今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。




【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

【言い張り可能な世界(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/1d78cda9dd4bffd2aced1dfc281eafb1

【言い張り可能な世界(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/27376fb92115e5ca89dcbdd7166e6a26



(↑)上で「物語愉楽論」の足場というか「遊ぶ」場所の話として「言い張り可能な世界」について述べたんですが、その前振りに使った「ファクトの世界」の方で、いずみのさんにいろいろツッコミを受けまして…(汗)確かに説明を省いているというか、「ファクトの世界」の方は主体のつもりがなかったので、ちょっとたとえ話を並べて「これで感じとしては分かるよね?」的に突き放してしまっている所があるなと思いました。…で、「ファクトの世界」に関する僕の見解や補足も書いておこうかと思います。

先に「言い張り可能な世界」について補足を。このエントリーを書いた時に、ちょっと誤解を受けるかな?と思った事があって。この文章は「言い張り可能な世界」を主体に書いて、結論として「言い張り可能な世界」に留まる話をしているのですが、それは「言い張り可能な世界」が“良い世界”、“理想の世界”だからではないんですよね。いや、勿論、「物語を愉楽する」ために必要な世界だとは判断しています。しかし、何の文句もない世界だとしたら「言い張り可能な世界」なんて呼び方はしないんですよねw……だって「言い張り」ですよ!?(`・ω・´)
ここはズブズブの「相対視思考」を使うのに最適な場所とも書きましたし、最後に「言い張り可能な世界だからこそ言い張ってはいけない」と結んでいます。…でも多くの「面白い」を見つけるには……というか自分の「主観の世界」を拡げるためには、このカオスの世界をどう偶するか?という話に思えるんですよね。ここらへんの思考を説明してある程度、正当に思ってもらえるような文章を組むと、なんとな~~く「言い張り可能な世界」が“良い世界”のような印象を持たれる事もあると思うんですけど……。ま、“悪い世界”でもないんですけどw要するに「言い張り君ばかりが幅を利かせる世界」をあなたががどう思うかって事でいいと思うんですけどね。僕はあんまし良い印象を持っていませんw故に「言い張っちゃダメ」と言っています。

【 「言い張り可能な世界」についてのチャット】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0318.html

いずみのさんや、他の人とのやり取りはここに収めてあります。まあ、何度か交錯して繰り返しな部分もあるんですが「ファクトの世界」についての僕の感覚はここに述べています。
ちょっと気をつけて欲しいのは、現実世界=「ファクトの世界」ではないという所ですね。ここは、これから別に説明して行きますが、「ファクト(事実)」は確定要素という言い方をしてもいいかもしれません。人間は確定要素を増やす事によって文明社会を構成していった経緯があると言えると思います。たとえば気候が暑くなったり寒くなったりするのは、一定の周期がある事を発見して、その周期をより正確に割り出すための“暦”を作り出しますよね。これによって四季という“確定要素”を手に入れ一歩文明的な生活を手に入れる…といったような事案の繰り返しで文明/文化を進めてきているワケです。主に社会運用システム的には相当に「ファクト」の価値観で占められていると思います。しかし、今も完全に“確定要素”だけで社会は構成されていませんよね。また完全に“確定要素”のみにしてしまう事に人間は抵抗があるような気もします(気がするだけだけど)。…その分だけ「ファクトの世界」と現実世界はズレがある…という事になると思います。

■ファクトの世界の構成
「ファクトの世界」と「言い張り可能な世界」の境界をもっと対象的に扱う言葉を探すなら以下のような分け方になると思います。

・「ファクトの世界」 = 「証明された世界」

・「言い張り可能な世界」 = 「証明されない世界」

この段階では、かなりスッキリした分け方だと思います。ファクトが「証明されたもの」を尊び、「証明を求める」働きがあると考えると、その意味するところがイメージしやすいんじゃないでしょうか。この力場は人間社会をより進歩させる原動力のようなものだと思います。これは必ずしも原理の証明や説明である必要はありませんよね。たとえば先に例としてあげた“暦”の証明は、発見時はまず間違いなく経験からくる帰納的な仮説であり、その後、その“暦”が何十年、何百年と(多少の誤差を内包しながらも)通用しつづける事によって“暦”は「ファクト(事実)」になるワケです。ここらへんが、多分、コアの部分になってくる。

