Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

マリエッラ・デヴィーア声楽公開レッスン 第一日目(Fri, Aug 14, 2009)

2009-08-14 | マスター・クラス
マスター・クラスを開くとは、素晴らしい。昭和音大。
そして、それを私のようなパンピー(一般ピープル)に公開してくれるのもありがたい、昭和音大。
しかも、その講師にマリエッラ・デヴィーアを呼んでくるとは、信じられないような機動力!の昭和音大。
でも、一つ聞きたい。学校で一体何を教えているのでしょうか、、?

オペラ鑑賞の牙城が現在メトにある私にはいくつか夢があって、
そのうちの一つは、メトの、比較的メジャーな演目の全幕公演(出来ればAキャストが望ましい)で、
主役~準主役級の役をはれる日本人歌手がリアル・タイムで登場し、
その彼(女)が出演する公演を鑑賞し、さくらでなく心からbravo/aと叫ぶこと。
なんですが、少なくとも今の日本の声楽の世界の状況を見るに、
正直、あまり期待していない自分もいます。
この”世界のオペラ界における日本人歌手”という話題は、
ワタクシ的にすでにパンドラの箱化している部分もあって、
メト関連ですでに十分、誰に刺し殺されてもおかしくないほど、
自由自在に言いたいことを言っているので(アラーニャとか、昔のクーラとか、
最近のネトレプコとか、、)
ここに日本の声楽関係の方まで入れる必要もあるまい、と思い、今まで言い控えて来た部分もあるのですが、
大体が、今まで観たワーク・ショップやナショナル・カウンシルと比べて、
日本人に対してだけは、極端に低い水準を前提にするというのも変な話ですし、
そんなことをしていては、私の夢は一生叶わないのです!
今回のマスター・クラスは、かねがね私が考えていたことをまとめるいい機会でもありました。
というわけで、いつも通りの水準で、つまり、メトのナショナル・カウンシルを見ているのと同じ気持ちで、
(一方はオーディション、一方はマスター・クラスという違いはありますが。)
いつもと同じように、思ったことをそのまんま書きたいと思います。

日本で上演されるオペラ公演で、メインが日本人キャストだと観に行く気がしない、という方、
結構おられると思います。
その中には、そもそも日本人がメイクや鬘で西洋人化しようとする試み自体が痛い、という方もいらっしゃるかもしれません。
私も何を隠そう、メインが日本人キャストの公演はできるだけ避けていたクチですが、
私はこのブログを定期的に読んでくださっている方はすでにご存知の通り、
生まれつきの、よって本人の力ではどうしようもないビジュアル面の問題、
つまり太っている、とか、不細工である、とか、については非常に寛大です。
よって、”日本人は生まれつき西洋人ではない”、という当たり前の事実には目をつぶる準備もあります。
私が日本人歌手の出演するオペラを好まない理由はたった一つで、
”声も演技も私が考えるオペラのそれとあまりに異質な人が多く、鑑賞していて気持ちが悪い。”
この一点につきます。

まず、日本人全体として見たとき、
相対的に本来オペラを歌う声がどんなものか、という理解が不足していることが大きな問題の一つだと思います。
千の風になっているテノールとか、ネッスンドルマでブレイクしたネスカフェなテノール
(前者はオペラの舞台には立っていないようですが、それでもクラシックの声楽を勉強した、という経歴になっています)
の声を、これがオペラを歌う声なんだ、と一般的に思っている人が多いと思うと、
本当に暗澹とした気持ちになります。
私がオペラ好きであることをカミング・アウトすると、
”あ、こういうのね。”と言って、オペラ歌手の歌真似をするいまどき信じられないようなリアクションをする人がいるのですが、
その時に出てくる声が、彼らの発声を真似したものになっているのに気付き、さらにがっくり来てしまいます。

それは、あまりオペラを良く知らない人の話なんじゃないの?と思われる方も多いかもしれませんが、
それがそうではなく、声楽の道を志す、つまり、いつかはオペラの舞台に立ちたい、
と思っている若い人たちの声や歌い方に影響を与えているのを今回このマスター・クラスで目撃し、
私は愕然としたのです。

