Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

L’AFRICAINE (Wed, Mar 2, 2011)

2011-03-02 | メト以外のオペラ
今週は二夜連続で”おフランスな夜”、つまり、フランスものの鑑賞が続きます。
今日はオペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク(以降OONYと表記)による演奏会形式の『アフリカの女』。
マイアベーアの作品で、メトではなんと1934年を最後に全幕上演が行われていない、という、どマイナー作品です。
というわけで、内容についてはマイナーなオペラのあらすじのコーナーをご覧下さい。

カーネギー・ホールにたどり着くと、着席したすぐ斜め後ろの席にどこかで見たことのあるおやじ、、、と思ったら、ゲルブ支配人でした。
メトの今夜の『タウリスのイフィゲニア』を放り出して、よそのカンパニーの上演を観に来てる場合か??と思いますが、
もしかすると、この『アフリカの女』がどのような作品であるのかを偵察し、
ポテンシャルを感じれば、新演出でメトで再演を!というようなことを考えているのかもしれません。とすれば、これもお仕事のうちか。

オーディエンスが客席に揃い、開演時間になると、1972年にOONYが初めて行った演奏会で取り上げられた作品がまさにこの『アフリカの女』で、
今日はその公演でヴァスコ・ダ・ガマ役を歌ったリチャード・タッカーの歴史的名演を記念する演奏会であることが告げられました。
そして、それに続いてスピーカーからタッカーが歌う”ああ、楽園よ O Paradis!"が流れて来ました。
ライブの音源ではありましたが、私の記憶が正しければ、はっきりと72年の公演からの音源であるという説明はなくて、
なんとなく1972年の音源なんだろう、と思い込まされたまま聴いていましたが、
もし、本当に72年の録音だったとすれば、彼が心臓発作で亡くなるたった3年前の、彼のキャリアの中では後期の録音(当時59歳)ということになるのですけれども、
とてもそんな風に思えない、パッションとコントロールが隅々に行き渡った歌唱で、
こんな公演がきちんと録音に残っているのでしたら、OONYはどうしてCDか何かでリリースしないのか!と思います。
それにしても、ものすごい迫力!ただ単に声量が大きいだけでなく、録音で聴いていても、
どこまでもがっちりと身がつまった感じのするすごく肉厚な声です。
それに彼はライブだと一際燃える歌手というか、高音なんかも全然おっかなびっくりじゃなくて、”どうだ!”という感じの、
すごい度胸ある歌い方なんですよね。
もうスピーカーが耐えられません、、、という感じでびりびり言っている中、
タッカーの声がエイヴリー・フィッシャー・ホールに延々轟き続けました。
OONYのオケの奏者の方も、”すげえ、、、。”という表情で聞き入ってらっしゃいますが、ここでふと思う。
ジョルダーニがヴァスコ役を歌う前にこんなすごいもの聴かされてもねえ、、、ジョルダーニもプレッシャーじゃないのかな、、と。



と思っているうちに、指揮のイヴ・クエラー女史が登場です。
私がクエラー女史を最後に観たのはもう三年前!2008年3月のOONYのガラの時のことです。
その時に比べると、ああ、随分お老けになったなあ、、と感じたのですが、それも道理か、1972年のOONY創設時から、
創設者および指揮者として尽力されて来たクエラー女史が、なんと今回の『アフリカの女』を持って、音楽監督からは引退され、
次回からは半年前の『カヴァレリア・ルスティカーナ/ナヴァラの娘』でOONY指揮デビューを果たしたヴェロネージが代わりをつとめるそうです。
女史が登場した瞬間に、ものすごい拍手が会場から沸き起こります。
1972年以来、一年にほんの数本のペースではありますが、力のある歌手を招聘し、あまり演奏されない演目にも意欲的に取り組んで来たOONY。
例えばストヤノヴァのような歌手がNYデビューしたのはメトではなく、このOONYであったことなどを見ても、クエラー女史の慧眼が伺われますし、
それこそ、今日の『アフリカの女』のような演目は、こうしてOONYが取り上げてくれなかったら、もしかすると私には一生見る機会が訪れなかった可能性もあるわけで、
今日、ここにいる観客のほとんどはみんなそういう経験をOONYと分かち合っているため、クエラー女史への感謝の気持ちが大きいというわけです。
NYのオペラ・シーンがメトに牽引されていることはもちろんまぎれもない事実ですが、
キャラモアとかこのOONY、それから以前紹介させて頂いた今は失きアマート・オペラのような団体が、それをさらに奥深いものにしているといえ、
クエラー女史はただの人のよさそうなおばさんではない!NYのオペラ・シーンに貴重なものを与えてくれた人物の一人なのです。



