Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

OTELLO (Fri, Feb 22, 2008) Part I

2008-02-22 | メトロポリタン・オペラ
やや気が早いというものですが、シーズンの最後に発表する
Operax3 Best Moments Awardsを念頭に置いて、
時々、当シーズン中の現時点でのベスト・パフォーマンスはどれだったかな?と考え、
候補をリシャッフルすることがあります。
昨日までは、ダントツで10/27の『蝶々夫人』が、続いてシーズン・プレミアの『ルチア』
ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)にのった1/12の『マクベス』あたりがデッド・ヒートを
続けていたのですが、誰が今日ここに殴りこみをかけてくる公演が現われようと
想像できたでしょうか?

今年の『オテッロ』は、2/11の公演を含む二度、
シリウス(衛星ラジオ放送。週に3~4日、メトからのライブ放送がある)で拝聴しましたが、
歌唱に関してこれはすごい!と思うものでもなく、演奏については、
やや指揮によるテンポ設定が遅いのが、ゆるさを煽っている原因ではないか?と
二度目に聴いたときに感じました。
ほんの少しだけでいいから、早めに設定してくれればいい演奏になるかもしれないのに、と、、。

今日のNYは前夜から降り続いた雪のせいで、久しぶりの積雪。
こういう日、かつ金曜日は非常にキャブがつかまりにくい為、いつもより早めに出たのですが、
意外にもすぐキャブをつかまえてしまい、いつもは10分前にオペラハウスに入る私ですが、
今日は30分も前に到着してしまいました。
開演前にお茶をして、いつもは駆け込みで行く化粧室も、今日は余裕。
やっぱり、心に余裕を持って公演にのぞむというのは、いいことだわ、と再認識。

第一幕

幕開けの嵐の音楽。



何と。ラジオで聴いたときと違って、テンポが速め。
しかも、真頭の弦の上昇音階の後の、他のセクションが加わった一発目の音がテンション高い!
そして、キプロス島の人々の合唱が ”Una vela ”と入ってくる前に、私は確信しました。
”今日はスーパー・パフォーマンスが来る!!!”

この『オテッロ』のプロダクションは、セット・デザインのテーマに、キリスト教を据えているのか、
どの幕のセットにも、必ずキリスト教にちなんだアイテムが入っていて、
この一幕では、オテッロの帰還を港で待つ人たちが二階建てのセットに横並びに立っているのですが、
その中心に、大きな黒い十字架を家紋風にあしらった布がシンボリックに掲げられています。

やがて、オテッロの乗る船が着岸したことを表現するのに、舞台上手から二本の巨大な綱が張られ、
それを、舞台の下手側にいる役者さんが引っ張るのですが、
私は上手側のカーテンの裏に隠れているはずの船が今にも飛び出してくるのではないか?
メトならそれくらいやらかしそう!と思い、わくわくしたのですが、
それはさすがになく、綱の先にあったのは、船から下りるための板でした。
それがやがて、半弧をえがいて舞台中央にある台にのり、その板の上を歩きながら、
オテッロ役のボータが登場。
第一声の "Esultate! (喜べ!)”。
この一週間、毎日『オテッロ』のCDを聴きましたが、単純に声の問題だけでいえば、
このオテッロ役、ほとんど、デル・モナコの一人勝ち、といった感じです。
その後、この役で評判をとったテノールといえば、ドミンゴが頭に浮かびますが、
このEsultateなんかを聴くと、この役に関しては、声そのものではデル・モナコに叶わないかなあ、と、、。
ドミンゴですら、比べると声が軽く聴こえるなんて、いかにデル・モナコが強靭な響きの声か、ということなのですが、
むしろ、声だけの適性を言うと、CDで聴く限り、ジュゼッペ・ジャコミーニが
ドミンゴよりもおもしろいかな、と思います。
(*ジュゼッペ・ジャコミーニ・・・三大テノールの陰に隠れてしまって、レコード会社との契約がつかず、
スタジオ録音が極端に少ない不運のテノール。70年代から80年代がプライム時期で、
その頃のライブ録音などを聴くと、ぶっとびます。カレーラスのファンの方には申し訳なく、
また暴言を吐きますが、私が三大テノールのコンサートを企画したなら、
その面子は、パヴァロッティ、ドミンゴ、ジャコミーニの三人になったことでしょう。)
とまあ、『オテッロ』に関しては、デル・モナコの歌唱を耳が聴きつけてしまっているために、今や、
ドミンゴが歌うこの役ですら、軽目に感じてしまう私なので、ボータのEsultateが
軽く聴こえても、当たり前といえば、当たり前でした。