今回私がオペラの声として気持ち良く聴けたのは、
第一日目、第二日目合わせ(つまり学生とプロを合わせて)、たった二人だけでした。
この二人だけが、いわゆるマスケラの部分を使って、真に共鳴する音を作っていました。
こういう音を作れないと、オペラハウスのどこにも心地よく届く声というのは出せません。
実際にオペラハウスでオペラを聴くと、声と言うのは、
いわゆるデシベルで計れるような、物理的な音量が問題なのではなくって、
いかに空気を共鳴させられるか、これが大事で、
これが出来ていないと、逆に、全幕の主役なんかだと最後に至る前に声が疲弊してしまいます。
デヴィーアのような歌手はもちろんですが、
ここ最近色々ネガティブなことを書いたネトレプコでもオペラハウスで聴くと、
これがきちんと出来ているので、劇場では豊かでニュアンスに富んだ声に聴こえるのです。
また、昨日、MetPlayerに新しくアップされた『チェネレントラ』を流しがけしていたのですが、
ガランチャもお手本のようなそれを見せています。
マスター・クラスに話を戻すと、それ以外の方は、しばしばデヴィーアが指摘していたように、
● 声が喉にはりついている
状態です。
(これ以降、デヴィーアが指摘した言葉、アドヴァイスなどを●付きで表示します。)
その状態で無理に音を出そうとしているため、音が平べったく、母音に
● エの音が入ったように聴こえます。
また、フル・スロットルで出さなくてもいいような音にまで、
本来必要な空気の量以上に空気を送り込もうとするので
(それは喉から声が出ているからだと私は思うのですが)
● 空気の流れが必要以上に大きく、
デヴィーアが、何度も、”そんなにたくさんの空気は必要ありませんよ!”と指摘する原因となっていました。
それを修整するため、デヴィーアから複数の参加者に出たアドヴァイスをまとめると、
● 口のあけ方を少し小さめにして、母音をo(オ)に近く発声し、やや暗めの声を出すようにしてみなさい、ということでした。
先に書いた『チェネレントラ』でも、ガランチャがほとんど口を開けていないように見えるのに、
しっかりした音を出している場面があって、声量をコントロールするのは口の大きさではなくって、
むしろ、マスケラへの音の当て方とそこに送り込む空気の量のコントロールではないか?と思えます。

● イタリア語は喉でなく、舌と唇で音を出す
というデヴィーアの指摘がありましたが、これは適量な空気が体の中を流れていてこそで、
今日の参加者のように、空気の流れよりも喉から出す音で音が作られている場合は、
逆に舌と唇で音を作ろうと思っても、音が出ないのではないかと思います。
それでもって、正しい発声ではない、という証明にはなるでしょうが、、。

今回のマスター・クラスは、第1日目が高校生と大学生および院生、
そして、第二日目が学卒もしくは院卒のセミプロ及びプロの方が受講生(実際に歌う受講生。
我々聴いているだけの人間は聴講生です。)だったのですが、
特にこの第1日目では、高校生の一人を除き、あまりに発声が耳障りな方たちばかりで、
これは私にとっては、まさに黒板に爪を立てられているのと同じ位の拷問で、
本当に文字通り、何度も鳥肌が立ち、耳を覆いたい衝動にかられました。
むしろ、高校生の方がまだ発声自体は若干、素直だったかもしれません。
ということは、学費を払って歌を悪くしている、ということ、、、?!ええっ!?

しかし、高校生、大学生、院生、いえ、のみならず、今回参加したすべての歌手たちに多かったのは、
● 妙なポルタメント(注:ある音から別の音に移行する際に、滑らかに徐々に音程を変えること)のつけ方
です。
というか、私に言わせれば、一言、悪趣味もいいところ!
ポルタメントはスパイスのように、ちょろっと聴かせどころで使用するから良いのであって、
これは、何でしょう、、これがオペラ的な歌唱と勘違いしているのでしょうか?
多用しすぎなんですよね。
デヴィーアも言っていた通り、
● ポルタメントの多用はセンスが悪いです。
といいますか、これは今回、少し物理的時間的に日本と離れていて逆にはっきりと気付いたのですが、
日本人の歌唱って、オペラの曲を歌っていても、すごく演歌調、和製ポップ調なんですよね。
デヴィーアは多分演歌や和製ポップスにはなじみがないので、
これをポルタメントの多用と形容するしかなかったようですが、
要は、和製歌唱から脱却しなければいけない、ということなんだと思います。
こういうものは、生まれ育った環境によってハード・コードされたものなので、
知らず知らずに耳に体についていくものですから、意識するのはすごく難しいのはわかるのですが、
将来オペラを歌いたい、ましてや、世界レベルで活躍したいと思うなら、
絶対に抜かなくてはなりません。
こんな演歌みたいなオペラを聴きたいオペラヘッドはいませんから。
特に後半で歌った駿河さんという方、私には彼の”人知れぬ涙”がスピッツの新作に聴こえました。
実際、メロディのまわし方が、草野マサムネにそっくりです。
こういう歌い方、オペラではやめましょうね、本当に。エキセントリックすぎます。