相変わらず地元有志のアマチュア・ママさんコーラスを取りまとめるリーダーのごとく、とても緩~く見える女史の指揮なのですが、
面白いのは、半年前の『カヴ/ナヴァラの娘(略してカヴ・ナヴ)』のヴェロネージの指揮に比べると、
オケが女史の元での方がより活き活きと楽しそうで、よっぽど良くまとまっている点です。
この作品は上演時間が本当に長くて、練習も大変だったのではないかと思いますし、
マイアベーアのオーケストレーションそのものに非常に不自然・ぎこちない部分があったりして、
(しばしば歌手にノー・アカンパニメントでしばらく歌わせた後、オケの合奏や独奏が入ってくる、というパターンが見られるのですが、
ここでピッチが少しでも緩いと非常に締まらないことになって、歌手にとってもなかなかに気の抜けないスコアです。)、
スタイルも継ぎ接ぎ的なので、演奏するのが易しい作品であるとは決して思いません。
当然ながら、細かいミスはありましたが、総合的にはクエラー女史の最後の公演ということで
奏者が今出来る最良の演奏をしようという意志が感じられる、後味の良い演奏でした。

前回の『カヴ/ナヴ』でぼろくそにけなしまくってしまったニュー・ヨーク・コーラル・ソサエティ。
今回の合唱はニュー・ヨーク・コーラル・アンサンブル。
後者はウェブサイトも存在しておらず、両者の名前が似ているのは何か関係があるのか、それとも全く別の団体なのか、私には良くわからないです。
後者が前者の選抜組とか、もしかすると、『カヴ・ナヴ』でのあまりにも恥ずかしい合唱の結果に、
全く同じメンバーのくせに”ソサエティ”とは他人の振りを装って”アンサンブル”と銘打っているのかもしれません。
”アンサンブル”は、”ソサエティ”に比べ、歌唱のクオリティはいくらかましでしたが、褒めちぎるほどの内容でもなく、
特にフル・コーラスになった時の音の雑な響きはもうちょっと練習を積んで欲しかったな、、と思わせるものです。



この『アフリカの女』は、あらすじをお読み頂くと明らかな通り、オペラにありがちな、都合のよいストーリー・ライン炸裂!な作品で、
その上に、『アフリカの女』と言いながら、なぜかセリカはインド人であるという、かなり意味不明なことになっていて
(イネスはポルトガルのお嬢なので、タイトルが指す”女”というのはセリカであることは明らかです。)、なかなかの混迷ぶりです。
ヴァスコ・ダ・ガマの、どんな逆境にも必ず一人生き残り、必ず作品に戻って来るという、ゴキブリ並みの生命力も凄いです。

