最近友達は、私が夫をなくしたことを知り追悼の意味合いでバスツアーに誘ってくれました。行く先は横浜中華街のランチと横須賀に記念館としてある明治に活躍した軍艦「三笠」の見学と横須賀基地に停泊中の船の見学が有りました。久しぶりに船を見られるので内心わくわくでした。
軍艦 「三笠」の全体の姿 (ネット上で知らべた写真)
見学に行った日は生憎の雨模様でしたので自分のカメラでは全体像の写真は撮れなかった為、写真は借り物です。
船に興味が有るのは私の父はNYK所属貨物船“栄豊丸”7千トンのキャプテンで小さい頃、父の船が港に着くとその港まで出かけ船に乗せて貰ったものでした。
勿論太平洋戦争では兵隊さんを乗せた輸送船として活躍したと聞き及んでいます。そして嘘か本当かわかりませんが、7回も敵の魚雷を受けて沈没して…何故か運良く7回とも傷を負っても生還したという話を何度も聞かされました。
船の男として船員の制服の肩に光る四本線のキャプテンの印が有って威風堂々としていた姿は今でも目に焼き付いています。父を忍ぶ事が出来る船なので過去の事を懐かしく思い浮かべました。
三笠の マスト
東郷連合艦隊指令長官は「皇国の興廃この一戦にあり一層奮励努力せよ」の信号(Z旗)を揚げた場面の絵が展示されていました。
Z旗に関する説明もありました。
三笠の 船首 30センチ前部主砲2本 も見えます。
マスト
以前、NHKのドラマで「坂の上の雲」に於いて三笠の海戦の様子を見た記憶が有りました。それは、日露戦争で東郷平八郎司令長官が率いる日本の連合艦隊がバルチック艦隊を対馬沖に遊撃して圧倒的な勝利を収め、日本海海戦により戦争は終局に向かいポーツマス条約が締結されて両国の講和が成立した。という内容でした。
中甲板にある15㎝副砲の操砲
上記にある15㎝副砲の操砲を使う当時の様子の展示です。
操舵室
日本海戦に於いて常に連合艦隊の先頭に立ち、敵艦の集中砲火をあびながら戦い抜き、歴史的灘勝利に大きく貢献した三笠なのです。しかし今に比べると何とも貧弱な計器類や室内の殺風景な事!これでもしっかりとその役目を果たし後の世にまでその名を刻み込んでいるのだから大した事だと一層感動しました。
東郷平八郎の直筆
この書を見ると本当に実在したのだと思うと感無量です。歴史上の人物その時を精一杯生きた証がうかがわれました。
海戦で活躍した三笠も終戦後はダンスホールや水族館が設置されてしまったようでした。そして軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったが国民から愛された三笠に対する保存運動が勃興し条約に基づき現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ1975年(大正14年)に記念艦として横須賀に保存する事が閣議決定されたと説明されていました。
三笠は現在、防衛省所管の国有なのです。
“海 ゆかば”
海行かば水漬(みづ)く屍
山行かば草生(草む)す屍
大君の(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
(長閑(のど)には死なじ)
私の父によく聞かされた歌です。意味も分からず、旋律がいいので大好きな曲でした。今改めてその歌の意味を解すると胸が締め付けられます。この歌と共にどれくらいの人々が海の藻屑に消えたのかと思うと戦争は絶対に起こすものではないと改めて思いした。
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