Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

IL TROVATORE: THE SINGERS' OPERA

2009-02-09 | メト レクチャー・シリーズ
前回の、シーズン前にレパートリーをさらうという企画から久しぶりに、
ギルドによるレクチャー・シリーズに行って参りました。
今日は、”Il Trovatore: The Singers' Opera"と題し、
来週にシーズン・プレミアを迎える新演出の『イル・トロヴァトーレ』から、
キャストのマルセロ・アルヴァレス、ソンドラ・ラドヴァノフスキー、
ドローラ・ザジックの3人をゲストに招いての座談会。

会場はオペラハウスで、8時からは、今日の夜の公演『エフゲニ・オネーギン』が始まってしまうので、
セットの邪魔にならないようオケ・ピットを閉じ、
その上に臨時のゲスト用ひな壇が作られました。
マルセロが遅刻気味なのか、なかなか始まらない。
舞台の上では、オネーギンのセットの床にモップをかけるお兄さんの姿。
どれほど若くて見目麗しいお兄さんであっても、彼のお尻とモップだけ見ているのには
限度というものがあるわ!特に今日は、このレクチャーのあとに、
カーネギー・ホールに行って、ボストン響のコンサートにも行かなきゃならないんだから!
とやきもきしていると、いよいよゲストの三人と、司会を務めるメアリ・ジョ・ヒース
(ラジオ放送などのメディア関連のスーパーバイズもしている女性)、
そしてマルセロの通訳の女性が登場。

”夜の公演があるので、7時までには必ず終えなければなりません。”という
注釈があって、えー、遅刻してきたのはそっちの方でしょうが!と思わされましたが、
結果から言うと、その日はこのレクチャーの前にリハーサルもあって、
きっと三人ともくたくただっただろうに、次々と面白い話が飛び出し、内容はてんこ盛り。
メモをとるような雰囲気ではなかったので、頭で内容を覚えなければならなかったこともあり、
全てをここに書く事は不可能ですが、興味深かった部分を中心にまとめてみたいと思います。

まず、三人のキャリアについて、特にメトでのそれを中心にした紹介がありました。
アメリカ人ザジックとラドヴァノフスキー、特にザジックについては、
ヴェルディ作品での登場回数がものすごい数にのぼっています。
ちなみに、ザジックがメトで登場した回数が一番多い役は、『アイーダ』のアムネリス。
『トロヴァトーレ』については、二人とも、メトで前二回の大不評だった演出も経験しているそうです。
ちなみに、それは1987年にプレミアを迎えたメラーノ演出のものと、
2000年にプレミアを迎えたグラハム・ヴィックの演出のことを指しており、特に後者に関しては、
ヴォルピ前支配人が自ら自著で”私(が支配人時代)の最大の失敗である”と形容している代物です。
そのヴィックの演出のプレミアを私も鑑賞したことは以前にもこのブログのどこかで書きましたが
(ちなみに、マンリーコがニール・シコフ、レオノーラがマリナ・メチェリアコヴァ、
ルーナ伯爵がロベルト・フロンターリ、そしてアズチェーナはもちろんザジックという布陣でした。)
この”月光仮面のトロヴァトーレ”(マンリーコが障子紙のようなものでできた
月をけり破って飛び出してきたり、階段が月の形になっていたり、、)には、
メトで先にも後にも経験したことがないほどの野次と怒号が観客からとびかいました。

今回のメトの演出はデヴィッド・マクヴィカー。
LOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)とSFO(サン・フランシスコ・オペラ)との共同作品で、
シカゴでの二年前の公演には、ザジック、ラドヴァノフスキーの二人が揃って出演したようです。