フランスのオペラというのは、綺麗なメロディーを延々聴かせる、という冗長な作品が少なくなくて、
冗長さといえば、この『アフリカの女』も全く負けておらず、昔の劇場のように、社交場としてそこにいて、
なんとなく演奏を聴いている、という感じなら良いのかもしれませんが、
現代の鑑賞スタイル、つまり集中力を持って延々と全幕じっと座って聴きとおすには若干辛いところもあり、
そのあたりにあまりリバイバルされない原因があるかな、と思います。
特に一~三幕。一応あらすじ的には前に進んでいるのに、なぜか演奏を聴いていると、全然話が前に流れて行かないような錯覚が起こります。
ちなみに今回の演奏は三幕の後にインターミッション一回きりで、それまででも相当退屈だったのか、
ゲルブ氏が私の眼の端で激しい貧乏ゆすりを繰り返し、眠気防止のためか、座席で座る姿勢を何度も変える姿がキャッチされましたが、
インターミッションになると、オリンピックの短距離走者のごとく、ものすごい勢いで隣のメトに逃げ帰って行き、
後半の演奏には姿を見せませんでした。
というわけで、この作品がメトの舞台にあがることは、少なくともこれからしばらくはないと思われます、、。

で、そのくせ、意外(?)にも歌唱には高度なテクニックや表現力、パワーが求められるし
(技巧では特にイネス、表現力ではセリカ、パワーではヴァスコ)、
また配役の面、特にイネスとセリカの女声の対比という側面で、キャスティングのセンスも求められるし、
それらがさらに全幕上演のハードルをあげているように思います。
これは演奏形式が前提の話で、実際の劇場での全幕公演ともなると、さらに演出面での問題も加算されますから大変です。



しかしですね、第四幕以降!ここからは良い!ラストまであっという間に時間が経ってしまって、
一幕から三幕までが辛かった事実も、一気に報われます。ゲルブ支配人、一番良いところを見逃してしまいましたね。
四幕以降に見ごたえがあったのは、今回セリカ役を歌ったタイージが表現力に秀でているタイプの歌手であったおかげも大きいですが、
『アイーダ』のアムネリスのインド版的な雰囲気もあって、
(そういえば、この作品は音楽的にもところどころヴェルディの中後期の作品の影響を感じないではなく、
最初はマイアベーアがヴェルディをパクッたのかと思いましたが、こと『アイーダ』と比較した場合、
この『アフリカの女』の方が初演ベースでは6年ほど先なので、当時の流行という側面もあったのかもしれません。
私は愛しても愛してもその気持ちが報われない恋する人間が大好きで(アムネリス、フィリッポ、、、)、
特に彼らがその葛藤に苦しみ、何かをやらかす時は胸がわくわくしてしまいますので、
このセリカ役は私の好みの王道を行っているといえます。
特にセリカの、思っても思ってもヴァスコに振り向いてもらえず、ついに運の助けで彼の心を摑んだか?!と見えた瞬間に、
またしても決定的にヴァスコの気持ちは自分にないことを思い知り、
一旦はイネスとヴァスコ、両方殺してしまえ!とネルスコに命令しながら、
最後には、やはりヴァスコへの思いゆえに、彼が一番幸せになる方法を選び、
彼が人生からいなくなるということは、自分の死を意味するのだ、、ということを証明するために毒の香りを飲んでしまう、、、
この一連の流れは実にドラマチックで、見終わった後に何ともいえぬ余韻もあり、
後半だけをとればよく出来たオペラで、前半の重さと作品全体の長さが惜しいな、と思います。

それに、あてのない航海の日々で、偶然が重なって流れ着いたインドの土地に、自分が追い求めて来た楽園を見る、という、
ヴァスコのロマン気質が全開な"O Paradis"が歌われる時の設定もなかなかにドラマチックで良いです。

この場面までのヴァスコはこと恋愛に関すると本当に優柔不断で、その上に彼の人物像の描写が希薄なので、
見ているだけできーっ!!となってしまうのですが、
このアリアの登場によって、彼のパーソナリティの中で大きな比重を占めるこのロマン的気質が前面に押し出され、
それゆえにセリカが恋心ゆえにオファーする人情味溢れる申し出の数々に、ついノーと言えなくなってしまうのだな、ということがわかって、
ここを境にして彼の人物描写がずっとスムーズに進んで行くような感じがする、
このオペラの中で、声のディスプレイだけとしてでなく、ドラマ的にも非常に大事な機能を果たしているアリアです。
というわけで、今回の公演の趣旨からタッカーに敬意を表し、彼の”ああ、楽園よ”を。
ただし、この録音はイタリア語版(よってO Paradiso)によるスタジオ録音ですので、
我々が今日の演奏会の冒頭で聴いたのとは違う音源です。



