一度は収束したかに見えた左のほうの「水からの伝言」騒動がまたくすぶってきた。
keep changing !実録 連合赤軍(追記あり) 4月3日
逝きし世の面影:極左系に殴りこんだ解同系の仁義無き戦い『水からの伝言』 4月8日
陰謀論者による「水からの伝言」騒動の総括 - kojitakenの日記 4月9日
たんぽぽのなみだ~運営日誌: 極左対解同? 4月12日
たんぽぽのなみだ~運営日誌: 極左対解同?(2) 4月13日
:いらっしゃい!ようこそニケのブログへ^^ : 「水伝」を本当に論議するのでなく、自分の主張を補完するために利用する者達。恥を知れ! 4月14日
HERIKUTSUなる日々(by jabberwock):思考のきっかけは、どこからでもいい(しかし、言っていいことと悪いことがある)。: 4月12日
HERIKUTSUなる日々(by jabberwock):無敵の論理。または「jabberwockはひどい!」の方程式。 4月14日
HERIKUTSUなる日々(by jabberwock):やっぱり、きちっと語っておこう。 4月15日
keep changing !:話が噛み合わないわけだよね。 4月15日
今回は「逝きし世の面影」のような極左(?)陰謀論系ブログも加わってますます面白さいがらっぽさを増している。
騒動の発端となった「らんきーブログ」の名前がないことを不審に思う方もいるだろうが、ぶいっちゃん氏はお仲間と楽しく政治活動ごっこに興じている。水伝問題を反省したようにも見えないが、(勝ち目がないと見て?)自分から蒸し返すつもりはないらしい。
私がいちばん不思議に思うのは「keep changing !」水葉氏の論調だ。一月から二月の水伝騒動で私が「中立・仲裁・「どっちもどっち」・竹内まりや(♪けんかをやめて)」派に分類したブログのほとんどはこの問題を継続的に取り上げてはいない。たぶん批判派の論理に正当性があることを認めるか、あるいは騒動が鎮静化したことに安心しているのだと思われる。そんななか水葉氏だけが「水伝騒動」問題について書き続け「らんきー一派」批判派への怒りを高めている。
それがなぜなのか、私なりにがんばって水葉氏の文章を読んでみたのだがどうもよくわからない。論理の筋道が見えず、理解も共感も難しい。なんとなくだが「みんな寛容に仲良くしてほしいという願いが伝わらなくて悔しい悲しい」という気持は想像できたが、それが水葉氏の本当に伝えたかったことなのかどうか。水葉氏はカウンセラーをお仕事としているそうで(「私はカウンセラーである」)、時には厳しく冷たいものになる論理や科学よりも感情と共感を大事にする人なのかとも思う。だが結局のところよくわからない。
基本的によくわかってないことを認めたうえで、わかった部分だけ批判する。
こういうやりかたに問題があることは知っているけれど、かといって見すごしておけない奇怪なことを水葉氏は書いているのだ。
実録 連合赤軍(追記あり)|keep changing !
いやもうなんと言っていいか。
失礼ながら水葉氏は「リベラル」について完全に誤解している。
私は自分のことをリベラリストだと思う。いや、リベラルでありたいと願っている。
かといってリベラリズムについて真面目に勉強したことはない。勉強したことはないけれどなんとなくわかっている。そのわかりかたがそれほど外れていないだろうと自信を持っている。われながらあつかましい。
さて、そんな私から見て「リベラル」とはどういうことか。水葉氏の文章に反論する形で書く。
「リベラルという狭い世界で」
…ここでまず絶句してしまう。リベラルが「狭い世界」って!?
