「あるブログの終焉」の続き。
いくつかのブログが言及してくださり(ありがとうございます)トラックバックを送ってくれた。それらを読むと前の記事は言葉が足りないような気がしてきた。もしかしたら、いや多分蛇足になるが書くことにする。
私が腹を立てたのは「幸せを見せ付けるのはけしからん」とか「hashigotanを傷つけたのはひどい」といったことが理由ではない。
たしかに私は「ある個人史の終焉」に共感も感動もしなかったけれど、それは小綺麗な文章とそれを書くような人が嫌いという個人的な好みからだ。あくまでも文体の問題である。小市民的幸福とさまざまな感慨それ自体を否定するつもりはない。
hashigotanについて私は特に同情しているわけではない。hasigotanが痛みに耐えているのは分かるが、どれほど痛いのか、どれほど不幸なのかを「わかる」感じがしない。hashigotanにいくらか共感し、幸福になってほしいとは思うが、それが同情や応援に直結するわけではない。hashigotan問題について私は中立、というと聞こえはいいがとばっちりを避けようとする傍観者である。
「呆れた、信用できない、消えてせいせいした」と罵倒したのはあくまでもidiotape氏の「トラブルに遭遇した後の対応」についてである。原理原則がない、覚悟がない、ガッツがない。そのかわり「誠実な」言い訳にあふれている。私は「言い訳するな」と批判しているわけではない。どうせ言い訳するなら堂々と、ぬけぬけと、聞かされたものが笑ってしまうような言い訳をしろ、ということだ。ぐじぐじ思い悩んでみせて「僕って誠実でしょ?わかってくれるよね?」と上目遣いで見上げるような言い訳は下の下である。媚びている、汚らわしい。
極論すれば、原理原則(白洲次郎の言うところのプリンシプル)さえあれば、わかりやすくあざとい「誠実さ」などいらないのである。プリンシプルのある人間は信用できるがそれを持たない「誠実な」人間は信用できない。
idiotape氏の例で言えば、多くの人が賞賛する「名文」を書いたら理不尽なことにいきなりhashigotanから石を投げられた。完全な被害者といっていい。そこでぶち切れてもよかったのだ。「俺は妻と子供を守るのが第一だ、お前の不幸など知ったことじゃない」と言い放っていれば私は痺れたかもしれない。
あるいは、「意図せずにhashigotanを傷つけてしまってごめんなさい、責任を痛感しています、ブログをやめます」でもよかった。ガッツはないけれど「人を傷つけたくない」という原理原則は認められる。「なんと心優しい人だろう」と感心したかもしれない。
もちろん無視してもよかった。hashigotanの痛みは本物なのだろうが怒りをidiotape氏にぶつけるのは理不尽である。idiotape氏がなまじ気を使うとかえってお互いの傷を深める、そういう判断をしても不適切とはいえない。
だがidiotape氏が実際に取った対応は中途半端なものだった。一度消した記事を「読者のご要望にお答えして」復活させ、「誠実に」悩んでみせ、無責任な批判に憤慨し、心優しい読者(その中に私は含まれない)の同情をたっぷり集めた上で予告なしにブログを消した。いったい何がやりたかったのか分からない。こういう態度を人間的と見る向きもあるが、私はただ呆れるばかりだ。
idiotape氏のことはもうどうでもいい、存分に罵倒してネガティブな感情は吐き出してしまった。もし彼がブログを復活させたとしても腹を立てる気力は残ってない。小沢一郎に対してと同じように「あなたに期待し信じている人を裏切らないようにお願いします」と言うだけだ。
今回の件で少しだけ後悔していることがある。といっても「idiotape氏を批判しすぎた、気の毒だ」なんてことではない。
存在感と影響力のあるブログ、たとえば「週刊オブイェクト」とか「極東ブログ」とか「世に倦む日日」が閉鎖されたとしたら、多くの読者が惜しむとともに少なからぬ人が「やっと閉鎖したか、あいつが消えてせいせいした」と快哉を叫ぶだろう。強いアンチの存在は逆説的にそのブログの価値を裏書きしている。
私がidiotape氏を罵倒したことがかえって消えたブログの価値を高めたのではないか、そう思うと悔しくなる。なんだかハメられたような気がしてくる。なんと狡猾な策略だろう!…とつぶやいてみても説得力が無くてむなしい。もしかしたら私はidiotape氏の手の内で踊らされたのかもしれない。
いくつかのブログが言及してくださり(ありがとうございます)トラックバックを送ってくれた。それらを読むと前の記事は言葉が足りないような気がしてきた。もしかしたら、いや多分蛇足になるが書くことにする。
私が腹を立てたのは「幸せを見せ付けるのはけしからん」とか「hashigotanを傷つけたのはひどい」といったことが理由ではない。
たしかに私は「ある個人史の終焉」に共感も感動もしなかったけれど、それは小綺麗な文章とそれを書くような人が嫌いという個人的な好みからだ。あくまでも文体の問題である。小市民的幸福とさまざまな感慨それ自体を否定するつもりはない。
