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フィクションの構造(改訂版)

2008年05月07日 | 物語愉楽論


http://www.websphinx.net/manken/labo/clmn/j_fiction.html

「漫研」というサイトを開設にするにあたって一番最初に書いたコラムです。フィクション…物語というものの、自分の基本的な分析分解の仕方をまず、提示しておこうと考えました。…先に言っておくと僕、10年前の自分にいろいろ突っ込んだり、論旨を修正したりするのはアリだと思うんだ?w…と言いながら、あまりここら辺の思考は変わっていないですね正直(汗)今も、僕はやっぱり、こういう形で物語を分解しているはずです。図面もそれほど違わないけど…「演出」と「世界観」の間に一個「物語」というピースがあった方がいいですね。「テーマ」を「演出」する事によって「物語」が完成し、その「物語」から「世界観」が投影されて行く。そんなイメージかな?と。また、自分の思考の再確認とネットへの提示の意味を込めて、表現などを付け足し調整したものを下記にリライトしました。

序文
『面白い』とは一体なんだろう?「人は生命を実感(逆説を含めた)したとき、悦びを感じる。つまり『物語』を『面白い』と感じることもそれに属するするものである」(この指摘を何かの本で読んだ事があるんですが、かなり正中を得ていると思っている)とは言うが、ではどんなときに生命を実感させられるのか?あるいは、同じ手法を取ったにもかかわらず『面白くなかった』りするのは何故か?
世の中には実に様々な作品の楽しみ方があって、それを何か一つの定義でくくるのは無理に思える。・・・無理に思えるが、そこを敢えて、ぼくなりの解釈を踏まえた上で『面白さ』についてのとりとめのない話をしていきたい。
以下に挙げる単語は、一つの物語の『面白さ』を語る上でおそらく欠かすことのできない言葉として、取り上げたものである。作品を批評するにあたって、互いのその単語に対する認識が違うと、その調節に大変な手間と時間のロスができてしまうので、なるだけ先に自分の認識を言葉にしておこう、という意図で作成した。

テーマ
物語の主旨、というか主目的。一般的にテーマと言われると“愛”とか“何かの警鐘”というような、俄に答えが出ないような…?あるいは根源的な何か…?というようなイメージをもたれる事が多い。“所謂深いテーマ”と言われるものでもあるが、そういった作品の方が“上”に見られやすい傾向はあると思う。
しかし、僕はこと「面白い」という観点において、それは必ずしも真ならない命題だと考える。(考えるからこそ「何か一つの定義にくくるのは無理に思える」と言うのだけど)同時にそれが何であれ任意の物語から“所謂深いテーマ”を多く学び取る事は観客の意志次第で全く可能な事ではある。
しかし、本件は物語の構造を分析するための整備なので「その物語がどういう意図を持っていたか?」を探り、分析するための言葉として扱う。「アクションいっぱいの作品にしたい」とか「こんなキャラクターを活躍させたい」とか、そんなものでも立派なテーマといえるし、たとえば「観客に一回でもプッと笑ってもらいたい」と考え、そして観客がプッと笑ったなら、その作品はテーマを完うしている事になる。そこに哲学は要らない。ただし、テーマを完うしている事と「面白い」かどうか?は別問題。
フィクションならばテーマだけで存在できるものではなく、必ず「テーマを体現したストーリ―」か「テーマを体現したキャラクター」(あるいはストーリ―そのもの、キャラクターそのものがテーマ)が必要となる。

ストーリーとキャラクター
ストーリーは物語の「はじめ」から「おわり」に到るまでの道筋。キャラクターは物語の登場人物。キャラクターなくしてストーリーは紡がれず、ストーリーなくしてキャラクターは顕われない。このニつは相克の関係にあり、この二つを、高い「面白さ」で結ぶ事が物語の完成度を上げて行く事になる。ストーリ―を特殊なものにした場合キャラクターはあらゆる意味で観客への「近さ」を持っていなければ、しばしば人に理解されぬ作品となる。あるいはキャラクターを特殊にした場合ストーリー展開によって与えられる情況を「常識的」なものにしないと、しばしばそのキャラがいかに特殊かという事が理解されない。ストーリ―とキャラクターの両方を共に「盛り上げる」ことに成功している作品は大変稀であり時に“名作”などと呼ばれる。

※この後、以前の文では大抵の場合『ストーリ―重視』の物語か『キャラクター重視』の物語となる。と結んでいるが、ここについては削除を明示したい。こういった分類ができる事は事実だと思うし分析の過程でそういう感想を持つ事もあると思うが、作品を分析するにあたって必ずしも必要な分類ではなく、むしろ無理にそれを規定しようとするのは危険があると考える。

