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安倍さんちの事情 -その6・言語能力と封殺
このままいけば安倍晋三が26日、第90代首相に指名されるだろう。
諸外国からは、これまでの安倍の知名度の低さも手伝ってか、どんな人物か、さまざまなな観測がとびかっている。ただし、安倍がナショナリストだという見方は定着しているようである。
しかし、われわれ国民の側から安倍首相の誕生をいま一度を考え確認しないといけないのは、安倍の新しい政権は国民の審判を受けることなく発足するという事実である。百歩ゆずって考えても、審判を受けたといえるものは昨年の総選挙で示された自民党の選挙公約であろうから、これがどのように具体化されるかということになるのだろう。自民党の枠内で考えるならば、新政権はこれを守らなければならないということになる。いうまでもないが、公約がいずれも実現しないように私はのぞんでいる。
繰り返していえば、安倍の公約をわれわれ国民が信任したということではまったくない、ということである。その意味では安倍が問われるのは次期選挙だということだ。
そこで私は昨日、ポスト安倍について言及した。自民党内では、あれだけ総裁選にむけて-私などには党内翼賛体制ができるかのように映った-安倍になびいていったのだが、安倍新総裁が誕生したいま、すでにけん制があちこちで出てきていることをマスメディアが伝えている。これは26日に発表されるであろう閣僚の構成にたいするものであるとともに、今後の安倍の舵取りについてのけん制の意味もふくんでいるだろう。
だから、今後の安倍政権は、党内の各派閥-基本的には派閥は温存されていると私は考えているが-のつな引きの中にあって参院選にのぞむという方向が想定できる。参院選は1つのターニングポイントになる。
そのためにも安倍の素性をあらためてみておきたい。
こんな安倍の一面は、われわれ国民にとって危険な側面であると同時に、ある意味で政権の座から安倍を引き摺り下ろす可能性をも暗示するからである。 安倍がNHK番組かいざん問題に深く関与していたことは当ブログでものべた。その後の経過は、権力の力によって解明が妨げられていると考えざるをえないような事態にもあるが、あらためて整理しなおすと以下のようになる。
NHK番組改ざん事件とは、「従軍慰安婦」制度の責任追及をテーマに、NHKが2001年1月に放送したETVシリーズ「戦争をどう裁くか」の第2回「裁かれた戦時性暴力」の内容が放送直前に大幅に変更された問題だ。
「朝日」報道(01年1月12日付)によれば、番組放送前日の01年1月29日、当時、官房副長官だった安倍と「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表の中川が松尾武放送総局長らNHK幹部を議員会館などに呼び出し「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」「それができないならやめてしまえ」などと発言。NHKの幹部の一人は「圧力を感じた」とのべていた事件だ。安倍の言論封殺の姿勢をけっして軽視してはならない。
さらに、これもよく知られているように2002年、安倍は副官房長官時代に早稲田大学で講演している。その内容はあまねく報道された。
物議をかもしたのは「核兵器も大陸間弾道弾をもてると、岸首相が答弁している」という講演のくだりだ。だれもが驚いたし、おそらく自民党の当時の幹部は青ざめた(?)のではないだろうか。問題なのは、その後の安倍の対応である。週刊誌で報道されると、国会で「盗聴した」と答弁する、安倍の思想性だ。自らの発した言葉にたいする責任の問題ではなく、それを伝えたマスメディアにたいする理不尽で強硬な姿勢である。当然のことだけれど、安倍は週刊誌からの取り消し要求にも応じていない。
まだある。これは、安倍の言語能力を示す好例だろう。
作家・半藤一利が安倍の答弁について『毎日新聞』で語っている(9月7日)。
この安倍の答弁にみられる国語力については、『よこしま』というのは不正とか間違ったとかの意味だ。リーダーになるならもう少し国語力を磨け、という旨で加藤紘一・元幹事長が語っており、安倍はたしなめられている。