hashigotanについて私は特に同情しているわけではない。hasigotanが痛みに耐えているのは分かるが、どれほど痛いのか、どれほど不幸なのかを「わかる」感じがしない。hashigotanにいくらか共感し、幸福になってほしいとは思うが、それが同情や応援に直結するわけではない。hashigotan問題について私は中立、というと聞こえはいいがとばっちりを避けようとする傍観者である。
「呆れた、信用できない、消えてせいせいした」と罵倒したのはあくまでもidiotape氏の「トラブルに遭遇した後の対応」についてである。原理原則がない、覚悟がない、ガッツがない。そのかわり「誠実な」言い訳にあふれている。私は「言い訳するな」と批判しているわけではない。どうせ言い訳するなら堂々と、ぬけぬけと、聞かされたものが笑ってしまうような言い訳をしろ、ということだ。ぐじぐじ思い悩んでみせて「僕って誠実でしょ?わかってくれるよね?」と上目遣いで見上げるような言い訳は下の下である。媚びている、汚らわしい。
極論すれば、原理原則(白洲次郎の言うところのプリンシプル)さえあれば、わかりやすくあざとい「誠実さ」などいらないのである。プリンシプルのある人間は信用できるがそれを持たない「誠実な」人間は信用できない。
idiotape氏の例で言えば、多くの人が賞賛する「名文」を書いたら理不尽なことにいきなりhashigotanから石を投げられた。完全な被害者といっていい。そこでぶち切れてもよかったのだ。「俺は妻と子供を守るのが第一だ、お前の不幸など知ったことじゃない」と言い放っていれば私は痺れたかもしれない。
あるいは、「意図せずにhashigotanを傷つけてしまってごめんなさい、責任を痛感しています、ブログをやめます」でもよかった。ガッツはないけれど「人を傷つけたくない」という原理原則は認められる。「なんと心優しい人だろう」と感心したかもしれない。
もちろん無視してもよかった。hashigotanの痛みは本物なのだろうが怒りをidiotape氏にぶつけるのは理不尽である。idiotape氏がなまじ気を使うとかえってお互いの傷を深める、そういう判断をしても不適切とはいえない。
だがidiotape氏が実際に取った対応は中途半端なものだった。一度消した記事を「読者のご要望にお答えして」復活させ、「誠実に」悩んでみせ、無責任な批判に憤慨し、心優しい読者(その中に私は含まれない)の同情をたっぷり集めた上で予告なしにブログを消した。いったい何がやりたかったのか分からない。こういう態度を人間的と見る向きもあるが、私はただ呆れるばかりだ。
idiotape氏のことはもうどうでもいい、存分に罵倒してネガティブな感情は吐き出してしまった。もし彼がブログを復活させたとしても腹を立てる気力は残ってない。小沢一郎に対してと同じように「あなたに期待し信じている人を裏切らないようにお願いします」と言うだけだ。
今回の件で少しだけ後悔していることがある。といっても「idiotape氏を批判しすぎた、気の毒だ」なんてことではない。
存在感と影響力のあるブログ、たとえば「週刊オブイェクト」とか「極東ブログ」とか「世に倦む日日」が閉鎖されたとしたら、多くの読者が惜しむとともに少なからぬ人が「やっと閉鎖したか、あいつが消えてせいせいした」と快哉を叫ぶだろう。強いアンチの存在は逆説的にそのブログの価値を裏書きしている。
私がidiotape氏を罵倒したことがかえって消えたブログの価値を高めたのではないか、そう思うと悔しくなる。なんだかハメられたような気がしてくる。なんと狡猾な策略だろう!…とつぶやいてみても説得力が無くてむなしい。もしかしたら私はidiotape氏の手の内で踊らされたのかもしれない。
なんだろう、いつもはその器の小ささも含めて玄倉川氏の言動に魅力を感じ拝読していたのですが、今回の件に関しては矮小さしか感じられないのが個人的には残念に思います。
としか思えない
でも少し病的な感じがしますよ。
原理原則がない、覚悟がない、ガッツがない。そのかわり「誠実な」言い訳にあふれている…というタイプは、ネットに限らない対人関係のなかにもあまねく存在していますね。全員が全員、白洲次郎になれるわけではないですが、上述の人物像を反面教師としつつ、次郎に目指すのも無意味ではないと感じました。
そういうふうにとらえると、玄倉川さんの気持ちがすこしだけわかるような気がする。
キャッチセールスの人が売っているように「ラッセンの絵」というのは、いかにも上手そうで、基礎技術は確かなものです。さらには彼の生活というか主張にも連動しています。
でも、絵画の価格ではなく、絵画自体に自分の意見を持っているような人がラッセンの絵を評価している例はいまだに知りません。
ラッセンの絵を悪趣味と評したがために、かえってラッセンが注目を集める悔しさというのは、わかります。
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20071110/1194659667
このエントリ関連ですね。
straymindさんのコメもなるほどと思いました。
また書けたら書きたい素材ですな。