物語をストーリーとキャラクターに分解する事は物語分析の基礎的な手法である。たとえば分離したストーリーに別のキャラクター(たとえば自分だったら?)を当てはめたり、分離したキャラクターに別のストーリーを与えて、その動作をイメージしたりするのは作品の理解を深め、後述する「世界観」の投影を輔けて行く。

演出
テーマを効率よく伝達する手法。または物語を「面白く」するための手段そのもの。本来両立の難しいストーリ―とキャラクターの両方を引き上げ、高い位置で融合させていく作業が「演出」である。上記の表現したいストーリーを表現するためにキャラクターをフルに使い倒す。表現したいキャラクターのためにストーリーをフルに使い倒す。といったアプローチが為される。演出がもたらす効果は大きく分けて「テンポ」「共感」「意外性」の三つの属性を持っている。
(1)テンポ  観客を物語に最後まで集中させるためのあるスイッチ。「テンポ」がよくて「つまらない」作品はまず存在しえない、それほど「面白さ」とは密接な関係にある。呼吸?心拍?いずれにせよ“優れた”作品には必要不可欠なものであるにもかかわらず、その操作は他の二つに比べると作者のセンスに頼るところがあまりに大きい。下記の「共感」と混同されそうだが「テンポ」はより観客の無意識下にもたらす効果で、対して「共感」や「意外性」は意識上に顕われる効果といったように理解して欲しい。
(2)共感  観客が物語内の出来事を、別の場ですでに体験していたことを感じること、あるいは発見すること。そこで観客はその元の体験に基づいた同じ反応、可笑しければ笑い、悲しければ泣く、といった感情の昂ぶりが起こり、そこに「生命の実感」を感じることになる。これは感情移入の対象を観客に用意し、その対象に文字通り「共感」させることによって作者の意図した感情へ誘導させる、という手段がとられる。
(3)意外性  観客に予想外の出来事を与えてそれによって感情を昂ぶらせる。人間は知恵を発達させることを「選択」し繁栄した動物で、その知恵の発達のために常に新たな情報・知識を必要としている。新たな情報の中で最も貴重かつ重要な情報は「意外」な情報であり、それはそのまま人間が(知恵の発達のため)潜在的に「意外性」を好み求める性質を持っていることを意味する。つまり人間は(生命の安全が完全に確保された状態なら間違いなく)「意外性」を感じることに悦びを見出す生き物なのである。ただし同時に人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないものであり、そういった作品は理解されず多くの場合「つまらない」「一人よがり」といった評価を受ける。

世界観
その物語のもつ一定のルール、たとえば先に、人間は一切の「共感」を伴わぬ「意外性」には対応できないと述べたが(→意外性の対象物でありながら直感的にか論理的にか、理解の内に収めてはじめて反応を起こせるようになる)その「意外性」を「意外性」のままに(ありていに言えば「非日常」を「日常」として)一定の法則を与えて存在させることによって、それに順応させ、果ては「共感」(この場合は理解と言う方が近い)を呼ぶ対象にすることもできる。これが投影された「世界観」のもつ大きな効用の一つといえる。
「テーマ」から「ストーリー」と「キャラクター」を創造しそれらを「演出」によって融合させる。その目的は「面白い物語」を創るためのものだが、二次的にというかその結果として生み落とされるもの(投影されるもの)が「世界観」である。「面白さ」を追求すると同時に生まれるのが「世界観」なのだから、「面白い物語」は必然的に優れた「世界観」を内包する。
一度、世界観を構築して観客の承認を得ると「意外性」に満ちた物語でありながら観客の「共感」を得て話を進めることが可能となる。その「共感」はさらなる「共感」呼ぶことも、さらなる「意外性」を呼ぶことも可能な「世界共感」とでも言うべき優れた「共感」である。余計な手続きも説明も全て省いて自由自在な展開、つまり「独特のテンポ」を楽しむことができる。物語作家は観客から「世界観」の承認を得るために日夜戦いつづけるのだ。

物語の分析
観客側からは物語を鑑賞する事によって得られた(投影された)「世界観」を元に(それは史観というか、その人がその物語を読み解くための視点になる)「物語」を「キャラクター」と「ストーリー」に分解し、それぞれに割り振られた「演出」にチェックをかけて行く。「演出」をチェックする過程で「演出意図」を読み取って行き、その「物語」における「テーマ」に到達する。「テーマ」に到達すると「世界観」(視点→視界)が拡がる。その拡げた「世界観」でさらに「キャラクター」と「ストーリー」と「演出」にチェックをかけ直す。これを延々繰り返して、その「物語」をしゃぶり尽くす。それが「娯楽のハイエナ」なのだ。


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