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自由研究 今昔物語。

小学生の頃、苦痛だったのが、毎夏の自由研究である。

今でこそ、毎日が自由研究日であり、2歩進んで3歩下がる<二進三退>な変化のある生活を楽しめるようになったが、

子供の頃は、そうした変化を楽しめるような状況ではなかった。

自由研究が苦痛だったのは、言うまでもなく、<創造性がなかった>からだ。

良いアイデアが思いつかないのだ。

誰でもやるような貧相な自由研究を出してお茶を濁していた。

 

しかし、中には、素晴らしい自由研究を出す同級生もいた。

明らかに、親が手伝っている(あるいは親が全部やっている)ケースもあった。

驚くことに、そうした疑惑の自由研究が、校内で表彰されたり、県のコンクールに出品されることもあった。

自分の発想の貧困さは棚に天高く放り投げておいて、

小学生ながら、<世の中の不条理を痛感した>。

あの子の親は、担任の先生と仲が良いのか、学校とつながっているのかと勘繰った。

また、子供だけに自由研究させておいて、先生たちは何故、夏休みに自由研究しないのだろうか?

先生たちも自由研究をコンクールに出せば、自由研究の大変さがわかるのに、とよく思ったものだ。

自由研究をめぐる<学校社会の不自由>を痛感したものでR.

今振り返ると、小学生時代、自由研究も勉強もさほど達者ではなかったけれども、

<社会学者としての眼>は、自由研究をめぐって、確実に着実に芽生えていた。

そう言いきって、間違いない!

(ある局の長距離マラソンのナイト・ランナーをつとめたのに、全く注目されなかった長井氏、頑張れ!)

さて、今は、インターネットが普及しているし、<自由研究ビジネス>が成り立っているので、無数にある自由研究例をそのままパクっても分からないほどだ。

自由研究をめぐる環境は格段に整ったが、今でも、親が関与する状況は変わらない。

親の格差を背景に展開される自由研究の競争など要らない。

そのエネルギーをたっぷり蓄電しておいて、やがて経験するであろう<人生の壁>を突破するときのダイナマイトにすれば良い。

 

 

 

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