はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は、以下シリーズの最終回です。
遡って上からご覧いただければ幸いです。
1月31日:「サイホン現象を観た時の二つの衝撃
2月 5日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(1)-
2月14日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(2)-
3月 6日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(3)-
3月12日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(4)-
3月21日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(5)-
4月4日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(5)-b-

(Keywords: サイホン,サイフォン,siphon, 誤った, 説明, 理解)

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「複雑な機器の技術知識などよりも、まずは素朴な自然現象を扱うことが大切.」という旨の前回の私の主張に対して、次のような批判意見をもつ人もいるだろう。

(1)しょせんは物理屋の枠にとらわれた発想だ。普通の人は、素朴な自然現象などより、生活の便利や損得に結びつくことに関心が向く。

(2)現代の社会においては、科学技術の知識は必須になっている。基本的な現象を一から取上げるなどという悠長なやり方をしていては、いつまで経っても、必要な技術知識に到達できない。

これらは、現在の一般の社会生活を送る大人の感覚としては、もっともであると思う。しかし、むしろ、これがもっともとなってしまうこと自体が、本質的な科学教育の危機的問題を提起していると言える。

確かに、科学技術というのは積み上げによって成り立っている側面が大きい。現時点で達成していることを利用して次の進歩が得られる。しかし、積み上げる小石がいずれ崩れるように、同方向の積み上げには限界や破綻が訪れる。間近に見えることの積み上げが必要であるのと同様に、このまま重ね続けることに問題はないのか、とか、未だ見えぬ別の方向性を捜す必要はないのか、などの思慮・考察の努力が極めて重要だ。さらに、技術の基礎を成す科学における重要なブレークスルーは、必ずこのような視点の転換によってもたらされてきことも認識すべきであろう。

科学における視点の転換などというと、天才的な科学者の話と受け取られるかも知れないが、ここで言いたいのは、科学技術が生活に入り込んでいる現代社会だからこそ、国政の主権者たる国民が、科学技術に対して、全体の本質を見とおして、理性的で的確な批判を行うことができる力をもたねばならないということなのだ。そして、そのためには、完結性のある透徹した科学的理解の確かな体験を与える教育が重要であり、その題材として、素朴で単純な自然現象から入る以外にないだろうというのが、私の主張なのである。

もちろん、すべての人が、このような理解体験をもつのは無理なことかも知れない。しかし、時流や、雰囲気や、感情や、目先の損得などに、判断基準を求めないで意思決定のできる科学の非専門家層を厚くすることは、可能であるし、またそれを為すことこそが、現代の技術社会における必須・焦眉の課題であると思う。

ただしここで、(2)の主張が、現代の科学教育のあり方に関する根本的ジレンマを鋭く突いていることにも目を向ける必要がある。時代とともに科学は加速度的に進歩し、その事項・内容が増え続けているのに対して、子供たち(あるいは我々)が勉強したり思索にふける時間数は、増えるどころか、むしろ減少している。これでは、一からやっては間に合わなくなるのは当然なのである。必然であることが分かっているはずのこの根本問題を、正面から議論する声があまり聞かれないことが、私には大変不思議であり不満である。


この難題への名答が簡単に得られるはずもないが、関する私見を少しだけ述べて、この稿の結びとしたい。

基本的には、科学の教育と、生活における技術の教育を、教科としては切り離すことが必要だ。中学校には「技術家庭」という科目があるが、その内容を、もっと科学技術指向にして、IT技術、電子機器技術、さらにはエネルギー問題や環境問題などはそこに含めればよい。例えば「生活技術」という科目名として、これ(に類するもの)を、小学校から高校までのカリキュラムで、理科とは別枠で実施するのがよいと思う。

一方、理科については、まず、目的が自然現象(の活用)そのものにあるというよりは、その考察を通して科学的考察能力を養い、社会の中で理性的な判断をするための糧にすることにあるのだということを明確にし、そのことのコンセンサスを築くことが先決だ。その上で、個々の現象の知識を扱うのか、体系的に構築される過程を示すのか、あるいは、数式・定量的扱いを出すタイミングをどうするのかなどのポリシーを明確にし、各生徒の発達プロセスの個性に応じた、ある程度多様な教程(教科書)を準備すべきだ。レベルの異なるものを複数つくるというのではなく、各生徒に科学的思考の達成感を最も効果的に与えてやるためにはどうすればいいかという観点で、多様な中から個々適切な教え方をとることが求められる。そして、何が適切な教え方であるかは、個々の子供が抱く「疑問の構造」を見抜くことではじめて判断できるのである。

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文科省の中央教育審議会では、次期指導要領の立案に向けて、理科の教育体制の見直しの議論が活発化しているらしい。(この部分追記予定)

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