このブログではくりかえし安倍の精神性をみてきたが、以上の言論にまつわる3つの事例はいずれも安倍の幼児性ともいえる素性に起因するものだ。これはすなわち、命とりにもつながりかねない安倍の弱点ともいえる。 言語能力と封殺はまさに表裏のものだと考える。
諸外国からは、これまでの安倍の知名度の低さも手伝ってか、どんな人物か、さまざまなな観測がとびかっている。ただし、安倍がナショナリストだという見方は定着しているようである。
しかし、われわれ国民の側から安倍首相の誕生をいま一度を考え確認しないといけないのは、安倍の新しい政権は国民の審判を受けることなく発足するという事実である。百歩ゆずって考えても、審判を受けたといえるものは昨年の総選挙で示された自民党の選挙公約であろうから、これがどのように具体化されるかということになるのだろう。自民党の枠内で考えるならば、新政権はこれを守らなければならないということになる。いうまでもないが、公約がいずれも実現しないように私はのぞんでいる。
繰り返していえば、安倍の公約をわれわれ国民が信任したということではまったくない、ということである。その意味では安倍が問われるのは次期選挙だということだ。
そこで私は昨日、ポスト安倍について言及した。自民党内では、あれだけ総裁選にむけて-私などには党内翼賛体制ができるかのように映った-安倍になびいていったのだが、安倍新総裁が誕生したいま、すでにけん制があちこちで出てきていることをマスメディアが伝えている。これは26日に発表されるであろう閣僚の構成にたいするものであるとともに、今後の安倍の舵取りについてのけん制の意味もふくんでいるだろう。
だから、今後の安倍政権は、党内の各派閥-基本的には派閥は温存されていると私は考えているが-のつな引きの中にあって参院選にのぞむという方向が想定できる。参院選は1つのターニングポイントになる。
そのためにも安倍の素性をあらためてみておきたい。
こんな安倍の一面は、われわれ国民にとって危険な側面であると同時に、ある意味で政権の座から安倍を引き摺り下ろす可能性をも暗示するからである。 安倍がNHK番組かいざん問題に深く関与していたことは当ブログでものべた。その後の経過は、権力の力によって解明が妨げられていると考えざるをえないような事態にもあるが、あらためて整理しなおすと以下のようになる。
NHK番組改ざん事件とは、「従軍慰安婦」制度の責任追及をテーマに、NHKが2001年1月に放送したETVシリーズ「戦争をどう裁くか」の第2回「裁かれた戦時性暴力」の内容が放送直前に大幅に変更された問題だ。
「朝日」報道(01年1月12日付)によれば、番組放送前日の01年1月29日、当時、官房副長官だった安倍と「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表の中川が松尾武放送総局長らNHK幹部を議員会館などに呼び出し「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」「それができないならやめてしまえ」などと発言。NHKの幹部の一人は「圧力を感じた」とのべていた事件だ。安倍の言論封殺の姿勢をけっして軽視してはならない。
さらに、これもよく知られているように2002年、安倍は副官房長官時代に早稲田大学で講演している。その内容はあまねく報道された。
物議をかもしたのは「核兵器も大陸間弾道弾をもてると、岸首相が答弁している」という講演のくだりだ。だれもが驚いたし、おそらく自民党の当時の幹部は青ざめた(?)のではないだろうか。問題なのは、その後の安倍の対応である。週刊誌で報道されると、国会で「盗聴した」と答弁する、安倍の思想性だ。自らの発した言葉にたいする責任の問題ではなく、それを伝えたマスメディアにたいする理不尽で強硬な姿勢である。当然のことだけれど、安倍は週刊誌からの取り消し要求にも応じていない。
まだある。これは、安倍の言語能力を示す好例だろう。
作家・半藤一利が安倍の答弁について『毎日新聞』で語っている(9月7日)。