しかし「ファクト」は、そういった事象だけで構成されてはいません……居ないと僕は考えます。今のものをコアとして、人間はさらに、出自の怪しい(?)ものも「ファクト」として扱って行きます。その最たる物が「言葉」ではないかと僕は思っています。わんわんと鳴く、四足歩行のほ乳類……これを「いぬ」と呼ぶ事には、何の根拠もありません。何の証明もありません。実際に別の“地方”では「dog」と呼んだりするワケで、要するに何と呼んでも構わない代わりに、これが正しい!という呼び方も存在しないワケです。でも、これも「ファクト(事実)」なんですよね。(少なくとも、この記事で僕が扱う「ファクトの世界」に於いては)「昔からそう言っている」という事があれば、人間はこれも“確定事項”=“証明が済んだ”と判定している。そうやって、他にも色々怪しいものを取り入れてしまっているワケです。“生活習慣”や、“儀礼”、“宗教”など……まあ所謂“常識”と言えばいいと思うんでけど、これも人間社会を前進させる要素として取り込まれています。

さて、ここからが押し引きなんですが…!w「言い張り可能な世界」=「証明されない世界」は、証明を不要とする“無責任”な世界なのですが、代わりに(?)ここで構築されている“証明世界”を溶かす事ができます。…とは言っても「わんわんと鳴く四足歩行のほ乳類を『いぬ』と呼ぶことには何の正当性もない!!」…とか大指摘しても、皆、気の毒そうな顔をするだけで、誰も取り合ってくれないでしょうけどねw「少なくとも(ばうわう!)という鳴き声を真似る方が正当性があるのではないか?」とか主張しても…まあ、ちょっとそれを「ファクト」にまで持ち込むのは無理…だよねえw(´・ω・`)……でも、これは「言葉」の名詞という“大基盤”にケンカ売っているからって面もあって、たとえばドラマなんかで、“掟”あるいは“因習”と呼ばれるような“常識”を、これに近いノリ(?)で覆す物語を観たことがある人は多いでしょう。
何が言いたいのかというと「証明された世界」と「証明されない世界」の境界は非常に曖昧だっていう事です。人間は人間を前進させるために「証明された世界」を求めていて、それはキッチリカッチリやっていかないと行けないのに、前進は本性的に求めるけど、実は“人間ちゃん”はけっこうものぐさででもあるので、そんなにキッチリカッチリはできていないというw…まあ、そういう事ですよね。

加えて「証明されない世界」は言い張れば、本来、「証明された世界」の相当な領分までを、取り込んでしまう事ができるはずです。現代人は、常識、習慣といったものが原理の存在する絶対的産物ではない事を熟知しているので、ここらへんの大半はむしろあっさり明け渡すのではないでしょうか。先ほどの「いぬの名詞」にいちゃもんつける話も、誰も当り前すぎて取り合わないだけで、その指摘が不成立という意味ではない。……こういう“疑わしい”ものを全て排除して“確かなもの”だけを残す行為を突き詰めて行くと、その果てに何が残るか…?っていう遊びは、デカルトおじさんがしていて、有名な言葉を残していますよね?本当に言い張り続ければ、やろうと思えば“あそこ”まで行けるワケです。また物理世界の科学的な“証明”であっても、ユークリッド幾何学や、ニュートン力学が覆されたように“絶対”のものではないという“言い張り”は可能だと言えます。

人間は存在の“意味”や“原理”を求める志向を持っているのですが、宇宙の存在自体はただ在るだけで、それに何か(現在の人間の理知の範囲内においての)“意味”があるワケでは…………(我に返った)……………と言う具合に、何か「ファクトの世界」の弱い部分を論ってしまっているのですが(滝汗)知恵有る人なら、それでも“意味”を求め応える事の“意味”は既知に理解されている事かと思います。ただ、これから話す事として「ファクトの世界」も本質的には“弱い”事をカウンターとして置いておかないと、文意が有効に効かないというか、それくらい人間社会にとって「ファクトの世界」は強い意味と縛りを持っている…とは考えているんですよね。