さて、この "Esultate "、
特にEsulの後のtaのたった一音で、そのテノールの声の特質、長所と弱点とが、
一気に観客に伝わってしまう、こわいこわい音。
で、今日、実演でのボータの歌唱の、このtaから受けた印象は、
やや明るめでクリア、少し音への乗り方が軽い。しかし、決して弱くはないし、声量もある。
そう、軽い=弱いではないのです。
パヴァロッティの声は(特に若い頃は)軽めだったけど、決して弱くなかったのと同じように。
また、l'uraganoの部分の頭の音の引っ掛け方が、シリウスで聴いたときとは違って、
今日のボータは、非常にゆっくりと音をまわしていたのが印象的でした。

合唱は、ややヒステリックな響きがあるものの、この作品の、特にこの場面では、
それもまたよいでしょう、と思える。

さて、オテッロたちの無事な帰還を喜んでいない男がここに一人。
ヤーゴ。
オペラの中では、自分ではなく、色男の同僚カッシオの方をかわいがって
副官にとりたてたという理由でオテッロに恨みを抱いていることになっていますが、
それはささいな引き金に過ぎず、ニ幕のクレドで吐露しているように、
どちらかというと、根っから邪悪な男なのであって、むしろ、人間誰しも持っている邪の部分を
シンボライズした登場人物と言えるのかもしれません。

そのヤーゴ役を歌ったカルロ・グエルフィ。
この方、少なくともこの役については、歌だけのことをいえば、
むしろ下手である、といっていいかもしれません。
まず、声そのものに邪の香りがあまりしないこと、また、独特の、息が多く入る発声方法で、
聴く人によっては気になる人もいるかもしれません。
しかし、それよりも何よりも私が気になったのは、歌っているときのリズム感。
カッシオを酔っ払わせて、たくらみにはめようと歌うヤーゴの”乾杯の歌 Innaffia l'ugola ”では、
オケと合わせて歌う箇所で、テンポが内側のぎりぎりなので、
これ以上早めに入ったら危険よ!!!と思っていたら、
案の定、次の入りの部分で暴走、オケよりも彼の歌が先に飛び出し、
必死にあわせようとする指揮者&オケもろとも軽い脱線列車状態に。
それ以外にも、リズムについては気になった箇所が二、三、ありました。

しかし、そんな歌なのにも関わらず、なぜだか役としての説得力はあって、
一つには、イタリア人ゆえ、この作品の言葉への感覚が鋭い、ということが挙げられると思います。
なので、この乾杯の歌とかクレドといった、通常の聞かせどころよりも、
むしろ、叙唱的な部分(独立した曲の部分ではなくて、台詞に音楽がついたような箇所)で
彼の上手さを感じました。
また、徹底した悪人というよりは、ごく見た目は普通の人間の中にひそむ邪悪さという
アプローチで、一貫した役作りを披露していたのは評価できます。
例えば、着々とオテッロを罠にはめているさなかでも、キプロス島の子供たちには優しく接してみたり、、。
徹頭徹尾のワル型ヤーゴも私は大好きですが、この、蛇の舌のように、ちょろん、ちょろん、
と邪悪さが見える、というのも、なかなかいやらしくていいな、と思いました。
とにかく、歌が駄目でも、役としてみせることができる可能性がある、
というのが、私には今日、最大の驚異でした。
恐るべし、グエルフィ。
(叙唱の部分も歌とするなら、歌が駄目、という表現はやや言い過ぎではあるわけですが、、)

ヤーゴの狙い通りに、カッシオが酔いの勢いにまかせて、仲間たちに剣を抜くという大事態に発展し、
オテッロがあらわれ、カッシオにその責任をとらせるため、副官の地位から解任してしまいます。
これがその後、雪だるま式にふくらむ悲劇のスタートとなるのも知らず、、。