一方で、マルセロ・アルヴァレスがマンリーコ役に初挑戦したのは、
イタリアのパルマで、これには、アルヴァレス自身も、”クレージーでしょ?”と言ってました。
パルマの観客というのは、『トロヴァトーレ』の作曲家であるヴェルディが生まれたブッセートに最も近い
メジャーな歌劇場であるため、ヴェルディの作品の演奏に関しては、
”自分たちが一番良く知っていると思いこんでいるからね。”というのがアルヴァレスの弁です。
そんな場所で、初マンリーコに挑戦するとは気違い沙汰、というわけです。

アルヴァレスは、アルゼンチン出身ですが、最初の短い英語の挨拶以外、
すべてイタリア語で回答し、しかも、テンションの高い、大きなだみ声で(歌声とは裏腹に、
普段はハスキー目の親父臭い声です。)、
通訳が全部訳し終わらないうちに次の文章を畳み掛けてくるので、
回答の英語訳の後半部分が聞こえないことがしばしば。
しまいには通訳の女性が、”もう!!あなたは、いつもそうやって訳し終わらないうちに
話し始めるんだからー!!”と笑いながら、半ギレする一幕もありました。
それでも手綱を緩めるどころか、ますますフル回転で猛烈にまくしたてるアルヴァレスなのでした。

とそういうわけで、英語訳がきちんと聞こえた部分と、
イタリア語で拾えた単語だけ繋ぎ合わせてみるに、以下のようなことを彼は語っていました。

彼が考えるに、マンリーコというのは、決して英雄的な人物ではない。
彼はたった17歳という若さであるし、しばしばこの作品の中でヒロイックな表現として
とられることの多いマンリーコの歌唱部分も、
実は本人の恐れ、とか、不安を表現しているのではないか?と考えながら演じている、とのことでした。
最後の、レクチャー参加者からの、”自分がこの作品で演じる役について、
誰かお手本とした歌手、影響を受けた歌手はいるか?”という質問に、
アルヴァレスは、”ユッシ・ビョルリンク”と答えており、
ビョルリンクの、若々しく、感受性豊かなマンリーコ役の解釈を聴いて、
これだ!これなら自分もこの役を歌える!と思ったそうです。

このオペラで一番好きな場面は?と、メアリが尋ねると、
アズチェーナとからむ部分、全部!と答えていました。

ラドヴァノフスキーは、この言葉に恋人であるレオノーラとしての立場がないわ!
というような泣き顔の表情を作ったあとで、
同じ質問に、”(ルーナ役の)ホロストフスキーとのリハはそれはもう大変(逆説的な意味で)!
彼と体を密着させるところなんて、やんなっちゃう!(これも、逆説的な意味で、
本当は嬉しかったし、どきどきしたわ!の意。)”


(そのラドヴァノフスキーとホロストフスキーの二人。リハーサルより。)

一方のザジックは同じ質問に、”公演が終わるときかな?”と冗談を飛ばした後、
マンリーコとのシーンが大事であることはもちろんだけれども、
この作品に流れる通奏低音と言えるものは、”アズチェーナの母の呪い”ではないか、と語っています。

この母の呪いがまるで蛇のようにこの作品を通して、マンリーコ、ルーナ伯爵、
アズチェーナの間を縫っている、と。
この作品は、フロイトの研究も、精神分裂病(今は統合失調症と呼ばれているようです。)
という概念も存在しないころに初演されたこともあって、
観客から、ずっと非常に奇異な物語、とレッテルを貼られ続けたまま今に至りますが、
実はそんなに複雑な物語ではないと思う、というのが彼女の弁です。
アズチェーナが、母親のための復讐(それを母の呪いと言ってもよい)にかりたてられていることに、
統合失調症が重なった、というのが彼女の解釈で、
とにかく、アズチェーナにとっては、ルーナの家系への復讐を遂げること、
これが最も大切な自己存在の理由にもなっています。
彼女にとって、マンリーコではなく、彼女の亡き母親こそ、大きい存在なのです。
だから、極端な話、ルーナ伯爵が死のうと、マンリーコが死のうと、
どちらでもよい。ルーナ一族に復讐が出来る限り。
(オペラの最後にアズチェーナが、マンリーコはルーナ伯爵の兄弟だ!
復讐は成し遂げられた!と叫ぶことを思いだしてください。)
最初はマンリーコにルーナを殺させた方が事が運びやすい、と思っていた彼女ですが、
最後には逆にルーナにマンリーコを殺させるように仕向けていったのではないか、というのです。