いくつかデヴィーアが強調しても強調しすぎではない!という位に熱く繰り返していた点がありましたが、
その一つが、
● 一にもレガート、二にもレガート
ということ。
彼女には、ほとんどの参加者の歌が普通に歌っているつもりでもスタッカート気味に聴こえたようです。
で、”レガート!”とデヴィーアが言うと、無意識にポルタメントがかかってしまう参加者もいたりして、
またポルタメントかい!という、、(笑)。
レガートというのは、あくまでその音の高さを保持しながら、滑らかに次の音につなぐことなんですが、
彼女がこう何度も何度もレガート!と連呼していたのには、
日本人の言葉(今回の場合はすべてイタリア語)の習得の仕方が深く関係しているのではないか、と思います。
というのは、日本人の外国語の習得の方法として、今だ、カタカナで音を書く、というのは
メジャーな手法だと思うのですが、
この方法には、おのずと限界があります。
カタカナで表記する、ということ自体、そもそも日本語の枠に収めようとする行為であり、
むしろ、その枠に収まりきらない点にこそ、一番習得が難しい個所が隠れていると思うのです。
で、そうしてカタカナで音を表記すると、どうしても音符それぞれに、そのカタカナ表記の音をあてはめようとするので、
それで音が全部スタッカート気味になってしまうのではないかな?と推測します。

二重母音の問題もありました。
『アンナ・ボレーナ』に関しては
Piangete voi? D'onde tal pianto?(泣いているの?どうしてそんな涙を?)の部分からが
レッスンの対象だったのですが、
● Piangeteの最初のpiaは”ピーア(二音)ではなくって、もっと早いピア(一音)です、それから
● piantoの方はピにアクセントがないといけないので、ピーアントに近い、
と、同じ語源の”泣く”と”涙”という単語ですらこれなので、
カタカナ表記で全てをカバーするには厳しいものがあることがよくわかります。

また、
● tの前にはっきりしたnがあるのも気になる。なぜなら、そんな音はイタリア語にはないから
という指摘もありました。
指摘があったのはpiantoとは違う単語でしたが、引き続きpiantoを例にとると、
強いてカタカナで書くとどうしてもピーアントになってしまうのですが、
ンというのは一つの独立したシラブルではなくって、最後のトとくっついた(ン)トという音です。
日本語の”ん”の感覚で音をはっきり出してしまうと、音数にすら影響を与え、
違和感のある歌唱になってしまいます。

一日目の参加者の方全員について言うと、言葉が全くイタリア語らしくないと言ってもよいと思います。
高校生はともかく、学部生、院生までそうとはどうしたことなんでしょう?
私は日本のクラシック音楽に携わる人、また好きでそれを聴く人ともども、
鑑賞している分には、異常なまでに演奏や歌唱に、
”イタリアらしさ””ウィーンらしさ””ドイツらしさ”を求める傾向があるくせに、
演じる方、歌う方にまわると、突然、
”自分たちにイタリア人と同じように歌えるわけがない”ということを言い訳にして、
なかなかそこから出てくる工夫や努力をしないように見えます。
いや、もしかすると、完璧主義なゆえなのかもしれないですが、、。
でも、語学と一緒で、ネイティブと全く同じには喋れないから、とあきらめるよりは、
少し訛っていても、喋れるようになった方がいいのではないでしょうか?
ネイティブに近づくには、まず何と言っても喋り、歌わなくては。
おしのように黙っていながら、突然雷鳴が轟いてネイティブのように喋ったり歌ったり出来る、
なんてことは、絶対に、絶対にないのです。