■「楽しい」というファクト
さて、では「物語愉楽論」と「ファクトの世界」の関係の話なんですが。僕はずっと「“面白い”って何だろう?」と考えている人間なんですが、たとえば「テンポが良かった」から面白かった、「深いテーマに考えさせられた」から面白かったとして、じゃあ「テンポが悪い」と(※…というか「テンポが良い」なんて視点、速攻で「言い張り可能な世界」に取り込まれそうな価値観なんですが…wまあ、ここでは、それが「ファクト」だとしてw)必ず面白くないのか?というとそんな事はない。「深いテーマ」だってそうですよね。
「自分は『深いテーマ』があれば“面白い”し、無ければ“詰らない”、そうとしか考えない!」と自分の主観を閉じて“言い張って”しまえば、それは成立するかもしれませんけどね。「物語愉楽論」はそれを是としていません。…ん、まあ、ちょっとショートカットして話すと「面白さのパターンって無限にありそうだな…」って事になってきて、そうすると、これはもう一生つき合って行くしかないな?という結論に繋がってくるんですけど…。

【フィクションの構造】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/20b7e8c2e08342aa85b67711cec8c763
※面白さのパターンって無限にありそうだな … 概念的にまとめ、体系化してしまおう、という試みについてはここを参照。

ただ、僕の目的の第一は「愉楽する事」~自分が楽しいと感じる事であって、「面白さ」を解き明かすのはそこに至る手法の一つに過ぎないんですよね。そうやって考えて行くと、面白さの条件と思える「ファクト」と、「楽しい」と感じる“実感”の関係が非常に希薄になってくる感覚を持つようになってきて…。でも、全く関係ないとも感じない…ここらへんの難しさが正に追求すべきテーマなんですが。
たとえば、ある作品の「面白さ」を懇切丁寧に説明して、その内容は極めて妥当なものだったとしましょう。…でも「…だから、何?」と言う人はいますよね?(僕もたまに使わない事はない)「説明は分かった。でも、自分は面白く思わない」と言う話ですが。まあ、僕は僕の価値観として、自分の主観を閉じる人、分からない事に意固地になる人は恥ずかしいなあ…と思っているんですけどwでも、それは有るんですよね。その人が“事実”を言っていないワケじゃない。正にそれが「言い張り可能な世界」の領域の話と言うもので。そう考えるとね……これはとても難しい問題だなあと………え?わざと話を難しくしているように観えますか?w(汗)

【絶対視思考と相対視思考】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/06fb37c8864a033a789f1a794f41dd07

ここの記事で「相対視」の話と「絶対視」の話をしていますが、物事を「相対視」するという手法そのものは「ファクトの世界」に属する手法だと考えていますが、その手法によって“分解”された“価値”や“意味”自体は「言い張り可能な世界」の領域というか、カオスの物になるんですよね。新たに意味付けがされるまでは。概念的に言うとそういう感じでしょうか。

【 「言い張り可能な世界」についてのチャット】
http://www.tsphinx.net/manken/hyen/hyen0318.html

GiGi >> ハッカが入ってないと主張されたら、ハッカが入ってないと思った根拠を示せと言う話になる。で、話を聞くと実はハッカを食べたことがなかっただけだったりする<これはもう言い張りじゃなくて「嘘」ですよねw。まあ言葉はきついけど。
GiGi >> 後になって「実はハッカ食べたことないんですよ」なんていうなら「ハッカが入ってないなんて言うな」ということになる。これはファクトに基づいた正統な批判ですよね。
GiGi >> でも「ハッカのことはよくわからないけど、シソが入っているに違いない」という主張は尊重しなきゃいけない…もちろん、反論もあってしかるべきですが「事実じゃないから違う」という否定はありえない、と。
LD >> 「ハッカが入ってないなんて言うな」>いい所ついてますね。もどったらレス打ちます。…しかし、みんなファクトの方に興味ひきましたねえ…(汗)僕自身は「言い張り可能な世界」の話のつもりだったんだけど…(汗)
LD >> ハッカが入っているか?いないか?の判定は「ファクト」の判定であって「面白い」かどうか?とは、本来何の関係もないですよね?でも、僕らは面白さを説明しようとする時に「○○だから面白い」という話をするよね。←この「○○だから」は速攻でファクトの判定に引き込まれる。
LD >> 「面白さとファクトを結びつけてしまう人」…と言うよりは「証明できなければ“面白さ”は無い」という話に取り込まれてしまうと言った方がいいのかも?…まあ、あの話、ファクトの話は主体にしていないから、そこらへんは整えていないかも…(汗)
LD >> 「悪魔の証明」って言葉があるようにファクトは証明できないものは無い事にされる…これは厳密には“無視する”だけ、なんだけど通常は「無い事にされる」という表現が流布しているよね。(※それくらいには積極的な無視)
LD >> 「面白さとファクトを結びつけてしまう人」って言うと何か良くない人みたいな言い回しになってしまうんだけど、僕は、僕みたいに変な「面白さ」優先という価値観でなければ、相応の正当性があると思っているんですよね。むしろ、そこがミソかなあ…。
GiGi >> ん。ファクトと面白さは関係ないけど、ファクトがないと共感は得られないかもね?って感じですかね。
GiGi >> 言い張りをする人は、それが自分の言い張りであることは自覚したほうがいい。ということは言えるとは思います。
GiGi >> そしてファクトを求める人もそれが自分の思い込みである可能性は自覚した方がいい。
ルイ >> 主観に過ぎない事からも面白さを抽出できる、って話じゃないのかな?基本的に「その方が」は皆がそう思ったものをぶつけあえばいいだけで、論旨じゃないと思いますが。上司云々も完全に本主張とは切り分けで読んだ方がいいでしょうね。この辺含めると、本当に仮想敵のニュアンスが強まるから。