また、マンリーコへの愛情深い母親の顔を見せたかと思うと、
妄想、幻覚に囚われて、矛盾したことを口走るのは分裂症の一つの典型的パターンです。
というわけで、この役は分裂したことを語る意味不明な役柄なのではなく、
その分裂した思考と言動の中に、きちんとした理由と意味がある役だ、と、
ザジックは語っていました。

これには、メアリも、
”第三の赤ちゃん説(取り違えのあった二人の赤ん坊以外に、
もう一人別の赤ん坊がいるのでは?とする説だと思われます。)にも
なるほど、と思ったけれど、あなたの解釈も負けてないわね。”と感嘆。

ザジックは、続けて、台本を読めば、これらのことがきちんと辻褄が合うように書かれており、
演出家は、きちんと台本を読むべきだ!と力説、
ラドヴァノフスキーやアルヴァレスも激しく同意していました。

特に、この『トロヴァトーレ』のような作品では、台本の読みが浅いままに、
演出で色々なことをやろうとすると、それこそアズチェーナの例を出していうなら、
長い爪をし、髪がくちゃくちゃになったおどろおどろしいジプシー女、というような、
カリカチュアに陥り、作品全体が漫画のようになってしまう、とザジックは言います。

彼女は、このマクヴィカーの演出の最大の優れた点は、彼がきちんと台本を読み、
消化していることだ、と語り、こういうことをきちんとやってくれる演出家は実に少ない、
と、強調していました。
また、ラドヴァノフスキーは、セットを回転式にして、舞台の転換をスピーディーにしたことで、
観客側にも演じる側にも、だれる暇を与えないような演出になっていることも高く評価しています。
(このおかげもあり、今回の演出では、インターミッションは一回だけだそうです。)

というわけで、ザジックは、この『トロヴァトーレ』という作品の、真の主人公は、
アズチェーナの母親だと思って演じている、と言っていました。
”では、なぜ、マンリーコをあらわすトロヴァトーレ(吟遊詩人の意)
という言葉がタイトルになったんでしょうね?”とメアリが食い下がると、
ラドヴァノフスキーやアルヴァレスも、それは、マンリーコが、
アズチェーナ、ルーナ伯爵、レオノーラという違った鎖を結びつける役割を果たしているからだ、といいます。

ラドヴァノフスキーは、特にアズチェーナと自分(レオノーラ)が対面するシーンは、
最後の方に少しあるだけで、それまで二人は一切顔をあわせないので、
それはまるで、レオノーラとマンリーコ(注:とルーナもここに入るのでしょうが)の物語と、
マンリーコとアズチェーナの物語という二つの別の物語が作品の中で同時進行しているように思えるくらいだ、
と言っています。

ザジックも、アズチェーナとレオノーラは全く陰陽のような関係にあり、
レオノーラがマンリーコを成長させていく存在であるのに対し、
アズチェーナは母親のための復讐を果たすためもあり、
自分のもとにマンリーコを引きとめよう、変化させないようにしようとする存在、と説明していました。


(リハーサルの様子。中央はルーナ伯爵を演じるホロストフスキー。)