私は時々日本人の歌手でアメリカにキャリアを求め、
または研修で滞在していらっしゃる方のサイトなんかをのぞかせていただくことがありますが、
以前にイタリアにいらした方なんか、特にそうなんですが、
そこには、”アメリカの(まあ、メトですが、、)演奏は、何かイタリアとは違う。”とか、
そんな言葉ばっかりで、嫌になってきます。
日本はオペラに関しては主要レパートリーに自国語のものが極めて少ない、という点で、
アメリカと非常に似ています。
アメリカは、”ネイティブみたいでなくても、喋れないよりは、歌えないよりは、演奏できないよりはまし”を実践し、
独自の路線で、少なくとも世界の歌劇場で歌える歌手を輩出するようになっています。
また、オケもイタリア的、ドイツ的、ウィーン的ではないかもしれませんが、
しかし、今のオケの音が出来あがって来たその根底には、
特に第二次世界大戦後、それらの国も含め、
あらゆる国や地域からやって来た奏者の音がごちゃまぜになっているという歴史的背景や、
各歌劇場固有のニーズなどが深く関わっているわけで、そういったことを理解しないで、
アメリカのオケはイタリアっぽくない、といった議論をするのはお門違いもいいところで(だって、そんなの当たり前、、)、
それを突き詰めると、極論は、
作曲された国以外の国には、その作品の演奏をすることは出来ない、ということになってしまいます。
もちろん、イタリア・オペラにはイタリア固有の、ドイツ・オペラにはドイツ固有ゆえの素晴らしさがありますから、
それしか受け付けない、という方は、その国のオケと歌手による公演だけ観ていればいいでしょう。
でも、今のオペラを取り巻く状況は、もう自国だけ、と言っていられない状況なわけで、
(大体、どの国のオペラをとっても、自国の奏者や歌手のみで、
その演奏を高い水準でまかなえるほどの数を生み出すことが出来なくなっているのは明らかです。)
そこはきちんと観る側も区別する必要があります。
つまり、どういうものが真にイタリアっぽい演奏なのか、ドイツっぽい演奏なのか、
ということを知っていることはとても大事ですし、
その国のオペラを演奏する限り、出来る限りそこに近づく努力をすることは大事ですが、
それだけが公演の良し悪しを判断する基準にならないことが大事だというのが私の考えです。

アメリカに何十年と住んでいる方でも、大抵、
どこの出身の方かということが、かすかな(時にはものすごい)アクセントでわかってしまう通り、
言葉の習得というのは簡単なものではありません。
しかし、今回、ショックだったのは、このマスター・クラスで見る限り、
日本の声楽教育が、こと言葉の習得という点においては、
”完璧でなくても喋れないよりはマシ”というレベルではなく、
”完璧でないから、押し黙っていよう”というレベルにとどまっている点なのです。
上達をあきらめているような雰囲気さえ漂っています。
正直、大学で何を勉強したのか?と聴きたい。
発声というのは非常にデリケートで複雑なものなので、
努力しても後退する、ということもままあって、(特に良くない先生についた場合、、。)
単純なことは言えませんが、
外国語の習得というのは、あまり後退するということがなく、
やればやるほど身につくはずのものなので、
ご自身が勉強をしていらっしゃらないか、教える側が余程何も教えていないか、いずれかだと思います。

今アメリカに研修でいらっしゃっている方は、
イタリアではなく、アメリカに来られた以上、
”イタリアとは違うんだよなー”と嘆いている暇があったら、
なぜ、日本と似た状況でありながら、アメリカはそれなりに独自の路線を確立し、
声楽教育に関しても、日本よりはずっと優れた歌手をコンスタントに出せるようになっているのか?
そういうことを勉強され、ご自分なりに答えをお出しになって、
日本の声楽教育に還元して頂きたいものです。

今回のマスター・クラスでは、私は実際に歌われた生徒さんには、
気の毒に感じています。
というのは、彼らたち、彼女たちは、(特に第1日目のような若い世代の方たちは)、
本人の努力もさることながら、むしろ、実際に評価されていたのは、
彼らを教えた先生たちであったと思うからです。

特に高校生の部では同じ学校から3名の生徒が参加されていましたが、
(受講者の高校生5名はいずれも、昭和音大が実施している高校生のためのコンクールの優秀賞受賞の生徒さんたちです)
この学校は先生が自分の趣味をひけらかす選曲を生徒に押し付けている感じがして、
大変不愉快でした。
もっと身の丈にあった、彼らの良さが引き立つ曲があったと思います。
また、第1日目で唯一聞いていて快い発声を行っていた中山さんなんですが、
発声そのものは大変良いと思うのですが、声が明らかにソプラノのそれなのに、
メゾの歌う”恋とはどんなものかしら?”を選んだのは、これはいかに、、?
(デヴィーアからも、”あなたはソプラノだと思うけれど”という指摘がありました。)
オペラの声には種類があって、それぞれの役や曲というのは合った声質で歌われてこそ、
良さが出る、ということを知るのもとても大事なことだと思います。
ご本人はまだ高校生なのでともかく、指導されている先生がそのあたりのことをご存知ないとか、
もしくは知っていても大した問題じゃない、と感じられているとは、思いたくないのですが、、。

アジリタの技術を身につけるとか、表現とか、そういった問題の前に、
一番基礎になる、スポーツでいえば基礎体力になる部分の脆さが明らかになった今日のマスター・クラスでした。
土台がしっかりしていないところに、どんな高音や装飾技術を重ねても、
いつか崩れ落ちてしまいます。
デヴィーアが少しアドヴァイスをしただけで、見違えるほど歌が良くなる生徒さんもいて、
今、指導にあたっている方たちにこそ、しっかりと見ていただきたい内容でした。