ジョルダーニのキャラクターに、なんとなく優柔で人情味溢れるヴァスコはなかなか適役であるのですが、
この"O Paradis"については、この日、彼の歌は何とかきちんとこの曲を歌っています、という以上のものではなかったな、と思います。
本来、彼のキャリアのもう少し前の方だったならば、声質的なレパートリーの選択としてはそう的外れではないとは思うのですが、
現在の彼の声はすでにかなりウェアが激しく、声の美しさを楽しむ、という面では非常に厳しいものがある、と、私の感覚では思います。
この日はさらにその上に風邪気味であることがうかがわれ、舞台上で鼻をかむ姿が何度か見られましたし、
後半、"O Paradis"でかなり無理な声の出し方をしていたことも祟って、声の荒れが激しくなったと思います。
"O Paradis"の直後では、喉がかなり荒れたのか、舞台裏に水を飲みに行ったと見られ、
そのすぐ後にある、セリカがヴァスコに話しかけるという、本来なら彼が舞台上にいなければならないはずの場面に
ジョルダーニの姿はなく、セリカ役を歌うタイージが、その部分の歌詞を歌いながら、”といいつつ、彼はここにいないけど。”
というジェスチャーを作って見せ、やっとジョルダーニが舞台に戻って来た後は、自らのパートを歌い終えると、
”大丈夫?”とジョルダーニの調子を気遣う様子も見せていました。



イネスを歌ったエリー・ディーンは今シーズンのBキャストの『ラ・ボエーム』でなかなか魅力的なムゼッタを歌ってみせたので、
注目かつ楽しみにしていたキャストだったんですが、今回の演奏では、ここまで長い演目で、かつかなり歌うパートが多く、
そして、かなりの歌唱技巧も求められる(この作品で、もっとも歌唱のヴィルトゥオーゾ的要素が求められるのがイネス役です)役では、
まだちょっと安定感を欠くかな、という風に思いました。
すごく魅力的な音が出てくるかと思うと、そのすぐ後で不安的になる、、というような。
(魅力的な方の音は、シャープな魅力があって声量にも事欠きません。)
決して言及せねばならないような大きなミスがあったわけではないので、
それだけでも彼女のまだ比較的浅いキャリアを考えれば賞賛に値しますが、
私は高度な装飾技術を一つミスすることよりも、彼女がパッセージの中で音色を完全には統一しきれていない点、
こちらが気になるし、また、マイナスに感じます。
相変わらず、舞台プレゼンスはいいものを持っているのですが、顔がほっそりしていて貴婦人顔であるにも関わらず、
腕が意外とたぷたぷしているのにはびっくりしました。
衣装や演奏会のドレスは二の腕まる出しのデザインのものも結構ありますから、ちょっとワークアウトして、
もう少し腕にトーンをつけた方がいいかもしれません。

