くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

「沖縄戦終結から65年」に思う: 「戦争は二度としてはいけない」だけで良いのか?

2010年06月24日 | Weblog
「戦争は二度としてはいけない。」


賛成だ。


だが、世の中有為転変だ。いつ何どき期せずして戦火を交えざるを得なくなるかもしれない。あるいは、戦うを上策とせざるを得ない局面に立ち至らないとも限らない。

そのような情勢下で、「戦争は二度としてはいけない」、「戦争反対」と唱え続けたところで、何の意味があるだろうか。下手をすれば座して死を待つことになりかねない。「平和」、「不戦」というものが、個人の「死」あるいは国家の「滅亡」という犠牲を払ってでもまもるべきだとはとても思えない。いや、これほどの逆説があろうか。本来、「平和」、「反戦」は、人の死を回避するための思想ではないのか。国家の滅亡を防ぎその繁栄のための思想か否かはいざ知らぬ。なぜなら平和反戦運動には反国家的な思想をもった連中も参加しているからだ。だが、我が身ばかりか他者の命までをも犠牲にしてまでも、平和・反戦はつかぬかれなければいけないなどという発想がまかり通るのであるとすれば、私からしてみれば、これはもう「危険思想」以外の何物でもない。

私は「反戦平和」というイデオロギーのために、我が身を犠牲にすることは御免こうむる。つまり、我が身に、我が国に危機が迫り、武器をとって戦う以外に他策なしという局面に立ち至れば、平和を破り敵を「殺す」ことになんらの躊躇もしない。むしろ「敵」という他者の命を奪うことを喜々として行いたい。

私は沖縄の人だけではなく、他の日本人にも問うてみたい。「戦争を二度としてはいけないはいいが、もし戦わざるをえない状況に追い込まれたらどうしますか?」と。

「戦わなくてもよいような努力が必要です」などというのは、答えになってはいない。「非戦の努力の最善を尽くしても不可避となったら?」という意味で私は問うているのだから。

それでも、沖縄の人たちは「戦わない」というのだろうか?


他の人たちは?

我が身や家族の生命が、自国の存続が危機にさらされても、戦う以外に危機を回避する手段がない状態に陥っても、「戦わない」という人間がいたとしたら、私は彼らを「同胞」とはみなしたくはない。「非国民」でもいいが、あえて「人でなし」との非難の言葉をぶつけたい。

もっといえば、存在していて欲しくはない「存在」でしかない。

本当に上述のような危機に直面した場合、そういう輩は一体どのような行動を取るのであろうか? 反戦平和をとなえつつ座してあるいは逃げまどいながら無抵抗のまま死んでいくのか。それとも我が身を守るために、反戦平和を貫くために、敵に降るのか。敵に降っても生命の保証が完全ではないとしたら、対敵協力に身を転じるのか?

可能性として否定できまい。人は所詮我が身が大事なのだ。

そういう危険性の秘めた「存在」の存在を放置しておいて良いのだろうか?

「戦争は二度としてはいけない。でも、戦うの已む無きに至っては、あえて戦う」、これこそが人として健全かつ真っ当な考え方ではないのだろうか。でも、「してはいけない」の後をなかなか大ぴらに言えない今の日本の社会、これはやはり異常である。




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