それから、歌の世界を目指す学生さんには、
実際にオペラハウスで、世界のレベルで活躍し、きちんと評価を受けている
優れた歌手の声とその音や語感を体感する機会をもっと与えてあげてほしいと思います。
(新国立劇場とか、海外の歌劇場を招聘している会社が協力して、、。)
発声が正しくない歌手の発声を何度聴いても、何のためにもなりませんから。

第二日目に続く>


浅沼雅 Miyabi Asanuma
モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』より”ぶってよ、マゼット Batti, batti, o bel Masetto”

中山華子 Hanako Nakayama
モーツァルト『フィガロの結婚』より”恋とはどんなものかしら Voi che sapete che cosa e amor”

小野寺光 Hikaru Onodera
トスティ ”夢 Sogno”

川目晴香 Haruka Kawame
ヘンデル『ジューリオ・チェザーレ』より”この胸に息のある限り Piangero la sorte mia”

野間知弘 Tomohiro Noma
ヴェルディ『6つのロマンツァ』より”墓に近寄らないでほしい Non t'accostare”

(休憩)

石岡幸恵 Yukie Ishioka(ソプラノ)
ベッリーニ『カプレーティ家とモンテッキ家』より”おお、幾たびか Oh! quante volte, oh! quante"

中畑有美子 Yumiko Nakahata (ソプラノ)
ベッリーニ『清教徒』より”ここであなたの優しい声が Qui la voce sua soave”

駿河大人 Daijin Suruga (テノール)
ドニゼッティ『愛の妙薬』より”人知れぬ涙 Una furtiva lagrima”

吉田明美 Akemi Yoshida (ソプラノ)
ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』より”私の生まれたあのお城 Al dolce guidami, castel natio”

伴奏:酒井愛可 Aika Sakai
講師:マリエッラ・デヴィーア Mariella Devia
解説:小畑恒夫 Tsuneo Obata
昭和音楽大学 テアトロ ジーリオ ショウワ

*** Mariella Devia Master Class at Showa Academia Musicale 昭和音楽大学 マリエッラ・デヴィーア 声楽公開レッスン”

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27 コメント

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声楽教育 (みやび)
2009-08-24 11:11:29
>オペラ鑑賞の牙城が現在メトにある私にはいくつか夢があって、
>そのうちの一つは、メトの、比較的メジャーな演目の全幕公演(出来ればAキャストが望ましい)で、
>主役~準主役級の役をはれる日本人歌手がリアル・タイムで登場し、
>その彼(女)が出演する公演を鑑賞し、さくらでなく心からbravo/aと叫ぶこと。

藤村美穂子(私の基準では「さん」がいらないくらいのbig name(笑))はMETで歌っていなかったでしょうか?彼女はバイロイトやウィーンでも大きな役で歌っているので、候補になるのではないでしょうか。

私は新国でヴァルトラウテとエーボリしか聴いていないのですが、やはりワーグナーの方が魅力的でした。

それはさておき、声楽教育って、声帯が動いているところは外から見えるないですし、難しそうですね。経験則によるところが多いとなると、日本の教師では圧倒的に経験値が不足していそうですし…。指導のプロを養成するところから始めなくてはいけませんね?

アメリカはシステマティックな教育法を確立するのが上手なのではないかと想像するのですが(ある種の偏見?)どうなのでしょう。

話がずれますが、日本では歌だけではなく、そもそも発声・しゃべることに関する教育がほとんどなされていないといいます。いわれてみればそのとおりです。アナウンサー、役者などごく一部の人以外は、話すため(話す内容ではなく)の訓練なんてしていないですよね。もしかして、ホンットに基本的なところから駄目なのかも。
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Unknown (チャッピー)
2009-08-24 20:34:18
これを見ると、昭和音大の先生方、頭では分かってらっしゃるのでは?と思いました。
http://www.tosei-showa-music.ac.jp/university/college/vocal.html
ただ、自分達も正確にイタリア語を発音できてないので、学生の発音を矯正出来ないんでしょう。英会話が苦手だったが、実は元英語教師だった竹下元総理を思い出します。

あと、mixiのデヴィーア・コミュで発見した書き込みが面白かったのでコピーします。

>イタリア人の先生に言わせると、日本人は硬くなり過ぎ、恐れ過ぎだそうです。
>それは実力より上の曲を歌うことが原因と言われました。



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Unknown (通りすがりです)
2009-08-26 14:42:18
Madokakipさん、久しぶりに覗かせていただいたら、もう素晴らしすぎます。レガートのこと、言葉のこと、アメリカの状況を(自分たちのことは棚に上げて)「やっぱり、アメリカだから・・・。」という輩のこと・・・。おっしゃること一つ一つ、膝ポン!ものです。