学校や地域のサークル活動じゃあるまいし。
リベラリズムは世界の広さを、人間の多様さを知り尊重するものではなかったか。リベラリストが集まるとき、それが物理的にあるいはコミュニケーション的に狭い範囲であったとしても、精神は世界へと広がっている。
理念はとりあえず措いて、実際の人数を問題にしても日本人でリベラルな考えを持つ人はたくさんいる。
根拠はないが国民の二割か三割、もしかしたら五割近くがリベラリズム(それがどういうものかよくわかってないとしても)を尊重し好意を持っているはずだ。左翼が嫌悪するネオリベラリズムをどう見るかは人によるけれど、仮にネオリベを除いたとしてもリベラルが「狭い世界」ということはありえない。
私がブログで取り上げた問題でいえば「実銃所持者」などは人数が少ない。それにしたって約17万人ほどいる。中規模の市の人口に匹敵する。ましてリベラリズム・リベラリストを狭い世界と呼ぶのは無理だ。
たぶん水葉氏は「お互いをリベラルと見なしてトラックバックを送りあう一群のブロガー」を指して「リベラルという狭い世界」と言ったのだろう。
「らんきーブログ」とかそういったあたり、ネットの左のほうでトラックバックを送りあって喜んでいる人たちの数はせいぜい三桁と思われる。それなら狭い世界と呼んでいいが、もちろん彼らはリベラルの代表でもすべてでもない。
「リベラルという狭い世界」だって?馬鹿にするのもいい加減にしろ!と言いたい。
「「知性」や「論理」にこだわり、仲間割れを起こすのは愚かである。」
ここでもう一度絶句してしまう。
水葉氏にとっては「知性・論理<仲間割れの危険」なのだろうか。
これだけはっきりとムラの論理を明言されるとむしろ清清しささえ感じる。清清しさが一回りしてグロテスクだ。
「仲間割れ」を防ぐためには知性と論理にあえてこだわらない、というのはたしかにある種の知恵である。日本社会のあちこちで実際に行われて効果を上げている。昔から日本では「和をもって尊しとなす」国だ。みんな表面上だけでも仲良くしてニコニコできれば結構なことだ(ほんとうにそうか?)。
だが、リベラルな人たちが知性と論理を用いて論争したとしてそれが「仲間割れ」につながるからやめろ、というのは余計なお世話である。ボクサーがリングで殴り合ってるのを見て「ケンカをやめて!」と叫ぶのと同じくらい馬鹿げている。
リベラリスト同士で論争しているとき、それが「仲間割れ」になるから良くない、愚かだ、というのはリベラリストの考え方ではない。仮に抜き差しならない感情的対立が生じて絶交したとしても、二人がリベラリストであり続けるならば仲間なのだ。好き好んで付き合うことはやめても、相手に理があると思えばそれを率直に認めるのがリベラルである。
もちろんこれは理想論であって、実際はなかなかうまくいかないことが多いだろう。だが、「論争してもリベラルはリベラルだ」というのと「仲間割れを防ぐために論争をやめろ」というのとはぜんぜん違う。
ボクサーが勝っても負けてもボクサーであり続けるのと同じことだ。試合の最中に一人のボクサーが「俺、ボクサー辞めた」と宣言してそれでも相手から殴られ続けたら悲惨だが、水葉氏が言っているのはたぶんそういうことではないだろう。
「リベラルブログが、今なおそういう世界であるというのなら、私はここを立ち去ることに未練はない。」
すでに書いたように、水葉氏の見ている「リベラルブログ」はリベラリストの一部に過ぎない。いや、私の見るところ左のほうで仲良しごっこをしている「リベラルブログ」の多くはそもそもリベラルではない。「そういう世界」に無理してとどまる必要など何一つない。水葉氏がリベラルであるのならこだわることなく立ち去って好きな場所で自分の意見を書けばいい(書かなくてもいい)。
私の衷心からの忠告である。
keep changing !実録 連合赤軍(追記あり) 4月3日
逝きし世の面影:極左系に殴りこんだ解同系の仁義無き戦い『水からの伝言』 4月8日
陰謀論者による「水からの伝言」騒動の総括 - kojitakenの日記 4月9日
たんぽぽのなみだ~運営日誌: 極左対解同? 4月12日
たんぽぽのなみだ~運営日誌: 極左対解同?(2) 4月13日
:いらっしゃい!ようこそニケのブログへ^^ : 「水伝」を本当に論議するのでなく、自分の主張を補完するために利用する者達。恥を知れ! 4月14日
HERIKUTSUなる日々(by jabberwock):思考のきっかけは、どこからでもいい(しかし、言っていいことと悪いことがある)。: 4月12日
HERIKUTSUなる日々(by jabberwock):無敵の論理。または「jabberwockはひどい!」の方程式。 4月14日
HERIKUTSUなる日々(by jabberwock):やっぱり、きちっと語っておこう。 4月15日
keep changing !:話が噛み合わないわけだよね。 4月15日
今回は「逝きし世の面影」のような極左(?)陰謀論系ブログも加わってますます
騒動の発端となった「らんきーブログ」の名前がないことを不審に思う方もいるだろうが、ぶいっちゃん氏はお仲間と楽しく政治活動ごっこに興じている。水伝問題を反省したようにも見えないが、(勝ち目がないと見て?)自分から蒸し返すつもりはないらしい。
私がいちばん不思議に思うのは「keep changing !」水葉氏の論調だ。一月から二月の水伝騒動で私が「中立・仲裁・「どっちもどっち」・竹内まりや(♪けんかをやめて)」派に分類したブログのほとんどはこの問題を継続的に取り上げてはいない。たぶん批判派の論理に正当性があることを認めるか、あるいは騒動が鎮静化したことに安心しているのだと思われる。そんななか水葉氏だけが「水伝騒動」問題について書き続け「らんきー一派」批判派への怒りを高めている。
それがなぜなのか、私なりにがんばって水葉氏の文章を読んでみたのだがどうもよくわからない。論理の筋道が見えず、理解も共感も難しい。なんとなくだが「みんな寛容に仲良くしてほしいという願いが伝わらなくて悔しい悲しい」という気持は想像できたが、それが水葉氏の本当に伝えたかったことなのかどうか。水葉氏はカウンセラーをお仕事としているそうで(「私はカウンセラーである」)、時には厳しく冷たいものになる論理や科学よりも感情と共感を大事にする人なのかとも思う。だが結局のところよくわからない。
基本的によくわかってないことを認めたうえで、わかった部分だけ批判する。
こういうやりかたに問題があることは知っているけれど、かといって見すごしておけない奇怪なことを水葉氏は書いているのだ。
実録 連合赤軍(追記あり)|keep changing !