靖国神社参拝についても「外交、政治問題に発展させようというよこしまな人たちがいるのであれば、今宣言する必要はない」と発言されたそうだが、これでは靖国問題を外交テクニックとしてしか語っていない。 |
この安倍の答弁にみられる国語力については、『よこしま』というのは不正とか間違ったとかの意味だ。リーダーになるならもう少し国語力を磨け、という旨で加藤紘一・元幹事長が語っており、安倍はたしなめられている。
このブログではくりかえし安倍の精神性をみてきたが、以上の言論にまつわる3つの事例はいずれも安倍の幼児性ともいえる素性に起因するものだ。これはすなわち、命とりにもつながりかねない安倍の弱点ともいえる。 言語能力と封殺はまさに表裏のものだと考える。
高村薫が指摘する安倍の「あやうさ」
猜疑心という言葉は、たとえば「猜疑心が強い」というように、もちろん積極的意味では使われない。スターリンは、その執ってきた政治もあいまって猜疑心の塊の代名詞のようにいわれ、私もそのように受け取ってきた。
一方で、「疑う」という行為は、たとえば科学には不可欠だろう。そこから出発しないと、おそらく思考は始まらず、認識が発展することもまた望めない。科学とまではいわなくても、われわれが日常生活で認識を深めるためには、まず物事を疑ってみることが必要であるにちがいない。
この「疑う」ということについて、小説家・高村薫が考察している。それはまたしても、第90代首相に任命されるであろう安倍晋三の言説、主には『美しい国へ』にふれてである。
保守・革新にかかわらず、戦後政治の多くの矛盾と世界の激動を目の当たりにし、たくさんの懐疑を抱きながら大人になったはずだが、本著には一切の懐疑のあとがない。一人の青年として岸信介の満州時代を精査した形跡もなく、大臣秘書官として90年代に至る自民党凋落の原因を真剣に省みたふしもない。かくして祖父や父親の教えをあれもこれもそのまま純化して、きわめて強固な保守となった安倍晋三に、同世代の臭いがないのは無理もない。 |
高村は、時代と格闘してきた足跡もみえないため、「保守の臭い」すらないという。そして、「臭いも懐疑もない人間が権力を手にして『闘う』というのは、ほとんど『近づくな、キケン』のレベルだと同時代の鼻は言っている」と指摘する。
たしかに、事あるごとにたちどまり、懐疑し、育ってきた世代のなかで、他のものとはちがって育ってきた安倍が、権力を手にしたいま、この高村の指摘する危険性の前にわれわれはさらされているといえそうだ。しかし、『近づくな、キケン』だとつきはなしてはならないだろう。
これまでのエントリーで、香山リカを参照しながら私も「疑うことのない」安倍についてのべてきた。そこにあるのは、祖父や父親への一種のエディプス・コンプッレクスともいえるような精神性であった。それはまた、二項対立で物事を考え、そして自らの物差しにそぐわないものは排除するという危険性をもはらむ思考であった。
まさにこれは、安倍がほとんど自民党総裁に選出されるであろうと予測されるここ数日間の短い期間でさえ、われわれの前にいみじくも明らかになったといえる。安倍が、「不注意」にも、また高村が指摘するように「軽々に言い切る」という不用意な対応にもそれは象徴的に表れているのではないか。
疑わない危うさ。高村があらためて強調するこのことは、極論すれば日本の前途を左右する大きな問題だともいえると私は考えている。
付記;高村薫は安倍晋三の異質についてつぎのようにのべている。
同世代として一番大きい困惑は、たとえば「自由を担保するのは国家」だと軽々に言い切る安倍氏の感性かもしれない。国家からの自由と国家への自由。権利としての自由と、よき国民たる徳としての自由。国家と個人の関係をめぐる先人たちの省察を少しでも振り返るなら、本著のような単純な断定はできないはずだ。また、仮に『リヴァイアサン』を引用するなら、慎重にヒュームやバーク、J・S・ミルにも目配りしなければ落ち着かないというのが、同世代の一般的な政治の感覚だと思うが、政治家安倍晋三は違う。(『論座』10月号)
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