いわゆるアメリカンな発声の歌手って、確かにたくさんいます。私も、アメリカンな音色より、デヴィーアのような熱い音の方が好きです。でも、米国の学生は、日本では名の知れていないような学校の学生であっても、言っちゃ悪いですが、日本のプロと言われている人よりはるかにはるかに、歌えまっせ~ってな歌手、どれだけいることか。

日本人の歌の評価になると豹変するのは、日本の批評家も同じですよね。日本人以外の歌手となると、ものすごく厳しいことを言う、その同じ人が、日本人の歌手評となると、「やはりその歌唱は、キャリアの賜物といえるものであった。」とか、わけの分からないことを言う人たち。でもこの「豹変」は、歌に限ったことではないかもしれませんね。「日本人離れした」という表現が、ほめ言葉になる文化ですから。

アメリカの特徴、よい点の一つとして、よい先生が世界中から集まってくることがあると思います。そして、教育システムを作ることに本当に頑張ったのだと思います。シルズが昔、言っていました。「昔、アメリカ人が歌手になろうと思ったら、ヨーロッパに行くしかなかった。それが今は、サンフランシスコ・オペラのトレーニングプログラムのように、アメリカでも勉強できるところがある。(以上、彼女の言っていたことの引用ではなく、彼女の言葉の意味をはしょってまとめました。)」

メッゾの藤村さんの歌、私、聞いたことありません。ヨーロッパでよい役を歌っていらっしゃるのだから、別にわざわざ遠いアメリカまで出かける必要はないとは思います。とは言うものの、ニューヨークにいらっしゃったら、是非聴いてみたいです。そして、ヨーロッパに出かけたら、是非聴いてみたい方です。そう、彼女、まだメットでは歌っていらっしゃいません。

メットで歌った日本人の歌手と言えば、市原多朗(漢字、あっています?)さんの「仮面舞踏会」を聴きました。(ハイ、ずいぶん前の話です。)素晴らしかったですよ。そう、素晴らしい日本人の歌手というのは、実は案外いるのではないかと、私は思います。でも、そういう素晴らしい方の歌って、なぜか日本ではウケない印象があります。何故?市原さんは大変有名な歌手ではあるけれど、「ね~すんど~るま~」とコマーシャルで歌っていたテノール歌手と言われている方のほうが、よっぽど日本人にはよく知られているような印象があります。これって、NHKを始めとするマスコミがいけないところ、大いにありますよね。

最近では、ロイヤル・オペラのトレーニング・プログラムで(確か)ネトレプコのカヴァーをなさり、実際にジュリエッタ(ベッリーニです)を舞台で歌ったと言う、中村恵理さんという方もいらっしゃるとききました。インターネットの時代、そういう方のニュースはわけの分からないメジャーのマスコミを超えたチャネルで、日本にも、もっと伝わることでしょう。(このエピソードは、日本でもよく知られている可能性、非常に高いですが、どんな風に取り上げられていることやら、と疑り深い私です。)

勢いで書いてしまったので、整合性のないところ、不適切な表現がたくさんあるかもしれません。Madokakipさんのコメント、余りにも気持ちよかったので・・・なんて、言い訳になっていませんね。でも、このまま投稿させていただきますね。

まだ日本ですか?楽しんできてくださいね。では!
返信する
こちらの記事はコメント、バラでいきます① (Madokakip)
2009-08-27 13:01:08
 みやびさん、

>藤村美穂子(あえて、”さん”なしで!)

お名前は良く伺うのですが、メトにはまだ登場されたことがないのではないかと思います。

You Tubeでワーグナーを聴かせて頂いたのですが、
音質が悪くて感想を持つことすらできませんでした。

藤村さんはOpera Newsで、
”バイロイトのものすごく良い音響を持ってしても、
少し声のサイズが小さい”という批評がありました。
こういう評が出てしまうと、大箱であるメトで歌うのは厳しくなってしまうかもしれないですね、残念です。
ただ、声のサイズは、必ずしも素晴らしい歌手か否か、という判断と比例はしないですよね。
ご自身に合ったサイズの劇場で活躍されるのを、
いつか私の方が伺って聴けたらいいな、と思います。

ただ、ロンドン響とティペットの”A Child of Our Time"という英語で歌われる作品を録音されているのですが、
theの発音がきちんと出来ていない、
theというのは非英語圏の歌手には発音不可能に思われる、とまで言われています。
(そんなことはないと思うんですけどね、、笑)
結論:イタリア語だけでなく、英語であれ、
何であれ、外国語を完璧に発音するというのは本当に大変!
返信する
こちらの記事はコメント、バラでいきます② (Madokakip)
2009-08-27 13:10:12
 チャッピーさん、

>昭和音大の先生方、頭では分かってらっしゃるのでは?

