かぶとん 江戸・東京の歴史散歩&池上本門寺

池上本門寺をベースに江戸の歴史・文化の学びと都内散策をしています。

日蓮のことば

2014-04-08 | その他

○ 虚空蔵菩薩に願を立て云く。日本第一の智者となし給へと云云。
 「善無畏三蔵鈔」 1270(文永7年)

○ 我等衆生も則釈迦如来の御舎利也。
 「戒体即身成仏義」 1241(仁治3年) 21

○ 我日本の柱とならむ。我日本の眼目とならむ。我日本の大船とならむ。
 『開目抄』 1271(文永9年)

○ 旅客来りて嘆いて曰く。近年より今日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)、遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。
○ 世、皆、正(しょう)に背き、人悉く悪に帰す。故に善神、国を捨て相去り、聖人、所を辞して還らず。
○ 蒼蠅、驥尾(きび)に附いて万里を渡り、碧蘿(へきら)、松頭に懸りて千尋を延ぶ。
○ 汝、早く信仰之寸心を改めて速に実乗之一善に帰せよ。
 『立正安国論』 1260(文応元年7月)

○ 我とはげみて菩提心を発(おこ)して、後世を願ふといへども、自ら思ひ出し十二時(とき)の間に一時二時こそははげみ候へ。是は思ひ出さぬにも御経をよみ、読ざるにも法華経を行ずるにて候か。
 「四恩鈔」 1261(弘長元年) 伊豆

○ 大海に衆流入る、されども大海は河の水を押し返す事ありや。
 「椎地四郎殿御書」 1261(弘長元年)

○ 謗法の者に向ては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんがためなり。
 『教機時国鈔』 1262(弘長2年) 伊豆

○ 我等衆生無始よりこのかた生死(しょうじ)海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性(もとこれりしょう)、妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事、あにかの仏にかわるべきや。
 「船守弥三郎許御書」

○ 夫れ仏道に入る根本は信をもって本(もと)とす。
○ 仏と申すは正直を本(もと)とす。
 「法華題目抄」 1266(文永3年1月) 於清澄寺
 日蓮母妙連尼、伯母、光日尼、領家の尼などの女性宛て。

○ 念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の所為(そい)、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説と云云。
  「十一通御書」(総称)の一通。その中の一節。
 「与建長寺道隆書」 1268(文永5年10月)

○ 少しも妻子眷族を憶ふことなかれ。権威を恐るゝことなかれ。今度(このたび)生死之縛を切て仏果を遂げしめ給へ。
 「弟子檀那中御書」書簡 1268(文永5年)

○ 月はかけてみち、しを(潮)はひ(干)てみつ事疑なし。此も罰あり必徳あるべし。
  下総・富木常忍への手紙。
 「土木殿御返事」書簡 相模依智 1271(文永8年)

○ 相州たつのくちこそ日蓮が命を捨たる処なれ。仏土におとる(劣)べしや。其故はすでに法華経の故なるがゆへなり。
 「四条金吾殿御消息」書簡 相模依智 1271(文永8年)

○ これより大海をわたりて佐渡の国に至らんと欲す。順風定まらざれば、その期を知らず。
 「寺泊御書」書簡 越後寺泊 1271(文永8年10月)
  富木常忍への手紙。寺泊で帰した富木常忍配下の者に託した。

○ 天もすて給へ、諸難にもあへ、身命を期(ご)とせん。
○ 日蓮なくば誰おか法華経の行者として仏語をたすけん。
○ 一切経の中に此寿量品ましまさずば「天に日月無く国に大王無く山河に珠無く」人に神(たましい)なからんがごとくしてあるべき。
○ 我無始よりこのかた悪王と生て、法華経の行者の衣食田畠等を奪とりせしことかずしらず。当世日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし。
○ 夫(それ)一切衆生の尊敬すべき者三あり。所謂(いわゆる)主・師・親これなり。
○ 龍女(りゅうにょ)が成仏此一人にはあらず、一切の女人の成仏をあらはす。
○ 一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。
 『開目抄』 1272(文永9年) 佐渡・塚原 人開顕の書


