Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

NATL COUNCIL GRAND FINALS (Sun, Feb 22, 2009) 後編

2009-02-22 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

座席に戻ると、ご主人といらしゃっていた左隣の50歳代と思われる女性に
”あなたは誰がいいと思った?”と尋ねられました。
”断然、ジュリンです。”
我ながらあまりにきっぱりとした答えに、それで会話が終わってしまいそうになったので、
あわてて、”それから、アップルビーはいい声してますよね。”と付け加えると、
”私もそう思っていたの!だけど、デオナリンは私にはあまりぴんと来なかったかしら。
ナディーンは綺麗な声だとは思うけれど、どうかしらね。
ノアもいい声だし、それから、リーも、、。”
って、ほとんど全員グランド・ファイナリストにしてしまうつもりですね、お母さん!

では、二曲目の歌唱の印象を。歌う順は一曲目と全く同じ。

①’ アンソニー・ロス・コスタンゾ Anthony Roth Costanzo(カウンター・テノール)
ヘンデル『トロメオ』から”Stille amare"。
またヘンデルですか、、と一瞬げんなりしましたが、これはいい!
彼の歌は音が段々消えていく時の美しさとか、
音と音の”間”がきちんと生きている点が長所だと思うのですが、
それがいかんなく発揮された歌唱で、聞き惚れてしまいました。
一曲目は少しばたばたしてしまった感がありましたが、こちらは落ち着いていて見事。
この曲は毒薬のアリアとも言われる曲で、トロメオが毒薬(実は眠り薬)のせいで、
死にかけ(本当は眠り)ながら歌うアリアです。
感情表現も豊かで、彼はこの曲でグランド・ファイナリスト入りを確定しました。

②’ ノア・A・ベーゲ Noah A. Baetge (テノール)
マスネ『ウェルテル』より”春風よ、なぜわれを目覚ますのか Pourquoi me reveiller"
彼は全く一曲目でした失敗と同じことを繰り返しています。選曲の失敗。
この二曲目のアリアは、自分の可能性を示す機会ではなく、むしろ、限界を暴露する場になってしまいました。
高音の弱さや声本来の平凡さ、といった一曲目で感じられた歌の欠点を、
あたかも確認作業するような歌になってしまっています。
曲の選び方によってはもう少し印象アップすることも出来たのでは?と思いますが、
そもそも、そういう欠点がなければそんな必要もないのだから、結局同じことでしょうか?

③’ キリ・ディアン・デオナリン Kiri Dyan Deonarine (ソプラノ)
フロイド『スザンナ』から”The trees on the mountains"
この彼女は逆にすごい賭けに出てきました。
この『スザンナ』という作品は、カーライル・フロイドの1955年の作品なのですが、
メトでも1999年にルネ・フレミング、アンソニー・ディーン・グリフィー、サミュエル・レイミーと
いった顔ぶれで初演されています。
私は全幕を鑑賞したことも聴いたこともありませんが、このアリアだけを聴くと、
『ポーギーとベス』ほど真っ黒ではありませんが、
どこか黒人音楽を取り込んで消化したような、オペラのアリアとしてはユニークかつパワフルな曲で、
確かにフレミングには結構向いているんではないかな、と感じます。
(私は彼女の歌にはどこか黒っぽいところもある、と感じているので、、。)
綺麗なソプラノ声だけの歌手には絶対に歌いこなすのは無理で、むしろ、
どちらかというとメゾ的なテクスチャーを持っている声質の歌手の方が向いているのではないかという気もします。
というわけで、いわゆるオーセンティックなオペラ・アリアではないし、
私のようにこの曲を初めて聴いた、という観客もいたと思うのですが、
こういう馴染みの少ないアリアで観客をあっ!と言わせたり、強く印象づけるには、
相当歌唱の出来が良くないと難しい。
彼女は高音域になると音が浅くて、パンチのない、全く魅力のない声になってしまうので、
曲が終わった時には、面白い曲だけど、彼女の歌はあまり印象に残ってない、、、という悲しい結末に終わってしまったのでした。
選曲で冒険しすぎて失敗した例かもしれません。