微妙ですね(笑)、
学生を魅了するための美辞麗句(この四文字熟語のこんな使い方は間違っているでしょうか?)なのか、
本当に心から思っているのか、よくわかりません。

コーチと言われる人は、必ずしもご自分が教えている生徒並に実技を出来る必要はないと思うのですが、
(例えばスケートなんかでも、生徒がすごい技を出来るからと言って、
先生が実技を見せるわけでは必ずしもないのではないかと思います)
生徒がそこにたどり着けるように、
適切なアドバイスを出来る人でなければならないと思います。
それが今教えている側の方たちで無理ならば、
それはやはりネイティブの方にお願いするしかないんじゃないか、と思いますね。
とにかく、教えている側が適切な指示を出せないままに、
次々と同様にあやふやなことしか学んでいない教え子を増やす、という悪循環を断ち切らねばならない、と思います。
返信する
こちらの記事はコメント、バラでいきます③ (Madokakip)
2009-08-27 13:57:26
 通りすがりですさん、

久しぶりに覗いていただいたというのに、
相も変わらず好き放題に書いている現場を押えられてしまいました!(笑)

私も、通りすがりさんと全く同じように、
それは、デヴィーアのような美しいイタリア的発声が好きです。
でも、また、その一方で、なぜ、現段階では、
アメリカの声楽を目指す学生たちの方が、
明らかに日本の方たちよりも平均してレベルの高い歌を歌えるのか、
また、比較的正しい発声が身についているのか、ということは、
そろそろ、声楽の世界の方が正視しなければいけない問題なのではないかな、と思います。
いえ、アメリカだけではありません。
韓国なんかも優秀な歌手を出して来ていますし、
最早アジア人だから無理なのだ、という説明は通用しなくなっていると思います。
実際、野球とか、同じ舞台芸術の世界ではバレエなど、
世界のレベルで日本人が活躍している分野があることを思うと、
その説明は全くもって時代遅れだと感じます。
日本における、野球やバレエと、オペラの世界の差は、
やはり、どれだけ若い方たちを育てる環境が充実しているか、
そこにあるように思います。
オペラを鑑賞することに関しては、
日本は世界でも類を見ない先進国だと思うのですが、
その鑑賞する側の進歩具合に比べて、
このアンバランスなまでの教育の手薄さは悲しいです。

私は本文で、アメリカと日本はオペラに関して環境が似ていると書きましたが、
また一方で、見逃せない違いもあって、
それは、アメリカは、ヨーロッパと違う、という批判を受けつつも、
”ヨーロッパから来た人”はたくさん居る、ということです。

アメリカの歌手や演奏家がイタリアやドイツっぽくないのは、
イタリアやドイツを知らないからではなくて、
それがミクスチャーになっている点にあるんですよね。
それを取り違えている方が、日本のオペラ・ファンの方の中にも本当にたくさんいらっしゃるように思います。

以前にもコメントのどこかで書いた気がしますが、
アメリカには、おじいさんやおばあさんが一世のイタリアンなんていう家族なんて
ゴロゴロいますし、そういった家庭では、
イタリア語が普通に飛び交っている状態です。
苗字から、イタリア系なんだな、とわかる若い歌手たちも少なくないですよね。

イタリアのみならず、色々なヨーロッパの国々の出身の人が寄せ集まっている国であるということ、
そのことを利用しながら、地道に、教育のシステムを作り上げていった努力が、
段々実を結び始めているのではないかな、と思います。

日本はそういった面では確かに不利ではあるのですが、
これほどまでに鑑賞する側では積極的に海外の劇場を呼ぶことに熱心な国が、
なぜ同じ事を教育で出来ないんだろう?と思います。

芸大を出て、イタリアに留学して、
それで”すごーい!”と周りに言われて満足、、
という定番コースを延々と続けるのではなくて、
何かもっと発想の転換とか工夫が欲しいです。

そういった意味では今回のマスター・クラスの試み(というか、むしろ、そこにデヴィーアを呼んだということが。)は画期的だったとは思います。

2006-7年シーズンのメトのシーズン・ブックには、
中島康晴さんがロースターに入っていたんですよね。
デビュー・シーズンとなっているんですが、
持ち役は一つも記述がないので、
控えだったのかもしれません。
残念ながら2007-8年シーズンには、ロースターから名前が消えています。

市原多朗さん、私は日本で全幕公演を拝見・拝聴した記憶がありますが、
メトでは残念ながら一度もないですね。

そうですね、潜在的には絶対日本人にもいい歌手がいるはずです!
早くメトにたどり着いて欲しい!!