さて、あまりの騒ぎに何事かと、姿を現したオテッロの妻、デズデーモナ。
デズデーモナ役を歌うルネ・フレミングは、今日は実は高音でややいつものキレを欠いていて、
絶好調ではなかったように聴こえましたが、さすがに経験のある歌手らしく、
実に巧みに、それをほとんど感じさせないように歌っていました。
で、彼女の場合、調子が悪いときほど、また、役が彼女の声質にあっていないときほど、
ルネ節が炸裂する傾向にあるように思うのですが、
このルネ節と私が名づけた、人によっては不快とも感じられうる独特の声の響きと歌いまわしが、
歌われている母音の種類に左右されるという法則を今日、私は発見しました。

ルネ節は、eの母音で最も発声する率が高く、つづいてaの母音が僅差で続き、
逆に、oとかiといった母音ではほとんど見られず、むしろ、このoとiという二つの母音では、
彼女はものすごく綺麗な声を出す確率が高い。

なので、乱暴ですが、簡単に言うと、彼女の歌を好きになれるかなれないかは、
彼女が時に聴かせる、eとaの母音の発声の仕方が好きになれるかなれないか、にかかっているように思います。

愛の二重唱 ”もう夜も更けた Gia nella notte densa ”は、
まだ、デズデーモナが登場して間がなく、ルネ・フレミングの歌唱が安定し始める前だったこともあって、
公演中、一番ルネ節が強く出た点が私個人的には残念ですが、
ボータが、今日は絶好調なのではないか?と思わせる見事な歌いぶりで、
Esultateでは、軽めに感じた声も、ここをこんなに美しく歌われると、
オテッロ役でも、こういうリリカルなアプローチだってありなんではないか?と思わされ、
段々彼のペースに巻き込まれ始めた地点でした。

今日の聴衆は、『オテッロ』という作品を楽しみに来た方が多いのか、
公演中ずっと、観客席側も緊迫した空気が流れていて、どんな楽器の一音も聞き取ってやる!という、
気合のようなものすら感じました。

なので、普段ならここまで気にならないのかもしれませんが、この二重唱の頭のチェロのソロ部分で、
一瞬、音がなくなったように聴こえたミスがあったのは痛恨。
また、これは多分に指揮者の指示が不明瞭だった可能性が高いのですが、
(残念ながら、今日はちょうど、斜め前の人の頭で完全に指揮者の姿が隠れてしまったので、
指揮姿は見えませんでした。)
ところどころ、弦の低声を担当しているパートで、入りのタイミングをはかりそこねるのか、
音がややぼやけてしまった印象の箇所がありました。
しかし、それ以外では、ここ最近、レヴァイン氏以外の指揮者からここまでテンションの高い音が
出て来るのは本当に久々で、
オケの面なら、先にふれた『マクベス』と張り合う、いや、私は個人的には、
こちらの『オテッロ』をとるであろう出来でした。
というのは、『マクベス』はテンションと完成度の高さにもかかわらず、
この『オテッロ』の自由な、音楽が真に流れている感じと比べると、
心持ち、窮屈そうな感じがあったのは否めない気がするからです。

とにかく、この二重唱以降、オケはさらに尻上がりに、どんどんよくなっていったのでした。




二重唱の最後の弦の音が消えると、隣のご夫婦の奥様が一言。

”なんてロマンチックなの、、、”。

作品の良さを引き出して、こういう飾らない言葉をすっと観客に口走らせる演奏こそ、
優れた演奏なのではないか、と、最近思います。
しかし、その後のだんな様の、オペラグラスを掲げながらの一言が奮ってる。

”うん、ルネ・フレミングは綺麗じゃのう。”

そうじゃなくって、、、もっと奥様の気持ちをわかってあげましょうよ。。

Part II に続く>


Johan Botha (Otello)
Renee Fleming (Desdemona)
Carlo Guelfi (Iago)
Garrett Sorenson (Cassio)
Ronald Naldi (Roderigo)
Charles Taylor (Montano)
Wendy White (Emilia)
Kristinn Sigmundsson (Lodovico)
David Won (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Grand Tier B Odd
ON

***ヴェルディ オテッロ Verdi Otello***

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