ここらへんのGiGiさんとのやり取りが「面白い/楽しい事」と「ファクト」の関係を、けっこうまとめていると思います。GiGiさんが、最後に述べている「自分の言い張りであることを自覚しない人」は、それを何と思っているか?というと「ファクト」だと思っているのでしょうねwまた「それが自分の思い込みである可能性を自覚しない人」は、それを何と思っているか?というと「ファクト」だと思っているのでしょうねw(※前者の「ファクト」は、それがウソでも言い張りでも否定され得ない主張という「ファクト」に寄っているのでしょうけど、いずれにせよ自覚がないと「世界を閉じ」ますね)
要するに人間は主観とファクトのけじめをつけるのが、意識しないと、なかなか難しい性質があるという事は言えると思います。「ファクト」なんて厳つい言い回しでは実感ないかもしれませんけど、「一般的には」、「普通では」、「常識では」、「みんは」…とこういったものを無検証で自分の主張の味方につけようとする事はよくある事でしょう。そしてそれを以て、あたかも「正しい」かのように振る舞う。(あるいは「学会では」とか「専門家は」なんて言葉を置く時は、主観が「ファクト」に振り回されている可能性がありますね)まあ必ずしも間違いではない(つか、“正しい”の定義次第)事なんですが「物語を愉楽する世界」では、ただ一人でも「楽しいという実感」は肯定され得るので、ここらへんの「ファクト」に対する誤認誤解は気をつけなくてはいけない。また、人間がこういう性質を持つ現実が厳然としてあるなら、この点に注意を促して言い過ぎはないだろうと思っています。

一方、ルイさんが身も蓋もなくこの話をまとめてくれていますがwまあ、何というか異様に長々と書いていますが、要するに「主観に過ぎない事からも面白さを抽出できる」話をしているワケです、確かにw…しかし実は、その抽出方法が「言葉」という不完全なツール利用が主体になるので難しいというか……ちょっと表現歪むかもしれませんが「面白さを受け取れなかった自分」もまた肯定されるのが「言い張り可能な世界」の在り様というもので、また、相手の実感を無批判に受入れても、真の(?)理解と愉楽の実感には至らない事が、こういう、ややこしい話の展開になっているのですよね(汗)僕が人と意見交換をする時、しばしば「分かったフリは最悪」という「言葉」を使うのは正にこの為です。「うんうん、その面白さも分かるよ?w」…なんて話は何時でも誰でも言える事!(`・ω・´)しかし、何でもかんでも肯定され否定されない「言い張り可能な世界」で、一体、自分は何を選び取って行くか?という事を考えた時に、人は“確しかなもの”(あるいは暫定的な確かなもの)である「ファクト」に取られやすいよね。でも、今まで散々述べたように「面白い実感」と「ファクト」は(関わりが全く無いとは言わないものの)直接の繋がりは無いわけで…そういう、ハイソでフィロソフィな視shじゃsdがじぇfhsdふぁがfgvばざfsっだ…!!(←壊れた!)…ま、悩んでるんですよ?(´・ω・`)

