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『アイ・アム・レジェンド』~終わりゆく人類の景観

2011年12月08日 | ドラマ
【ネタバレ注意!】【疫病の怪物】【終末の物語】



TVで主演・ウィル・スミスの『アイ・アム・レジェンド』(2007年公開)がやっていたので、録画して観てみました。…まあ、当然というか、なんと言うか「主人公と人類が救われるグッド・エンド・タイプ」だったわけですが…。色々と気になってしまったので、別エンディング版が収録されているブルーレイを借りてきてそっちも観てみました。
…うん、まあ、やっぱりこっちだよな~とは思うんですよ。「病原菌に侵され知性のないゾンビと化したように見えた“彼ら”は、既に人類とは別の社会を構成していた…」というね。少なくとも、この物語を“今”やる意味はそこにあるように思えます。

しかし……分かりづらい、伝わりづらい所もありますね(汗)それは、最初から二つの結末が可能なように「どちらの結末でも差し替え可能なように」作って行ったから…なんじゃないかと思います。最初から「この結末しかない!!」という意図を持ってシーンを作り込んでゆけば、もっと違う景観があった気がします。
「ネビル博士はその死の間際、遂に“吸血鬼”の治療法を発見し、伝説となった」という物語に対して、引っ掛かりが少ないように、もう一つの結末に対する“有り得た伏線”をスポイルする傾向がどうしても発生して(多少は残っていますが、不自然さが目立たない程度に配慮されている)いるようですからね。

…と!!思ったんですけど。まあ、これをある種のアドベンチャー・ゲームのように、二つの結末を観比べて「一つの物語」とする形態だと考えれば、まあ、いいのかな?(´・ω・`)…と!!思ったんですけど。その場合は、ブルーレイ特典なんかじゃなくって、ちゃんとその二つの結末がシェアされる形で公開して欲しかったかな?とか。
ま、どうなんでしょうね?(笑)それはともかくとして、この作品以前に製作された『アイ・アム・レジェンド』を紹介しておきたいと思います。(これが、本題だったのだ!)

■地球最後の男 オメガマン(1971年公開)



主演・チャールトン・ヘストンの『アイ・アム・レジェンド』です。原作の『アイ・アム・レジェンド』の重要な結末を変えてしまっているからか?あるいは某ドキュメンタリー映画でヘストン自身が嫌われたからか?何か妙に酷評されたりする映画なんですけどね?(汗)
…いや、“あの結末”を変えてしまえば映画好きから不評となるのは必然かもしれませんが(汗)しかし、冒頭のインパクトはすごく良いと思います。まるで人の気配がしないロサンゼルスの街を、一人ヘストンが徘徊するシーンは、映画的にかなり美しいものでした。

ウィル・スミスの『アイ・アム・レジェンド』は厳密にはこれのリメイクだと思います。画面作り…先程行った、誰もいない街の画作りは、『オメガマン』を模したものに思えます。血清を手に入れながら自分は“吸血鬼”(ちょっと違うんですが敢えてこう呼びす)の犠牲となって死に、血清は生き残った者に託されるという結末も同じです。

誰もいない街をたった一人で歩きまわるのは寂しいなあ……などと思っていると、途中から黒いローブを羽織った人間たちがわんさか出てくるので「あ!なんだ、誰か生きてるじゃん!」と思うんですけどね(笑)
実際に彼らは細菌戦争の生き残りで、ウィルスによって光を浴びると苦しむ…そしておそらく目がほとんど見えない身体になったのですが、他の映画の“吸血鬼”たちに比べると、意識はかなりはっきりしている方で、決して救われずやがて滅びる自らの運命を過激な宗教で慰めているカルト集団と言った感じです。

それ故「分かり合えない事」…何も考えずに銃で彼らを排除しまくるネビル(ヘストン)と、治療法がある事に耳を貸さない“吸血鬼”たちに、不安と不満を持ったりもするのですが、今、観直すと、その分かり合えなさが、『終末の物語』のゆるやかに文明が滅び行く物語の一場面としての意味の深さを表しているような気もします。
いや、この吸血鬼たちは明らかに「話は通じるが、分かり合えない勢力」なので、そもそも“善悪の逆転”とかないよね(汗)「彼らは怪物になったのではなく人間として生きていたのだ!」とか言われてもガーン!ってならない(汗)でも、その「人間もうダメだ」感が、終末の描きとしては顕れるものがある…って事ですけどね。