ザジックはどちらかというと、のんびりした人かと思っていたのですが、
意外にも(すみません!)非常に論理的で明晰な人であることを実感。
メアリが、”トロヴァトーレをはじめとする、一部のヴェルディの作品について、
ステロイドを摂取したベル・カント”と評する人がいるのについてどう思うか?という質問に、
ラドヴァノフスキーやアルヴァレスが、”ベル・カントというのは歌唱の基本であって、
それはどんな作品でも適用されるべきものであり、その意味ではヴェリズモ作品でさえ、
ベルカント的にアプローチすべきだと私は思っています!”と、
とんでもない!という感じで即答していたのに比べると、ザジックは、
”まず、ベル・カントという概念には、歌唱法としてのそれと、作品としてのそれがあるので、
分けて考えなければいけません。”
”作品としてみれば、確かにヴェルディはドニゼッティやベッリーニの作品の延長線上にありながらも、
それまで特徴的であった優美で息の長いレガートといった特徴を越え、
ドラマ的激しさ、ある種の男性性を持ち込んだ、という点で、
ある意味、そのステロイドを摂取したベル・カントという表現は正しい部分もあると思います。”
と、いう風に、すでに別のゲストが話したこととは重複しないよう気を配りつつ、
しかし、かつ参加者に誤解のないような論理的な話し方をするのが非常に印象的でした。

そんな彼女の人柄は、すでに先の別の質問に対する彼女の答えの中で、
演出についての言及があったにもかかわらず、
メアリが他の二人のゲストに演出に関して質問したその流れで、
”ドローラ、演出について何かありますか?”という質問を再度放った瞬間、
”もう演出のことは話したじゃないの。”と切り返していた点にもしのばれます。
聞いたことは一度で消化する、同じことで時間を無駄にしない。素晴らしい。
ちなみに彼女は話し声も野太いメゾ系。
ああ、これはすごい歌声が出そうだわ、と話し声からですらわかるようなタイプのそれです。

さらに彼女の話は指揮者のことにまで及び、
ヴェルディの作品の指揮で陥りやすい罠は、テンポをゆっくりとりすぎて、
ドラマが死んでしまうこと、といい、
実際にんぱぱぱ、んぱぱぱ、とテンポをとって歌いながら、
これくらいならいいけれど、これだと遅すぎね、と実演。
メトで指揮を担当する予定のノセダについて、テンポを生かしているか、殺しているかについての
言及はありませんでしたが、今日のような思いきったことをぽんぽん言えるのも、
彼女が長年メトで歌ってきて、実績と評価を勝ち取っているからだといえるでしょう。

参加者からの質問コーナーで出た、
”ドローラに、仮面舞踏会のウルリカとの比較をお願いします”というリクエストには、
”そうね。二人ともジプシーでしょ。占いなんかをしたりすると思うけど、
でも、それ以外は何の共通点もないんじゃないかしら。”と一蹴する様子もさすがです。

先にアルヴァレスのところで、
”自分がこの作品で演じる役について、誰かお手本とした歌手、影響を受けた歌手はいるか?”
という質問が出たという話をしましたが、
ラドヴァノフスキーの答えは”マリア・カラス”。
私も彼女が歌うこの役は大好きです。
そして、ザジックの答えは、”フェードラ・バルビエーリとエべ・スティニャーニ。
この二人は、役に独自の面白いものを持ち込んでいると思う。”ということでした。
(もう一人名前が出たのですが、聞いたことがない名前ゆえ、忘れてしまいました。)

面白かった。もっと話を聞いていたかったです。

The Metropolitan Opera Guild Lectures and Community Program
Guests: Marcelo Alvarez, Sondra Radvanovsky, Dolora Zajick
Host: Mary Jo Heath
Lecture held at Metropolitan Opera House Auditorium

最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
変なところに反応 (娑羅)
2009-02-15 16:36:51
ソンドラねえさんの、

>ホロストフスキーとのリハはそれはもう大変(逆説的な意味で)!
彼と体を密着させるところなんて、やんなっちゃう!(これも、逆説的な意味で、本当は嬉しかったし、どきどきしたわ!の意。)”

このセリフに過剰に反応いたしました(笑)
モスクワでホロストフスキーと一緒にやったコンサートでも(トロヴァトーレの二重唱を歌いました)、ねえさん嬉しそうだったもーん。
そういえば、これ、本当はゲオルギューが歌う予定のコンサートだったんですよね・・・。