④’ ポール・アップルビー Paul Appleby (テノール)
モーツァルト『後宮からの逃走』から"我が心はおののき O wie angstlich"
ああ、やっぱり彼は良く自分のことがわかっているし、心憎い選曲をしてきます。
一曲目を聴いたときに少し声の質がポレンザーニに似ているので、
モーツァルトも聴いてみたいな、と思っていたところなのです。
ポレンザーニよりは少し芯が太くてまろやかな感じのする声で、
繰り返しになりますが、歌い方が本当に素直で、自分の実力以上の見掛け倒しの歌を歌わず、
自分の持っているものを上手く出していると思います。
まだまだ余裕があり、将来性を感じさせます。

⑤’ サラ・メスコ Sarah Mesko (メゾ・ソプラノ)
ドニゼッティ『ロベルト・デヴリュー』から”悲しみにくれる者にとって涙は甘い All'afflitto e dolce il pianto"
表現力をアピールする(はずだった)ヘンデルと技術力をアピールするドニゼッティを
組み合わせた心意気は買いますが、今度は、技術でいっぱいいっぱいになって
全く表現がお留守になった感が。
いや、ヘンデルでの歌唱もあわせると、もともと表現力に欠ける人なのかな?と
いう気すらしてきました。
何も悪いところはないのに、観客の心に食い込めない。痛い。

⑥’ スン・ユン・リー Sung Eun Lee (テノール)
ヴェルディ『リゴレット』から女心の歌 ”La donna e mobile"。
それはもうこんな曲を歌ってくれるのは彼しかいないでしょう。
この怖いもの知らずの選曲につい、観客も楽しみなような、恐れおののいているような、、。
彼の高音はものすごく硬い感じがして、それが私はあまり好きではないのですが、
しかし、高音は全部きちんと、クラックなく決めていましたし、
この大舞台、このプレッシャーの中で、こんな曲を歌うこと自体、
そのクソ度胸(というか、どこか、一本頭のネジがふっとんでいるか、
体を通っている神経が一本、二本、他の人より少ないか、、。)はすごいことで、
それは評価します。
でも、正直言うと、私は彼がグランド・ファイナリストに選ばれたとて、
全幕作品で小さな役をもらえればいい方で、その先に大きなキャリアが開けるとは
とても思えません。
きちんと機械のように歌うということと、感情豊かな奥行きのある歌唱というのは全然次元の違うことで、
私は可能性、将来性を含めても、後者を彼の歌から感じることが全く出来ないです。
30歳という年齢でも、遅咲きのようなアルヴァレスの例もあるので、
それは全然問題ではないのですが、、。

⑦’ ナディーン・シエラ Nadine Sierra (ソプラノ)
モーツァルト『ツァイーデ』から”安らかにお休み、私の愛しい人よ Ruhe sanft"
はみ乳の小ビヨンセが舞台に戻ってきました。
また次はどんな”私、私!”な歌を聴かせるかと思ったら、意外や、この二曲目はなかなかです。
こういう歌を歌えるんなら、最初からそうしてくれればいいのに!
この曲の最高音域で何度も音がややシャローに入っていて、
技術の完成度の高さでは一曲目の方が一見上だったように見えますが、
彼女に期待できる将来性があるとするなら、それが出ていたのはこの二曲目の方です。
あのグノーのアリアのような、ディーヴァちっくな歌で好き放題するよりも、
こういう形式、スタイルのある作品にやや縛られた方が彼女の歌の良さが出るように思います。
小娘が好き勝手にすると大抵ろくでもないことになる、ってことです。
二曲目で見せた顔を大事に、そこに技術を積みかさねていってほしい。
一曲目の路線で突っ走るなら、どんなに大舞台でも、私は決して観に行きたくありません。

