白瀬日本南極探検隊 100周年記念プロジェクト
早稲田大学校友会創立125周年記念
『南極100年展』
白瀬日本南極探検隊が見た100年前の南極
開催場所がら、大隈重信が支えた歴史的偉業、とも。
環境フォトジャーナリスト藤原幸一が撮る今の南極
会場 早稲田大学26号館「大隈記念タワー」 10階 125記念室
見てきました。よかったなあ。-語り継げ 白瀬の偉業 夢☆ロマン- この謳い文句どうり、目標に向かって突き進む彼の行動力・精神力に、あらためて感銘したのでありました。実写フィルムにも釘付け。ただし、金銭面での苦労、隊員同士の軋轢、仲間割れ等での苦労が並大抵のものでなかった事を知ると、単純に感激ばかりしていられない。
〇白瀬矗(しらせ のぶ) 1861(文久1)年 - 1946(昭和21)年 陸軍中尉。探検家。
秋田県の金浦村(現・にかほ市)出身。浄蓮寺住職の長男として生まれる。幼名、知数。
1910(明治43)年 11月29日、南極探検船「開南丸」(204トン)で東京芝浦を出港。
1911(明治44)年 南極に上陸できず、シドニーでの待機と再準備。11月、南極に向け出発。
1912(明治45)年 1月28日、南極に日章旗を掲げ、その地を大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)と命名する。
穴八幡宮 右手に入る。
26号館 大隈記念タワー
白瀬矗といえば、郡司成忠(しげただ)(海軍大尉・幸田兄弟の次男)との関係。同時代の探検家同士、これは厳しいものがあり、ある意味で切ない。南極探検の布石となった千島探検。千島報效義会(ほうこうぎかい)。第二報效丸が開南丸として誕生するいきさつ。
今回の記念展のパンフレット、それと白瀬南極探検隊記念館の「南極に挑んだ日本の船」はおおいに参考になりました。
余談。
うん十年前の苦い思い出、もういいだろうと早稲田の学内に足をふみいれました。白瀬矗の名に惹かれて。すこし前、「船の科学館」での企画展を見ていれば、ここに来ることはなっかただろうな。
あまりに綺麗・可憐だったので、こちらも。ついつい(画像拡大します)となる。
ブログ公開の順が逆になりましたが、このあと神田川沿いの桜鑑賞だったんですよ。しかも文京区の関口、神田川沿いは生涯、初訪問ときたもんだ。いい所と思っていたが、うん、やはりいい所だ。
早稲田大学校友会創立125周年記念
『南極100年展』
白瀬日本南極探検隊が見た100年前の南極
開催場所がら、大隈重信が支えた歴史的偉業、とも。
環境フォトジャーナリスト藤原幸一が撮る今の南極
会場 早稲田大学26号館「大隈記念タワー」 10階 125記念室
見てきました。よかったなあ。-語り継げ 白瀬の偉業 夢☆ロマン- この謳い文句どうり、目標に向かって突き進む彼の行動力・精神力に、あらためて感銘したのでありました。実写フィルムにも釘付け。ただし、金銭面での苦労、隊員同士の軋轢、仲間割れ等での苦労が並大抵のものでなかった事を知ると、単純に感激ばかりしていられない。
〇白瀬矗(しらせ のぶ) 1861(文久1)年 - 1946(昭和21)年 陸軍中尉。探検家。
秋田県の金浦村(現・にかほ市)出身。浄蓮寺住職の長男として生まれる。幼名、知数。
1910(明治43)年 11月29日、南極探検船「開南丸」(204トン)で東京芝浦を出港。
1911(明治44)年 南極に上陸できず、シドニーでの待機と再準備。11月、南極に向け出発。
1912(明治45)年 1月28日、南極に日章旗を掲げ、その地を大和雪原(やまとゆきはら・やまとせつげん)と命名する。
穴八幡宮 右手に入る。
26号館 大隈記念タワー
白瀬矗といえば、郡司成忠(しげただ)(海軍大尉・幸田兄弟の次男)との関係。同時代の探検家同士、これは厳しいものがあり、ある意味で切ない。南極探検の布石となった千島探検。千島報效義会(ほうこうぎかい)。第二報效丸が開南丸として誕生するいきさつ。
今回の記念展のパンフレット、それと白瀬南極探検隊記念館の「南極に挑んだ日本の船」はおおいに参考になりました。
余談。
うん十年前の苦い思い出、もういいだろうと早稲田の学内に足をふみいれました。白瀬矗の名に惹かれて。すこし前、「船の科学館」での企画展を見ていれば、ここに来ることはなっかただろうな。
あまりに綺麗・可憐だったので、こちらも。ついつい(画像拡大します)となる。
ブログ公開の順が逆になりましたが、このあと神田川沿いの桜鑑賞だったんですよ。しかも文京区の関口、神田川沿いは生涯、初訪問ときたもんだ。いい所と思っていたが、うん、やはりいい所だ。