かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

『韃靼の馬』 振り返り・その2

2011-01-26 | 韃靼の馬
2010年1月24日の感想 -回想-です。
日付けの入力ミスではなくて、1年前の話ですよ。

2. 『韃靼の馬』 ― なぜ、この題名

なぜ『韃靼の馬』なのだろう。
- 朝鮮通信使 - に反応して、おもわずこの連載を楽しみつつ読んでいる。
対馬の人たち、そして今展開している朝鮮での出来事に登場している人たち、みな気になる。
が、題名からして、後から知った連載開始時の作者のことばからして、まもなくか、もうすこし先
にか、朝鮮編はおわる。
舞台は中国・清、モンゴルへと移っていくのか。
もっと広がるのか。
 
 『韃靼の馬』 (44)  事件 27

李順之(イスンジ)は会寧(フェリョン)*の人である。と書かれている。
咸鏡道会寧(ハムギヨンドウ・フェリョン)は豆満江の上流にあり、辺境、国境の町である対岸の
三合(サンホー)は清の領土である。

会寧府が置かれ、国境交易・開市が毎年冬のあいだに開かれている。清からは、多くの人たちがやってくる。会寧窯も知られている。
開市の記述ののち、馬市(ばし)の話になる。
 
 『この市が終わると馬市になる。千数百頭の清馬が取引きされる。対価は朝鮮牛で、その交換
比率は、清馬一頭に朝鮮牛七~八頭だった。
 朝鮮馬は馬体が小さく、人が乗ったままで果樹の下を通れるほどで、「果下馬」と蔑称された。
軍馬として用をなさないことから、北辺境域に配備された軍官・騎兵は、自費をもって、馬市で清
馬を調達した。辺境隊だけでなく、中央からも買い付けにやってくる。朝鮮通信使は、たびたび
徳川将軍に馬を献上しているが、それらは会寧の馬市で調達されたものである。』
                                          ( 2009.12.16 掲載)

と、いうことで「清馬」が出てくるが、いまのところ、- なぜ、この題名 - とは思ってみても・・・
                                          (2010.01.24 感想)
 *会寧 現在の北朝鮮・咸鏡北道にある町。


3. 韃靼、とは

韃靼 = タタール  モンゴル系遊牧民の総称。
中国・明代  モンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、「韃靼」と呼んだ。
日本      明代の表記に従う。
女真(ジュシェン)(のちの満州人)
         モンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼んだ
中国・清代  満州人が立てた清は、韃靼の名称を「蒙古」に戻した
日本      江戸時代頃は、北アジアの諸民族を漠然と「韃靼」と呼んでいた。
         清を立てた満州人のことも韃靼人と呼んでいた。

 (参考  Wikipedia 「タタール」のうち「東アジアのタタール」)
  

4. 雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう) 略歴

1668年(寛文8年) 近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。
12歳の頃 京都で医学を学ぶ。
18歳の頃 江戸に出る。
       朱子学者・木下順庵の門下に入る。
       1685年(貞享2)頃。
1689年 (22)木下順庵の推薦で、対馬藩に仕官。
1692年 (25)対馬に赴任。
1698年 (31)朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐)を拝命。
1702年 (35)初めて釜山に渡る。
1703年から1705年 (36-38)釜山の倭館に滞在。
1711年(正徳1年) (44)徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴く。
             正使・趙泰億
1719年(享保4年) (52)徳川吉宗就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴く。
             正使・洪致中 製述官・申維翰( 『海遊録』の著者)
1720年 (53)朝鮮王・景王の即位を祝賀する使節団に参加して釜山に渡る。
1721年 (54)朝鮮方佐役を辞任。家督を長男の顕之允に譲る。
1729年 (62)勅使として釜山の倭館に赴く。
1734年 (67)対馬藩主の側用人に就任。
1755年(宝暦5年) 対馬厳原日吉の別邸で永眠。88歳。

 (参考  Wikipedia - 雨森芳洲 )



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。