今回、私が最も面白い歌手だと感じたのは、この演奏会がアメリカ・デビューとなったイタリア人ソプラノ、キアラ・タイージです。
残念ながら、彼女が真にインターナショナルな、それこそオペラ・ファンなら誰でも知っている、
というような歌手になる可能性はおよそゼロです。
というのも、彼女の声には大きな欠点があって、ほとんど響き的にはメゾと言ってもよい彼女の声は中音域までは非常に魅力的なんですが、
90%の高音で、ものすごく無理をして押していることから生じる、嫌なざらっとした響きが混じるからで、
つまり、ソプラノとしては、最低限備えていなければならない音域を持っていない、と、そういうことになるかと思います。
それにも関わらず、私が彼女を面白い歌手だと思う理由は、ひとえに、彼女の持つ素晴らしい表現力です。
というか、彼女の表現力があまりに素晴らしいので、つい、声の欠点に目をつぶりたくなる気がするほどなんですが、
それは私の真のオペラへッドとしてのアイデンティティーゆえに出来ない相談であるのが、本当に本当に残念です。
これまで、こんなに表現力のある歌手が、声楽面での欠点に邪魔されるケースを、私は見たことがありません。
大体声の能力に限界があると、ここまで表現力がつかないのが普通だと思うんですが、
彼女はその常識を覆していて、ちょっとそういう意味では特異な例と言え、彼女の歌を聴くにつけ、
”ああ、もったいない、、、もうちょっとしっかりした高音さえあれば、、。”と臍を噛むような思いに浸されます。
特に四幕以降でのセリカの感情の表現は感動的で、特にラスト、五幕でのモノローグのシーンは、多くの観客が
セリカの実らぬ恋心に限りないシンパシーを禁じえず、
また失恋してなおプライドを感じる、あのきりりとした美しさには心を打たれたはずです。

彼女は元はなかなかの美人であるはずなのですが、ものすごい化粧の厚さとプラチナブロンドの髪と相まって、
オペラ界のシンディ・ローパーのような形相を呈していますが、なかなか性格も熱血な人のようで、
舞台上を仕切る仕切る、、、先ほども書いたように上演中にジョルダーニの健康を気遣ったり、
幕の終わりでは、あまりこういう機会に場慣れしていないディーンの手をとって仲良く退場してあげたり、
最後の舞台挨拶では邪魔になっている楽譜台を道具係のように自らばっさばっさと横に片付けたり、と、忙しく働きまわっていました。
まるで肝っ玉母さんのようなキャラクターです。
(私など、脇の男性陣、女性にそんなことさせてないで、もっと気を遣って動けよな、、と思ってしまうのですが、
まあ、彼女にそれだけ余裕があるということでしょう。)

この作品があまり上演されないだけに興味を引かれるのは、
イネスとセリカ、この2人の役にはどういう声質の歌手を持ってくるのがいいのだろう?という点です。
今回の上演では、重くはないけれどややシャープでエレガントさを感じる声質を持っているディーンをイネスに、
ほとんどメゾのような声質のタイージをセリカに持ってきて、対比をつけているのですが、
おそらく唯一の全幕のDVDと思われるSFO(サン・フランシスコ)での公演では、
ルース・アン(・スウェンソン)姉さんのイネスとシャーリー・ヴァーレットのセリカという組み合わせになっています。
(ヴァスコはドミンゴ。)
ルース・アン姉さんはディーンよりは声が柔らかくて軽いですが、
セリカにメゾっぽいドラマティックなトーンのある歌手を選んでいるという点では共通しています。
ちなみに下がそのルース・アン姉さんのイネスなんですが、最初の方に書いた、ピッチが狂うと悲惨なことになる箇所の例として、
こちらをあげておきます。(姉さんは上手く切り抜けてますが、、。)
一幕のイネスのアリア、”さよなら、私の美しい浜辺よ Adieu, mon beau rivage”です。 



イネスとセリカには、ドラマ的にも重要な”おお、長い苦しみよ O longue souffrance"という二重唱があるので、
この2人の声の相性、コンビネーションはすごく大事だと思うのですが、
YouTubeに三つの違った組み合わせ(ヴァーレットとマンダック、バンブリーとリナルディ、ノーマンとシゲーレ)で
この二重唱の歌唱を比較した興味深い音源もあります。



しかし、同じドミンゴがヴァスコを歌ったリセウ劇場の映像ではセリカ役をカバリエが歌っていたりして
(カバリエが全幕でセリカを歌ったのは一シーズンきりだったようですが)、
彼女はメゾ的なサウンドがある歌手とは言い難いですし、上演の歴史が豊かとはあまり言えない作品だけに、
まだ、この二つの役については、例えばアイーダとアムネリスの場合のような、
普通オペラ・ファンが思い浮かべる、典型的なこれらの役に向いた声質のコンセプトというものが緩くしか定まっていないような気もします。