リベラルという狭い世界で、「知性」や「論理」にこだわり、仲間割れを起こすのは愚かである。
リベラルブログが、今なおそういう世界であるというのなら、私はここを立ち去ることに未練はない。
いやもうなんと言っていいか。
失礼ながら水葉氏は「リベラル」について完全に誤解している。
私は自分のことをリベラリストだと思う。いや、リベラルでありたいと願っている。
かといってリベラリズムについて真面目に勉強したことはない。勉強したことはないけれどなんとなくわかっている。そのわかりかたがそれほど外れていないだろうと自信を持っている。われながらあつかましい。
さて、そんな私から見て「リベラル」とはどういうことか。水葉氏の文章に反論する形で書く。
「リベラルという狭い世界で」
…ここでまず絶句してしまう。リベラルが「狭い世界」って!?
学校や地域のサークル活動じゃあるまいし。
リベラリズムは世界の広さを、人間の多様さを知り尊重するものではなかったか。リベラリストが集まるとき、それが物理的にあるいはコミュニケーション的に狭い範囲であったとしても、精神は世界へと広がっている。
理念はとりあえず措いて、実際の人数を問題にしても日本人でリベラルな考えを持つ人はたくさんいる。
根拠はないが国民の二割か三割、もしかしたら五割近くがリベラリズム(それがどういうものかよくわかってないとしても)を尊重し好意を持っているはずだ。左翼が嫌悪するネオリベラリズムをどう見るかは人によるけれど、仮にネオリベを除いたとしてもリベラルが「狭い世界」ということはありえない。
私がブログで取り上げた問題でいえば「実銃所持者」などは人数が少ない。それにしたって約17万人ほどいる。中規模の市の人口に匹敵する。ましてリベラリズム・リベラリストを狭い世界と呼ぶのは無理だ。
たぶん水葉氏は「お互いをリベラルと見なしてトラックバックを送りあう一群のブロガー」を指して「リベラルという狭い世界」と言ったのだろう。
「らんきーブログ」とかそういったあたり、ネットの左のほうでトラックバックを送りあって喜んでいる人たちの数はせいぜい三桁と思われる。それなら狭い世界と呼んでいいが、もちろん彼らはリベラルの代表でもすべてでもない。
「リベラルという狭い世界」だって?馬鹿にするのもいい加減にしろ!と言いたい。
「「知性」や「論理」にこだわり、仲間割れを起こすのは愚かである。」
ここでもう一度絶句してしまう。
水葉氏にとっては「知性・論理<仲間割れの危険」なのだろうか。
これだけはっきりとムラの論理を明言されるとむしろ清清しささえ感じる。清清しさが一回りしてグロテスクだ。
「仲間割れ」を防ぐためには知性と論理にあえてこだわらない、というのはたしかにある種の知恵である。日本社会のあちこちで実際に行われて効果を上げている。昔から日本では「和をもって尊しとなす」国だ。みんな表面上だけでも仲良くしてニコニコできれば結構なことだ(ほんとうにそうか?)。
だが、リベラルな人たちが知性と論理を用いて論争したとしてそれが「仲間割れ」につながるからやめろ、というのは余計なお世話である。ボクサーがリングで殴り合ってるのを見て「ケンカをやめて!」と叫ぶのと同じくらい馬鹿げている。
リベラリスト同士で論争しているとき、それが「仲間割れ」になるから良くない、愚かだ、というのはリベラリストの考え方ではない。仮に抜き差しならない感情的対立が生じて絶交したとしても、二人がリベラリストであり続けるならば仲間なのだ。好き好んで付き合うことはやめても、相手に理があると思えばそれを率直に認めるのがリベラルである。
もちろんこれは理想論であって、実際はなかなかうまくいかないことが多いだろう。だが、「論争してもリベラルはリベラルだ」というのと「仲間割れを防ぐために論争をやめろ」というのとはぜんぜん違う。
ボクサーが勝っても負けてもボクサーであり続けるのと同じことだ。試合の最中に一人のボクサーが「俺、ボクサー辞めた」と宣言してそれでも相手から殴られ続けたら悲惨だが、水葉氏が言っているのはたぶんそういうことではないだろう。
「リベラルブログが、今なおそういう世界であるというのなら、私はここを立ち去ることに未練はない。」
すでに書いたように、水葉氏の見ている「リベラルブログ」はリベラリストの一部に過ぎない。いや、私の見るところ左のほうで仲良しごっこをしている「リベラルブログ」の多くはそもそもリベラルではない。「そういう世界」に無理してとどまる必要など何一つない。水葉氏がリベラルであるのならこだわることなく立ち去って好きな場所で自分の意見を書けばいい(書かなくてもいい)。
私の衷心からの忠告である。