はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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3月16日の投稿、「格差社会の連載報道の紹介」の中で、毎日新聞の価値ある記事:連載特集「縦並び社会」 を紹介した。

一方、これに対して、日本経済新聞の一面のコラムとして、「格差を考える」という特集(上中下の連載構成)が出ている。その4月21日(朝刊)に掲載された -下- の部分を読んで、大手新聞の一面記事というよりはネット掲示板の書き込みを思わせる悪質なレトリックの羅列にすぎない内容に、私は、最初は思わず噴出し、その後、考え込んでしまった。

私が今までに書いたことと重複するので、その記事の内容の細をここで批判するのはやめておく(要するに、そこらに溢れている文句をつないだものだ)、が、最高に傑作なのは、

中ほどの以下の記述:
『今になって歯車を逆転させ、自らの才覚や努力で稼いだ人や企業を引きずりおろしても、日本経済という船が再び沈めば元も子もない。結果の平等を重く見るために起きる数々の談合事件は、公共事業のコストを高止まりさせ、国民に過度な負担を強いてきた。』

のところと、そして、

別枠の語句の注釈として、ご丁寧にも、「結果の平等と機会の平等」が説明されているのだが、その中味が、意味の矛盾性や曖昧性や語源のことには一切触れず、一般人が感覚的に捉えてしまうのをそのまま後押しするような最低級の内容になっていること、

の二箇所であった。(笑わずにはいられなかった.)


この記事には、自社(あるいは自分)なりに独自に調査したり、客観・論理的に分析した結果を、他者に供するという姿勢が皆無である。そして借り物の語句をつなぎ合わせて文章(らしきもの)に仕立てる行為に一切のはばかりがない。筆者に本気で記事を書く気があって、このようなレベルになってしまうとしたら、この筆者には文章をつくる能力が無いということになる。少なくとも、給料をもらえるプロとしての”才覚や努力”は全く認められない。そういうことならば、もし私が編集委員長なら、当然のこととしてすぐに書いた人をライターの仕事から外す。

しかし、曲りなりにもプロのライターにそういう人がいるとは考えにくい。むしろこの記事は、何かの意思・思惑に応じる形で、何らかのマニュアルのようなものにしたがってつくられたと考える方が自然だ。例えば「機会の平等」も「セーフティーネット(安全網)」も、自然な日本語としては少し前まで存在していなかった。これをジャーナリズムで頻用するように仕向ける何かが動いている、、と考えるしかないのではないか。

昨今の報道機関の中では、一体何が起こっているのだろうか。(考え込まずにはいられなかった.)

〔追記〕
隠し誤魔化してきたことがあばかれそうになって焦っている、、そんな印象だ。このような傾向は、最近は、大臣級の人の発言にまで見られる(例:竹中平蔵氏の発言に見る悪質ディベート術)。




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