Chiara Taigi (Sélika)
Marcello Giordani (Vasco de Gama)
Ellie Dehn (Inèz)
Fikile Mvinjelwa (Nélusko)
Daniel Mobbs (Don Pedro)
Giovanni Guagliardo (Don Diego)
Taylor Stayton (Don Alvar)
Djoré Nance (Grand Inquisitor)
Harold Wilson (High Priest of Brahma)
Gabriela Garcia (Anna)
Lázaro Calderón (Matelot)
Conductor: Eve Queler
The Opera Orchestra of New York
New York Choral Ensemble (prepared by Italo Marchini)

Left Orch L Odd
Avery Fisher Hall

*** マイアベーア アフリカの女 Meyerbeer L'Africaine ***

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4 コメント

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ブロンドのお姉さん (keyaki)
2011-03-11 17:30:54
どこかで見た顔だと思ったら、キアラ・タイージなんですね。
http://colleghi.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300530078-1

リハーサルですが、ミミの歌がちょっと聞けます.....
http://colleghi.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_6f6/colleghi/gri_cina8c-1c54b.mov

>最後の舞台挨拶では邪魔になっている楽譜台を道具係のように自らばっさばっさと横に片付けたり
これって、グリゴーロもやりますね。(笑
チューリヒ中央駅の椿姫の時も、一人でストレッチャーをかたずけたり、指揮者を呼びに行ったり、まめに動いてしきってました。
田舎の劇場で、手作り公演みたいなのをやった経験があるんじゃないかな...なんて思ってます。

まだ、時々余震がありますが、いつになったら、電車を動かすんでしょう。
返信する
keyakiさん (Madokakip)
2011-03-12 17:16:51
おっしゃる通り、キアラ・タイージです!
そんなに知名度のある人ではないと思うので、良くご存知だな、と思ったら、
なんと!グリゴーロ君とあの中国の『ボエーム』で共演したソプラノだったとはびっくりです!
ほんと、オペラの世界は狭い!

そうですか、グリゴーロ君もつい片付けてしまうんですね(笑)
でもそうすると、中国の『ボエーム』、この二人が束になって気を利かせて動き回った日には、
公演スタッフは他に何もすることがない、という状態に陥ったのではないかと、、(笑)
返信する
シンディ・ローパー (みやび)
2011-03-16 12:00:03
特にファンだったわけではないですが、懐かしい~今どうしているのかしら?と思ったら、なんと、日本にいたのですね!

コンサート・ツアーのために11日に来日し、地震直後で成田空港が閉鎖されていたため、一旦横田基地へ着陸し…と苦労のすえ、12日の午前4時頃にやっとホテルに到着したとか。

今日(Bunkamuraオーチャード)からの東京公演を予定どおり行うとのことです。

公演関係は中止が多く、新国立のオペラ、国立の歌舞伎も中止となっていますが、松竹は新橋演舞場の歌舞伎公演を通常どおり続けています。
節電のこともあるので、このような公演は色々と難しいのですが、一方、経済活動は続けなければなりません。これは復興のためにも必須です。
仕方のないことなのですが、皆、暗く沈みこみがちなように思います。(物理的に暗いのも影響大だと思います。)これはイケナイです。

こういう時、電車不通の中で自転車を飛ばすbokuさんのようなパワーは大事ですね!

Madokakipさんのお仕事が超・超お忙しいことになっていそうな気がしますが、ブログの更新など、ご無理のない程度になさって下さい。(←あれ?アップしろって言っちゃってる?)
返信する
みやびさん (Madokakip)
2011-03-21 14:41:37
シンディ・ローパー、、、(涙)
80年代の中ごろはマドンナと人気を二分していて、
歌はマドンナより全然上手いのに、その後の人気は明暗を分けましたね。
ただ、彼女はすごくヒューマニスティックでガッツのある素敵な人、
きっと日本の公演も最後までつとめてしまうに違いありません。
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