くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

日本の教育の欠陥: 体罰にかわる強制力の欠如

2011年07月31日 | Weblog
私は教育における体罰を否定しません。

もっとも、体罰か虐待かは社会通念上一定の共通認識の形成は可能なんでしょうが、やはり主観によるところも大きく、それゆえにこそ、体罰の行使には難しい部分もあることは否定しません。今のように、ちょっとしたことで「虐待だ!」ということになれば、余計に厄介です。

そうしたあれやこれやの調整は必要なのですが、基本的に、言葉で言ってわからなければ、体におぼえさせるしかないと思っています。人間所詮そんなものだと。動物の調教やしつけと同じ。まあ、なかにはエサでつってしつけるという考えのプロ調教師もいますが、これに対しては同業からも「麻薬」と同じ効果しか期待できない。動物の食習慣、健康管理という点から長期的にみていかがなものかという意見もある。

で、日本の現今の教育だが、体罰はいかん!という。とはいっても体罰は行われている。それが外に出ればマスコミのえじきになる。が、全体的にみて、私が子どものときに比べれば今時の学校は体罰はほぼ無きに等しい。教師も怖くておいそれとできないのだ。

これは米国も同じ。驚くべきか、私のいた州は少し前まで法的には体罰は合法だった。そんな州は減りつつあるとはいえまだかなりあるはずだ(でも半分以下)。でも、実際合法州でも体罰はまず行われない。そんなことをすれば
体罰としてではなく虐待としてのレッテルを張られ、マスコミの集中放火、両親による損害賠償請求で、人生ズタボロにされることまちがいなし。向うの教師なんてのは日本とは比較にならないほどの薄給である。損害賠償なんてされても、何も出せない。

ただ、向うの教師には日本にはない強い見方がある。それが「校則」である。


ん、日本にも校則はある?


確かにそうだ。だが、向うの「校則」は違うのだ。日本でも管理教育が批判的にとやかくされ、こんなひどい校則があるなんてことが取りざたされるが、実は、自由の国アメリカの校則もなかなか細かいのだ。服装規定なんて、ほんとにこんな事こまかに守れるんかいな?というほどある。そして、日本と明らかに違うのは、校則の「威力」が違うことであり、それは日本とは異なった学校と保護者・生徒との関係というものが背後にある。

日本の学校は保護者に対して実に弱い、というか弱くなった。なかには学校や教師を舐めてかかってくる保護者もいる。子は親の背中をみてという。親が舐めれば子も舐める。

これに対して、米国の場合、学校が下した決定の威力は大きい。まあ、なかには訴訟を構えて抵抗するケースもあれば、あまりに杓子定規、理不尽な裁定に泣かされるというケースもなくはない。それはそれで学校の立場の強さの弊害なのだが、日本のように家庭の眼に怯えながらということはない。(ついでにいえば、校内での校長の権限も日本とは大違いで、日本の一部教員のような舐めたマネをしようものなら、雇用を危険にさらすことになる)。

居残り、停学、懲罰的土曜補習、場合によっては退学というのが、義務教育でも当たり前にある。退学ともなれば、
広いアメリカのこと。新しい学校に移るために家族ごと引っ越しなんてこともなくはない。


今の日本では居残りすらおいそれとはできない状況なのだ。


日本の教師はサラリーマン化してしまった。いやいや、昔に比べたらそうかもしれないが、アメリカなんかに比べたら気の毒なくらいに過酷な労働である。米国の教師の職責は、子供が学校にいる間のこと。校外で子供が問題を起こせば、それは家庭の問題である。が、日本ではそうはいかない。子供の不始末のたびに、校長がマスコミの晒し者になり、頭を下げさせられ、さんざんに責任追及され、精神的にも追いつめられる。校務、雑務の多さは、米国の比ではない。生徒指導も実にさっぱりしたもので、「校則」が片付けてくれる。

日本の教師は咽喉などの不祥事が多い。いやいや、アメリカでも多い。それほどマスコミが騒がないだけのこと。私の学生時代のホストマザーの元夫は高校教師で、教え子とできてかけ落ちして姿を消した。中学生の男子児童と性的関係をもち、裁判にかけられても、自らの非を認めない若い肉体に狂った女教師も一人ならずいた。

学力的にも率直にいって日本の教員の方が明らかに上である。


昔のアメリカでは体罰はあった。体罰が姿をひそめ、その一方でそれを校則と学校の権威が代替した。日本からも体罰は随分あるいはほぼ消えた。だが、それを代替するものがない。その結果、どうしようもないガキやモンスターなんとかという保護者を生み出した。人間社会における強制力と権威の不可欠性を思い知らされるが、それが十分にない今の教育現場には傍で見ていて同情すらしたくなるほどだ。

確かに学校側というか教員にも自業自得な部分もある。教師が権威と敬意を失った一因は、教師自身にもある。組合運動なんかに血道をあげれば、そりゃあ世間はシラケル。子供もシラケル。学校も教育委員会も含め、いささか官僚化し過ぎて、家庭の失望と信頼を買ったのも事実だ。

だが、強制力あるいは「恐れ」を失った学校現場、その点をなんとかしないと今の好ましくない状況は少しも改善しないであろう。





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