⑧’ ジェシカ・ジュリン Jessica Julin (ソプラノ)
チャイコフスキー『スペードの女王』からリーザのアリア。
これまた実に渋い曲で来ましたね。
しかも、数ヶ月前にグレギーナがメトでこの役を歌ったばかりですから、
相当自信があるんだな、と思いながら聴き始めましたが、それも納得の歌唱。
グレギーナより全然いいんですけど。
全然無理なく、オペラハウスに充満するような大声量を軽々と出している彼女。
全く無理のない発声なので、歌唱がうるさく聴こえない。
少し暗めではありますが、ロシア系の歌手ほどまったりとした声ではないので、
かなり幅広いレパートリーに対応することも可能なような気がするところも魅力です。
しかし、28歳という年齢は、今回の出場者の中でも最年長のグループに入ってしまうのですが、
一体、彼女のような歌手がこれまで全く無名というのはどういうことなんでしょう?
彼女が歌うと、二曲目が良かったとはいっても、ナディーンの歌など、
完全にかすんでしまいました。
大体、このグランド・ファイナルズの歌唱順というのは、映画"The Audition”を見るに、
いろいろな要素を考慮して、メトのトレーナーたちが決定しているようで、
つまり、彼女をトリに置いたということ自体、彼女の歌唱力と強い精神力が
評価されているわけです。
(同様に一番最初に歌う歌手にも実力のある人を持ってくることが多いようです。)
しかも、このジュリンの歌唱の後、最終審査を待つ間、あのドローラ・ザジックが
ゲストで一曲歌うわけですから、
なまじかな歌手だと、すっかり霞んでしまうでしょう。
しかし、彼女の舞台でのこの優雅さというか気品はどうでしょう!
全幕でぜひ彼女の歌を聴いてみたいものです。

これで全予定曲終了。
いよいよ、待ちかねたそのザジックの登場です。
彼女が選んだ曲が非常に興味深い。
ヴェルディ『マクベス』からのマクベス夫人のアリア”日の光は薄らいで La luce langue"。
ソプラノによって歌われることが多いマクベス夫人役ですが、
ザジックは、(今は少し翳りが見えますが)メゾでもずっと高音に強かったので、
役によってはソプラノが通常持ち役にしているものでも全然歌えると思います。
しかし、今日のこの選曲は、もしかすると、マクベス夫人を全幕で歌うつもりがあるのか?
そうならば、絶対に観たい!!絶対に観たい!!
彼女なら、滅茶苦茶迫力あるマクベス夫人を演じられるはず!
まだ具体的な上演の予定なんかないのに、考えただけでわくわくしてきました。

現在上演中の『トロヴァトーレ』では少し高音に精彩を欠き気味だったので、
マクベス夫人なんて大丈夫かな?と思ったのですが、
今日は、あの『トロヴァトーレ』は仮病?!とびっくりするほどの絶好調ぶり。
久々に聴いた絶好調のドローラ節に血が沸騰しました!
最近やや腰が引き気味になっているように感じた高音も、今日は空気を切るような鋭さで、
プライムの頃の彼女とあまり差がありません。
そして、このオペラハウスが縮み上がるような声の迫力。
こういうことが出来る人はやっぱりそうはいないのだ、と、再実感した次第です。
彼女はコロラトゥーラの技術もあるので、このマクベス夫人役というのは、結構適役かもしれません。
この歌だけに関して言えば、昨シーズンに同役を歌ったグレギーナより、
私は燃えました。
引き合いに出され、そして貶められ続けているグレギーナに申し訳ないですが。

大喝采の観客に複数回、ザジックが答えて退場すると、トーマス・ハンプソンが再び現れ、
”あれ(that。あんなすごいの、というニュアンスで使われた。)と一緒に舞台にのらなきゃいけない者の
気持ち、わかります?”
(実際に彼らが全幕の舞台で共演したことがあるかは私は知りません。)

そして続けて、いかにこれだけ短い時間の間に、色々なスタイルの色々な演目を指揮するのが大変か、と、
指揮者のサマーズを持ち上げてみたかと思うと、
”僕らが歌う世界の歌劇場の中には時に??なオケが演奏しているところもあるけど
(おいおい、どこのことだよ、、)
ここメトでは絶対にそんなことがない。君たちは最高だ。”と、
今度はオケのメンバーに歯の浮く台詞を言い放ち、
その後も、ぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺら、、
ほんっとに良く喋るよ、この人は、、。
審査員からの通知結果を届けに来たおじさんが横に立ってもまだ喋ってる。
どうにかしてください、本当に、。

やっと結果を開くハンプソン。

”グランド・ファイナリストは、、、アンソニー・コスタンゾ!”彼は間違いないと思ってました。
”そして、スン・ユン・リー!”????ええええーーーーーーっっ!!??
”ポール・アップルビー!”彼も選ばれるとは思ってましたが、ってことは、あと一人?!
”そして今回は女性のグランド・ファイナリストは一名だけなんですね。”ですよね?4-3=1だから。
でも、そしたらナディーンは落選?!まさか、ジュリンは落とせないし。
”その最後のグランド・ファイナリストはナディーン・シエラ!”