ねえさんは、これからMET、ROH、SFOと、約半年に渡ってトロヴァトーレでホロストフスキーと共演。
仲良くないとやっていけないでしょうね
返信する
マクヴィカー (DHファン)
2009-02-15 18:20:23
レクチャーの要約ありがとうございます。
数年前に大野和士さんがモネ劇場を率いて上演した「ドン・ジョヴァンニ」もマクヴィカー演出でした。キーンリサイドの素晴らしい演技もあり、それはそれは面白い舞台でなぜこんなに面白いのが映像として残らないのかと大変残念でした。
大野さんが「マクヴィカーは本当に天才で、台本をしっかりと読んでいるのはもちろん、音楽も歌詞もすべて暗記している」とおっしゃってましたが、そのために素晴らしい演出が可能なんですね。

先日ロイヤルオペラの彼の演出の「フィガロの結婚」の映画上映を見てきました。あのちょっとこんがらがってしまう筋をとてもわかり易く演出して、何の予備知識がない人が見てもわかるなぁと感心しました。DVDを買わないつもりで映画を見に行ったのに、あまりに面白いので、注文してしまいました。

今回のトロヴァトーレ、本当に楽しみですね。
チャッピーさんもいらっしゃるということですし、他に何人かの方がいらっしゃるので、こちらでまた盛り上がるでしょうね。
楽しみにしています。

返信する
勉強になります。 (ゆみゆみ)
2009-02-15 20:33:27
娑羅様と同じところに反応し、私だけでなかったと一安心。私にとり、ホロ様に触れる人は、皆敵でございます。
ザジックの解釈に大変おもしろく、これがどの様に舞台で表現されるのか興味津々。
又こんな凄い内容を記憶されているマドカキップさんの頭にも感嘆いたします。また、
今回の演出家が昨年見てきた「フィガロ」の演出家と知り、益々楽しみになりました。
時代感が保たれていて、少しお洒落で、わかりやすい舞台でしたから。
今から興奮状態です
返信する
アズチェーナというキャラクター (Boni)
2009-02-16 11:14:40
今回のエントリー、とても興味深く拝読いたしました。と申しますのは、アズチェーナという登場人物について、私も同じような印象を抱いていたからです。

確かにアズチェーナの振る舞いには、あちこちに精神疾患の兆候が現れています。
現実に対する限定された認識能力、あるいは一種無関心ともいえる態度。マンリーコとの会話に見られるちぐはぐさ、唐突に噴出するおどろおどろしいモノローグは、精神分裂病患者の症状とされる、対話という高度な知的作業を行う能力の減退と、それに代わって現れる、断片化された思考の表出としての独白、といった特徴に対応するものではないかと思われるのです。

また、マンリーコに対する「愛情深い母親の顔」と、復讐の為には彼を犠牲にすることも厭わない態度は相矛盾しており、健全な精神の裡にあっては、何らかの解決なしに共存することが不可能であるにもかかわらず、彼女に於いては、その二つの態度が最後まで、相互に無関係に存続しています。最後の場面で、マンリーコを救おうと「待って!私の言うことを聞いて」とルーナ伯爵に訴えたかと思うと、次の瞬間彼の処刑を見て、「復讐は成し遂げられた」と叫ぶ様子にも、それは表れています。
そして、彼女を激しく駆り立て「存在理由」にまでなってしまった復讐の強迫観念。彼女はそれを自分自身の欲求とは認識せず、他者(母親)から強いられたものと考えているように思われます。そのことが、前述した相矛盾するふたつの態度の共存を可能にしているのではないでしょうか。「復讐は成し遂げられた!」という最後の言葉は、願いが成就した勝利の叫びとは程遠いものに感じられます。