■地球最後の男(1964年公開)



主演・ヴィンセント・プライスの最初の『アイ・アム・レジェンド』ですね。深夜をノロノロと正気を失った言動で徘徊する“吸血鬼”たちは、その後の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年公開)に影響を与えたと言われています。カルト・ムービーですが傑作です。実際、『アイ・アム・レジェント』としての完成度は、この映画が一番高いように思います。

最初にネビル(ヴィンセント・プライス)が、戦っている相手は、明らかにゾンビ然とした吸血鬼だったのに、その後に出てくる延命薬を手に入れた“新人類”たちは、明らかに動きが機敏で、銃器も扱い、服装も黒一色で統一された「ああ、これは確かに、新たな秩序が生まれている」という感じなんですが…なんか、ずるい!(笑)というか、ネビルが“ゾンビ”と間違えて“新人類”を殺してしまうのは無理からぬ事という気がしてしまう。
また、孤独に死んでゆくネビルを持って、旧世界の幕引きとなったかのように思えますが…そう、解釈もできますが、同時にネビルの治療を受けた女・吸血鬼(既に治ってるけど)は生きており、希望はつながっていると観る事もできますね。(というか、この新人類たちはさらに治療が可能なら喜んで受けると思う)

しかし、“善悪逆転”が起こったとして、善悪の相対化が行われたとして、それが即、「さあ、分かり合おう!」という話ではないのだろうなとも思います。
吸血鬼たちを呪って死んでいったネビルは「分かり合おうとしない、わからず屋の愚か者だったのか?」と言うと、一概にそうは言えないように思います。だって、確かにその吸血鬼のウィルスは全人類の大半を死に至らしめたわけですし、文明が崩壊し自分がたった一人の人類の生き残りであるなら、そこに意地があるのはなおの事です。既に吸血鬼たちにとって大量虐殺者であるネビルを彼らは許さない。しかし、ネビルは最後の人類として戦いを続けただけ。これをあまり楽天的に「分かり合えるはず」と僕は語りたくない。

…とは言え、プライス版の『アイ・アム・レジェンド』の“新人類”を観て「…これは、分かり合えるのと違う?」と思ってしまうのも分かる(笑)そう思ったから(分かり合いづらそうな)、ウィル・スミス版の『アイ・アム・レジェンド』の別エンディングがある気もします。
逆にプライス版でも、ヘストン版でも「分かり合えない」事に納得してしまう僕にとっては、ウィル・スミス版の「分かり合う」シーンには違和感を禁じ得なかった。ああまで違う(それこそ相容れないはずの)ものが、あの一邂逅で分かり合うものなのか?…分かり合うという事は「治療法の研究は余計なお世話だった」と言うようなものなんですけど、それは本当にそうなのか?
いや、確かに、最初に“今”やるなら、この結末の方とは言いましたが(笑)「人類を再生する」という大義は本当に失って(相対化されて)いいものなのか?プライス版のネビルのように自分の正義を信じる限りは殺されてしまいますが。……どうなんでしょうね?(´・ω・`)



その意味において映画ではなくてマンガですが、藤子F先生の『流血鬼』(1978年初出)(『オメガマン』の後か…)の“吸血鬼”になって(人類が滅びて)初めて彼らの事が「分かる」というのが、分かり合いの物語としてはスマートな気もします。あと、脱線気味ですが『地球へ…』とか、持ちだして「本当に、人類とミュウは分かり合えるのか?」とか話して行く事が、頭をかすめましたが、長くなるので別の機会にします。

まあ『アイ・アム・レジェンド』は、単純に『善悪逆転の物語』というだけではなく、もっと多様な、“終わりゆく人類の景観”を観せてくれる、非常に魅力的な、追求すべきプロットに思えます。


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