えええええええええええええええーーーーーーーーーーーっっ!!!???

気が付いたら、左隣のおばさまと私は一緒になって、
”NOOOOOOOOOOO!!! NOOOOOOOOOOO!!! (それ違うーーーーーっ!!)”と
拳をふりまわして叫んでました。
私は許しませんよ!
若くて、胸をドレスからはみ出させさえすれば、
彼女以上に素晴らしい歌を披露した歌手をも出し抜けるなんて、
こんな馬鹿げた理不尽なことがあっていいわけがありません!!!
ジュリンのこの時の気持ちを考えたら、本当に気の毒で、自分のことのように腹が立ってきます。
どんな長年にわたる血のにじむような努力も、どんな類稀な才能も、
その結果でしか可能にならない歌を披露しても、
若さとおっぱいの前には惨敗ってことですか?

ふざけるんじゃないっ!
いつからオペラハウスは娼館になった?!

こうやって、私達観客は、過度に歌手のルックスを重視することで、
自分で自分の首を絞め、みずから、素晴らしい歌手の歌を聴ける機会を逃しているんです。
やってられませんよ、本当に。

あのドローラ・ザジックの歌を聴いた後で、なお、唯一彼女の存在感と歌に
かき消されなかったのは、ジュリンだけですよ。
シエラなんて、木っ端微塵に吹っ飛びましたから。

しかし、よーく家に帰って冷静に考えてみれば、
受賞者の4人(最初の写真で、左から、アップルビー、シエラ、コスタンゾ、リー)の中で、
何であんたがさりげなく混じってんのよ?と思うのは実はリーです。
リーの変わりにジュリンが選ばれていたら、まずは順当な結果だったと思います。

なぜジュリンが選ばれなかったのか、色々理由を考えてみました。
年齢のせいで将来性が差し引かれた、というのが最初に浮かんだ理由でしたが、
それなら、ますますリーが落とされるべきだったでしょう。
次に考えられるのは、彼女の歌はかなり完成されているので、
何もここで賞を与えて後押ししなくても、彼女ならやっていけるだろう、と審査員に判断された。
でも、そんなことを言い出したら、何を基準に選考するのか一層わけがわからなくなってしまいます。
やはり、現在の時点で、どれくらいいい歌を歌えるか、基準はそれだけでいいでしょう。
あと一つはおそろしい”あの”理由、、つまり、これからのスターになるには見栄えの点で不利。
太っている、あまり美人じゃない、など、、。
結局、若くない、というのもここに含まれるべき側面もあるかもしれません。
(映画”The Audition"で、そんなことが堂々と審査員によって語られている姿に、
凍死させられそうになりましたから。)

それから、今回の場合はポリティカル・コレクトネスの匂いもぷんぷんします。
選抜される人は、女性、有色人種、など、あらゆるカテゴリー付けで公平に、、という、。
有色人種は、シエラだけでなく、アジア人のリーを入れたことでまさに完璧!ってな感じでしょうか?

まさか、前編に書いた、シエラがマリリン・ホーン・ファンデーションから
賞をもらっているという事実が、審査員の心証を左右している、なんてことはないですよね?
そんなの、考えたくもないことです。

こういうことが全部関わっているなら、いっそ、”参加不資格者”として、
”貧乳、有色人種でない、若くない、不細工、太っている、引退した有名歌手のバックアップがない”など
はっきり明記したらどうでしょう?
歌手たちに努力させて、期待をもたせて、いい歌を歌わせておいて、
そして落選させるような仕打ちよりはまだましです。
全く、くだらないにもほどがある。
こういう選抜の場は、唯一、歌だけが基準になるべきなんじゃなかったでしょうか?
本当に今回の結果には失望させられました。


Conductor: Patrick Summers
Metropolitan Opera Orchestra
Grand Tier B Odd
ON

***National Council Grand Finals ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズ***

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