興行上の要請(場合によっては単なるご都合主義)に大きく左右されるオペラの登場人物について、こういった分析をすることが妥当であるかどうかは判然としませんが、少なくともアズチェーナの人物像に対して筋の通った解釈をしようとすれば、台本作家、あるいはヴェルディ自身が、この特異なキャラクターを創造するにあたって、ルチアやアミーナのようなメロドラマ的「狂乱」ではなく、病としての狂気、すなわち精神疾患を考えていたと想像することは決して不自然なことではないと思います。

それにしても、質問に対するザジックの答えは明快そのものですね。ウルリカとの比較についての素っ気無い回答は愉快です。確かにストーリー全体に対する重要性の点では、アズチェーナとは比べものになりませんからね。
返信する
そんな方のために/こういうのをHDで/ラドヴァノフスキー危うし/驚嘆!! (Madokakip)
2009-02-17 05:57:00
頂いた順に参ります。



 娑羅さん、

ふふふ!
ホロストフスキーに激烈な反応を示された娑羅さんのような方のために、
NYタイムズに掲載された、リハからの写真を追加で入れました。
この記者も同じく、ホロストフスキーに目を奪われたか、
マンリーコのアルヴァレスの写真は一枚もないのに、
彼の写真が二枚ですよ、二枚!

ソンドラ姉さんとホロストフスキー、
そうやって長い間パートナーシップを組むことで生まれてくるメリットもあるでしょうから、
だれさえしなければ、とってもいいことだと思いますよね。
ソンドラ姉さんも、地がかなりハイパーでしたよ。
圧倒されているホロストフスキーが目に浮かぶようです。

 DHファンさん、

いいえ、いいえ。
一時間弱があっという間に経ってしまったように感じるほど、
私にとっても面白い講演でした。

あのROHの『ファウスト』もマクヴィカーでしたよね。
私は、『ファウスト』という作品がやや苦手で、
生で見ると、退屈な思いをすることがままあるのですが、
あの演出はとても楽しめました。
下手に高尚な話にせず、俗っぽく処理したのが、
逆にすごく効果的だと思いました。

モーツァルト作品も上手く演出する手腕の持ち主ということで、
期待が高まりますし、
今回のトロヴァトーレはどんな仕上がりになっているのか、
本当に本当に楽しみです。
一方で、これがなぜHDに含まれなかったのか、
すごく疑問ですね。

はい、すでに存じ上げている範囲でも、
このブログを読んでくださっている方が数人
ご覧にいらっしゃいますので、皆様のご感想が私も今から楽しみです。

 ゆみゆみさん、

ははは、ラドヴァノフスキー危うし!
ルーナとのシーンでは、ゆみゆみさんが放った吹き矢に当たって舞台上で倒れるのではないかと、心配です。

『フィガロ』の演出は人気ですね!

今回、この座談会を聞いて、何より、
キャストの間で、きちんと役や物語の解釈についての
コンセンサスのようなものがとれているのが、
すごくいいと思いました。
これも、マクヴィカーがきちんとキャストに
自分の演出のビジョンを伝えれているからかもしれないですね。
これなら、いい舞台になる可能性が高そうです。
いよいよ、今週が鑑賞日!楽しみです!!!

 Boniさん、

ちょっと、Boniさん、すごすぎます!!!!
恥ずかしながら告白しますと、
私、学生時代は実は心理学専攻でして、
いやほど精神分裂病の型やらを叩き込まれたはずなのに、
アズチェーナの症例を見破ることが出来ませんでした、、
結局心理学とは違う分野にすすむことになったのは、
世のため、人のために、よかったのかも知れませんね。

しかも、当時は精神分裂病という言葉が一般的だったのに、
今や、統合失調症なる言葉がそれにとって代わっているというのも、
今回のこのエントリーを書くにあたって知り、
ショックを受けているところです。

それにしても、そうして考えてみると、
辻褄が合うことばかりで、アズチェーナが
精神疾患を抱えていたとは、
これまでこの『トロヴァトーレ』という作品を鑑賞するたびに、
暗闇と疑問符の中に放り込まれることが多かった私には
稲妻のようなショッキングな発想の転換でした。
(あまりに複雑に思えて、ある時点から、
リブレットを理解するのを破棄して、音楽だけ
楽しむようになったほどです。)

私の場合は、レクチャーを通して受動的に
この解釈を知ったわけですが、
作品の中から自力でそれを感じ取られたBoniさん、
私は感嘆しております!

