はぎわら_m の部屋
社会・時事批評、オピニオン、初等物理の気まぐれ考究、物理教育放談

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本稿は、
1月31日:「サイホン現象を観た時の二つの衝撃
2月 5日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(1)-
2月14日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(2)-
3月 6日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(3)-
3月12日:「疑問の構造とは何か -サイホン現象を例に(4)-

の続きにあたるものです。

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疑問に対して徹底的にナイーブな人は多数派ではないだろう。しかし少年 はぎわら_m が感じた疑問の感覚は、類稀なるユニークなものでは決してない。ここで上げた例に限らず、疑問を感じるときの思考の様には、いわゆる勉強の成績の良し悪しなどとは殆ど独立に、多くの人に共通するパターンがある。

ただ、その疑問を、堂々と抱き表明する勇気というか自信というか意欲の源泉のようなものが、疑問の感覚を的確に理解し共感してくれる周囲の者の不在や、一つ一つの疑問を解決する前に次々と新しい現象が突き付けられてしまう慌しい現代の技術社会の有様などが原因となり、萎縮させられてしまう、、そしてこの萎縮経験の反復は、やがて疑問に対する感受性の根本的消失を招く、、私は、このような状況を憂う。

少年 はぎわら_m の疑問を聞いた大人は、忘れかけた自分の純真な時代を思い返し、共感の可能性をまず一生懸命探るべきである。どうしても、思いが甦らなければそれは仕方がない。疑問を大切にして、他の人に相談することを勧めるのが適切な対処だろう。もし、自分も同じような疑問を感じた経験に思い至ったならば、その自分なりの疑問の構造を、言葉にして表し、少年の疑問に通じるものかどうかを問うてみるべきだ。

「川の水の流れの場合と何が違うのだろう.」、「ホースの中の水を砂におきかえた場合はどうなるだろうか.」、、少年 はぎわら_m が、自分の疑問の構造を的確に表現した言葉を見つけることができたならば、科学の勉強に対するモチベーションの直接的な端緒になったはずだ(実際には、自分の個性を見つめる漠然たる思い出のエピソードに留まった)。

もし、疑問の構造を言い当てることができたなら、一緒になって、その先の分析や探究に入っていくのがベストだろうが、これはなかなか難しい。これを引き継ぐのは、理科の先生の役目だ。この不思議の理由を学校の理科の先生に相談してみることを勧めればよい訳だ。

稿途中-つづく-

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