○ 日蓮弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思を成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱奉る処を、生死(しょうじ)一大事の血脈(けちみゃく)とは云也。
 「生死一大事血脈鈔」 1272(文永9年) 佐渡島内・最蓮房宛

○ 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。
○ 一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸さしめたまふ。
● 天晴地明 識法花者可得世法歟
● 不識一念三千者 仏起大慈悲 五字内裏此珠 令懸末代幼稚頸
 『観心本尊抄』 1273(文永10年4月) 佐渡・一谷(いちのさわ)
  正式名『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』 法開顕の書

○ 鳥と虫は鳴けどもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。
 「諸法実相鈔」 1273(文永10年) 佐渡島内・最蓮房宛

○ 極寒の時は厚き衣は用也。極熱の夏はなにかせん。涼風は夏の用也。冬はなにかせん。仏法も亦復是の如し。
 「如説修行鈔」(随身不離鈔) 1273(文永10年)

○ 日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出る日、ゆうべにいづる月ををがませ給。
 「国府尼御前御書」 1274(文永11年) 身延から佐渡の信徒へ

○ 相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。
○ 各各我弟子となのらん人々は一人もをくしをもはるべからず。をやををもひ、めこををもひ、所領をかへりみることなかれ。
○ 眼には止観・法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向かひ奉て諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に、年もかへりぬ。
○ 弓箭をとる者はをゝやけの大事にあひて所領をも給はり候をこそ。田畠をつくるとは申也。
 「種種御振舞御書」 1275(文永12年)頃

○ 夫(それ)仏法を学せん法は必ず先(ま)づ時をならふべし。
 『撰時鈔』 1275(建治元年6月) 法華仏教史

○ 命と申す物は一身第一の珍宝也。一日なりともこれを延ぶるならば千万両の金(こがね)にもすぎたり。  「可延定業御書」 1275(建治元年) 富木常忍妻宛て

○ 吹風、立つくもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立てみるなり。  「光日房御書」 1276(建治2年3月) 安房天津の信徒へ

○ ねごとの様に、心にもあらず、南無妙法蓮華経と申し初て候し程に唱る也。所詮よき事にや候らん、又悪事にや侍(はんべ)るらん、我もしらず、人もわきまへがたき歟(か)。  「妙密上人御消息」 1276(建治2年閏3月) 身延より鎌倉の外護者宛て

○ 日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。
● されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。
 『報恩抄』 1276(建治2年) 清澄山の法兄、浄顕・義城宛て

○ 日蓮は日月の御ためには、をそらくは大事の御かたきなり。
 「妙一女御返事」 1280(弘安3年)

○ 彼(かの)月氏(がつし)の霊鷲山は本朝此身延の嶺(みね)也。
 「南條兵衛七郎殿御返事」 1281(弘安4年)

○ いづくにて死候とも、はかをばみのぶさわにせさせ候べく候。
 「波木井殿御報」 1282(弘安5年9月) 南部実長宛て

○ 北には身延の嶽天をいただき、南には鷹取が嶽雲につづき……
天竺の霊山此処に来たれり、唐土の天台山まのあたりここに見る。我が身は釈迦仏にあらず天台大師にてはなけれども、昼夜に法華経をよみ朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり。天台山に異ならず。
 「松野殿女房御返事」 1279(弘安2年)



参考書
『仏典を知る 日蓮の世界』監修山折哲雄 佼成出版社
『日蓮 久遠のいのち』(別冊太陽 日本のこころ―206)
  監修 渡邉寶陽・中尾堯 平凡社


追記
上記は「日蓮検定」受検(3級・2級)の学習メモです。
結果は両級とも100点満点に数点足りぬ、というところでした。「日蓮検定」の運営には思うところがあるのですが、愚痴になりそうなのでやめときます。