこで調節をしながらの撮影です。

車窓から見える「高津戸峡」は赤や黄色の紅葉が織り成し、川の中につるつるした白い大理石が大なり小なりとゴロゴロとあって、小さい石を一つだけでいいから・・・持って帰れたらいいな~と思うくらい美しく魅力な石でした。

流石、この“わ鐵”は人気があるようで車内は満員でした。天候も良く眺めはもう最高で雰囲気にノスタルジアを感じ、いいムードに浸ることが出来ました。

さてこの撮影計画は我ら会長が下見までして、予定表を作成していただけたので、大変に助かりました。お陰様でとても楽しい一日でした。あとは写真の出来栄えだけです。どうでしょうかね~~?