今はもうNYに帰ってきていますが、
この翌日の第二日目のプロ&セミ・プロの歌手の方対象のマスター・クラスも聴講いたしましたので、
そちらの感想も近日中にあげたいと思っています。
返信する
Unknown (通りすがりです)
2009-08-27 14:54:33
Madokakipさん、お帰りなさい。つい先ほど、ベーレンスの追悼スレッドと化していた「ゲオルギュー、カルメンをキャンセルの巻」を読ませていただき、お帰りになっていることに気が付きました。(あの、その、ゲオルギューがキャルメンをキャンセルしても、ふーんって感じなだけで、余り興味がなかったもので、つい先程まで、読んでいなかったのです。トホホ。)ベーレンスは、私にとって初めてのブリュンヒルデ、エレクトラ、ゼンタとして忘れられない歌手です。バーンスタインのイゾルデは、私の一番好きなワーグナーの録音です。旅先で、しかも外国で亡くなるとは・・・。涙が出てきます。

メットで最近歌った日本人歌手の方、思い出しました。森谷真理さん!(うっ、漢字が・・・!)英語短縮版の《魔笛》の夜の女王!National CouncilのAuditionのファイナリストにもなり、カーティフでも歌った彼女。あれ以来、メットでは歌われていないみたいですが、ここは踏ん張って、小さく固まらず、マラソン・ランナーのように長期戦で頑張れ~!

ちょっとだけのつもりが、また長いコメントになりそうなので、この辺で失礼します。マスタークラス2日目の感想、(怖いけれど)楽しみです!
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Unknown (通りすがりです)
2009-08-27 15:02:28
森谷さんのよいレヴューが、オペラ・ニューズに出ているみたいです。

http://www.metoperafamily.org/operanews/issue/article.aspx?id=5306&issueID=337
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日本の事情? (みやび)
2009-08-27 15:23:02
>藤村さんはOpera Newsで、
>”バイロイトのものすごく良い音響を持ってしても、
>少し声のサイズが小さい”という批評がありました。
>こういう評が出てしまうと、大箱であるメトで歌うのは厳しくなってしまうかもしれないですね、残念です。

やはりMETでは歌っていないのですね。確かに声のサイズが特に大きいというわけではなく、しかもレパートリーがワーグナーになるので、METの大きさは問題になるかもしれませんね。私はさほど「小さい」という印象は持たなかったのですが…まぁ、新国立劇場ですから。

彼女のブランゲーネはDVD,CDで聴くことが
できますので、機会があればどうぞ。CDの方は、ドミンゴのトリスタン(EMI)なので手元にあるのですが(笑)、DVDのレーベル等は忘れてしまいました。

中島康晴さんは、とても良かった時期があったのですが、(多分その頃にMETとの契約があったのかもしれません)その後調子を崩してしまったようです。でも、彼こそMETは大きすぎないかな、と思わないでもないですが…、あ、コレッリが彼の歌ったロドルフォ(ボエーム)のアリアを聴いて褒めていたというのが有名だったんですよ。

中島恵理さんは新国立劇場研修所(名称が正確ではないかも)出身で、新国でスザンナなども歌っていました。「オペラに詳しい人」なら彼女のイギリスでの活躍は知っているのではないでしょうか。

>オペラを鑑賞することに関しては、
>日本は世界でも類を見ない先進国だと思うのですが、
>その鑑賞する側の進歩具合に比べて、
>このアンバランスなまでの教育の手薄さは悲しいです。

オペラを鑑賞する質は進歩しているのかもしれませんが、限られた人たちの間でのことのような気がします。「量」が少ないというか。バレエの場合は、「バレエを習う子供」がいますが、オペラの場合はそういう例もありませんし、裾野が狭いです。普通の人がフル・ネームで知っているオペラ歌手はマリア・カラスだた1人、といってもそう外れていないと思います。

そうなると、年に数回の外来オペラの席を埋めるのには良くても(最近埋まらないですが)、教育システムから整備して、というところまでいかないのでは…。


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追加 (みやび)
2009-08-27 15:29:30
↑の『「オペラに詳しい人」なら彼女のイギリスでの活躍は知っているのではないでしょうか。』というのは、「そうでない人は知らない」ということです。もちろん彼女がどうこうではなく、新聞などではそもそもオペラの記事などほとんどありませんから(新国で公演があったって全部の評は出ないです)。
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