「物語愉楽論」は、自分の主観の世界を拡げる有効な手段として、他者との意見交換を重要視します。そして、その意見交換につかう「言葉」を意識伝達のための重要な“ツール”であると位置づけ、その“ツール”の意味を考えて行くことを大テーマの一つとしています。でも、“僕らは面白さを説明しようとする時に「○○だから面白い」という話をするよね。←この「○○だから」は速攻でファクトの判定に引き込まれる。”のですよね。
「言葉に縛られる話」は、また別の機会にして行きたいと思いますが「言葉」が伝達手段としてあまりに有効で、また、多大な局面でそれに頼り切りになるため「言葉」という「ファクト」に非常に取り込まれ心的支配を受けやすい傾向にあると思うのですが「愉楽する事」への阻害があるなら、気をつけないと行けないと考えています。同時に「言葉」があるからこそ感じる事ができる情感や感動もあると思っていて、まあ、人間が“考える”生き物である以上、切り離して考える事はできないのでしょう。というか、そういった複雑さを解いて行くのが、まあ、今、長々と話をしている“ここらへん”のテーマなんでしょうね。

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「面白い」(主観)の「理由」(ファクト)の後ろにある、「なぜその理由を持ち出したのか?」 (銅大)
2009-06-15 12:48:11
 昼飯を食べながらたいへん興味深く読みました。
 「ファクト」(事実)と「面白さ」の関係がややこしくなるのは、LDさんがチャットでも主張されているように、しばしばこの両者の結びつきが、間違っている、あるいは、誤解して使われているせいではないかとは、私も思います。

 「テンポが良い」から「面白い」
 「テーマが深い」から「面白い」

 などの主張をよく聞いてみると、理由としてあげられている「テンポが良い」も「テーマが深い」も、どうでもよかったり、それほど重要な要素ではないことがしばしばです。

 ただ、人間は原因と結果を結びつけたい生き物です。「面白い」という結果には、それなりに意味のある理由があるはずだと考るわけですね。
 それゆえに、チャットでもあるように「面白い」という結果を他者に納得させる、共感させるように主張するには、理由を持ち出す他ないのも確かです。

「何がいいのかよくわからないけど、私はこの作品が面白いですし、大好きです」

 これでは気持ちは分かるけど、そんなコト言われても、私はあなたじゃないし……となってしまいます。例外としては、互いに相手をよく知っている場合でしょうか。友人の間では、「アレがね、もう、最高に面白いんだよ、分かるだろ?」で、「あー、君ならそうだろうねぇ」という風につながります。

 では、自分が「面白い」を主張する場合にどうすればいいかということになりますが。
 「面白い」の「理由」を急がない、まとめすぎない、ことではないかと思います。

 「テンポが良い」から「面白い」と急いで結ぶのではなく、「なぜ自分はテンポが良いと感じているのか?」を考えるわけです。

 たとえば伊藤勢さんの『荒野に獣、慟哭す』の漫画が私にとっては「テンポが良く」て面白いのですが、それはなぜか。
 私は、自分が感じるテンポの良さは、「キャラの行動に迷いがない」せいで生まれるのだろうと考えました。モノを破壊する、危険をおかす、人を殺す――本来ならば、大いに悩むべき場所で、迷わない。決断すれば、即座に行動する。その逡巡のなさが「小気味よい」からこそ、テンポを良く感じるわけですね。

 「面白い」(主観)の「理由」(ファクト)の後ろにある、「なぜその理由を持ち出したのか?」をもう一段、深く考える。
 そうすれば、また、違った「理由」が見えてくるのではないかと思います。
 
 
 
Re:銅大さん (LD)
2009-06-17 02:23:31
こんばんは。

> 「面白い」の「理由」を急がない、まとめすぎない、ことではないかと思います。

> 「テンポが良い」から「面白い」と急いで結ぶのではなく、「なぜ自分はテンポが良いと感じているのか?」を考えるわけです。

もう一段、さらにもう一段と深く考えて行くのは賛成です。…というかそうやって磨いて行くしかないですねよね。
…多少、タマネギの皮むきな感覚がないでもないんですけどね(汗)「面白い」というのは、なかなか一筋縄ではいかないなあ…と思っています。
 
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