この解釈をもとに公演を見ると、
また新たな地平が開けそうですし、
さらには歌手に求めるものもこれまでとは変わってきそうで
(特にアズチェーナ)、
今から本当に観るのが楽しみになってきました。
返信する
Unknown (娑羅)
2009-02-17 14:14:33
写真、ありがとうございます!
ふふふ、実はこの記事、私も見つけていました
しかーし、英語がダメな私は、ほとんど写真しか見ておらず
あ・・確かにアルヴァレスの写真がない!
タイトルロールなのに。
主要キャスト4人の中では、一番初めにカーテンコールに現れるルーナ伯爵の写真が2枚とは、これはどういうこと?

今日はラジオ放送でしたが、4幕2場しか聴けず
声量では他の3人に負けておりましたが、無事に出演してくれただけで嬉しいです。
返信する
げげっ! (Boni)
2009-02-18 09:26:45
Madokakipさんは心理学を専攻されたのですか!
そうとは知らず、はぁ、、、
調子に乗って知ったようなことを書き散らかした挙句が、専門に学ばれた方に対して、偉そうな講釈を垂れていたとは。
穴があったら入りたいような気分になってきました。
あぁぁぁ、ご勘弁をぉぉぉ、、、
返信する
ちょっとレトロな/いえいえ、感謝しているのです! (Madokakip)
2009-02-19 06:24:19
頂いた順です。

 娑羅さん、

私もラジオで聴きました!
全キャスト、無事出場でしたね。
意外にも(と言ったら叱られる?!)アルヴァレスが一番良かったように私は思いました。
最後の音延ばしは、下品だ!という人もいるかもしれませんが、
私はあれはあれでエキサイティングでとっても良かったと思いました。
ソンドラ姉さんはオペラハウスが崩れ落ちるかというくらい
すごい声量でしたね。
ちょっと往年の公演のような、
多少好き勝手に歌うけど、
お客さんには喜んでもらう!という気合満点の
サービス精神いっぱいな公演のように思いました。
おかげでオケと歌手のタイミングが合わなくて、
脱線列車になりかけていたところもありましたが、
こういうのはこういうので、楽しくていいと思いました。

 Boniさん、

>Madokakipさんは心理学を専攻されたのですか

そうなんですよー。
アズチェーナの精神構造を見破れなかったと知ったら、
教授が泣きますね。
今考えたら、私のいたゼミの発表会では、
ワーグナーの人隣りや作品の分析をテーマにしている人とかもいて、
すっごく面白かったんですよ。
私も、オペラにおける狂気をテーマに、
アズチェーナやルチア等を題材に研究発表すればよかった!と、
今頃後悔です。

>調子に乗って知ったようなことを書き散らかした挙句

えー!全然です!!
むしろ、書ききれなかった(どころか、
ザジックすらすべてはレクチャーで語りきれなかった)
詳しい点まで説明していただいて、
感謝しているくらいです。
書かれていらっしゃったこと、どれも、
”そうだ!そうだ!”と、頷きながら読ませて頂きました。

それに、ちょろりと学校で勉強しただけの人間よりも、
ずっと深い理解をされている方は、
Boniさんを含め、たくさんいらっしゃると思います。

しかし、どの学問もそうですが、
心理学もまだまだ新たな発見や物事の再定義が
行われ続けている学問だなあ、と実感しました。

また、興味深い分析等、ぜひコメントで入れていただけると嬉しいです
返信する

コメントを投稿