くまわん雑記

時々問い合わせがありますが、「くまわん」というのは、ある地方の方言です。意味はヒミツです。知る人ぞ知るということで。

空の神兵

2010年06月18日 | Weblog
私は結構軍歌が好きなのだが、知る限りでは、海軍系というか海軍ネタの軍歌はどうもいただけないものが多い。よくもまあこんなセンスのかえらもないような歌詞に曲に、と思うのが総体的に多いのだ。

一方陸系は、いくつかお気に入りがある。

その一つが「空の神兵」。高木東六の作曲だそうだが、あの時分に軍歌としては異色の曲調。いかにも戦局いまだ悪からずの頃のものだが、それから3年年数ヵ月後を思うと、何とも言えない気分にさせてくれる曲なのである。なんと言ったら良いのか、あまりにも逆説過ぎて、余計に敗戦のみじめさを否応なく感じさせられてしまう明るくも物悲しい滅びの匂いのする曲なのである。

反戦歌っぴのだが、「暁に祈る」も曲も歌詞も悪くない。

やはり反戦歌っぽく、「逃匪行」。これも曲がいい。


一方どうにもこうにもゲスに思えて嫌いなのが、「露営の歌」で、曲は好きなのだが、歌詞が気に入らない。特に二番は、最初から最後まで胸糞悪い。先帝陛下はあの曲をお聴きになられたことはあったのだろうか。二番の終わりまで聞かれて、いかが思召したか。父に死ねといわれ、戦友が天皇陛下万歳!・・・・。別に天皇陛下万歳が少しも悪いとは思わない。日本人として自国の象徴の万歳を叫んで何が悪いとすら思うのだが、あの歌詞だけは胸糞が悪くなる。

そうそう、個人的には「水師営」も好きだ。曲の荘重さが乃木大将にふさわしいと思うのは、私だけ?
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大相撲野球賭博問題、今更だとは思うのだけど・・・

2010年06月18日 | Weblog
私からみれば、なぜ今更騒ぐという気もする。

勝負師が賭博を好む傾向にあるというのは、何も相撲取りに限ったことではない。そこにきて、元力士の一人がTVで行っていたが、あの目立った風体でおいそれと競馬や競輪の類に足を運ぶこともできない。

それにあの狭い「世間」のなかで賭けごとなどというのは、今に始まったことではなく昔から、その昔も江戸の昔からのお話しであり、その頃の「賭け」なんてのは下手をすれば人の命にもかかわるような大ごとになる可能性すら秘めていた。そうした世界の「伝統」みたいなものをなぜ今更騒ぐのか、叩くのかという気がする。

昨今スキャンダル続きの相撲界を「水に落ちた犬」とするならば、それをマスコミがあえて叩くという構図に見えて仕方がないのだ。


こういうと、賭博の背後には暴力団が介在しており、公益法人である相撲協会に属する力士が反社会的勢力に資金源を供給するような行為は言語道断!という批判が返ってこよう。

御説御尤もである。それは正論である。

しかし、大相撲と反社会的集団と呼ばれる連中とのしがらみもまた今に始まった話ではない。「興業」とそうした連中との密接なつながりは昔からのものであり、これもまた今更になってとやかく言ったところで、社会の一つの構図であり続けてきたのが現実ではないのか。そのなかにどっぷりと浸かって生きている力士や元力士の親方連中に向かって上述の一本槍で批判を浴びせたところで、彼らも「それでは、そうした反社会的勢力とは金輪際すっぱりと縁を切り」などと表向きには言えても、実際問題言葉通りにはできまい。

文科省だって今までそうした事実を知らなかったはずはあるまい。見て見ぬふりをしてきたはずだ。

マスコミもそのはずだ。

それをこの期に及んで、一斉に手のひら返したように相撲界を叩く。では、監督官庁としての文科省の今までの対応に問題、責任はないのか。「社会の公器」を自任するマスコミは、問題の所在を知りつつも今まで看過してきた「公器」としての「不作為」を
批判されるべきではないのか。

そもそも、マスコミのなかでも芸能界と持ちつ持たれつの関係にある映像マスコミは、相撲界を批判する立場にあるのだろうか?
相撲界を叩くのなら、芸能界と反社会的勢力との昔からの関係も叩いてはどうか? 警察とそれらとの関係もえぐってみたり、暴露してみてはどうか? そんなことはまったく知らない、知らなかったなどというふざけた言い訳は通用しない。例えば、山口組三代目と「お譲」の関係は昔から周知の事実のはずだが、それにもかかわらず「お譲」で飯を食ってきたのがマスコミではないのか。

もっとも、「お譲」は実弟の不始末をマスコミにとやかくされ、某国営放送の年末番組出場を辞退するに至るが、その時このスキャンダルを騒ぎ立てることで飯を食ったのもマスコミだった。

正論を振りかざす一方で、時にはヤバイことを知りながら持ちあげてメシのタネとし、時にはさんざん叩いてやはりメシのタネにする。メシのためなら何でもありというのが、マスコミであり、今回は相撲界がその餌食にされているということではないのか。


とはいっても、相撲界に対する世間の目線はすっかり醒めきっている様子である。ただでさえ日本人力士の体たらくや、相撲自体が面白みを失った結果、人気は下がりっぱなしである。そこへもってきての暴行死事件に、朝青竜問題、大麻問題、そして今回の賭博。賭博は今に始まった問題ではない、相撲興行と反社会的勢力の関係は昔から、といったところで説得力はない。

となれば、やはり相撲協会としては時代に歩み寄るしかない。これ以外の現実的選択はあるまい。

まずは、一部が主張するように、金銭的に協会およびその周辺は被る被害は甚大であろうが、名古屋場所を休止としてはどうか。

当分は天覧相撲の類も遠慮すべきである。もっとも、それ以前に陛下や相撲好きな愛子様も今の状況で国技館にはお越し願えまい。宮内庁がそれを許さないだろう。

続いて、教会組織の大改革であり、理事長を含めた理事会のメンバー構成を元力士以外中心のものに改組し、協会運営の実権を元力士の手から切り離すべきではないのか。理事長は外部からしかるべき人物をもってきて当てるべきである。率直に言って、利力士や元力士に、公益法人を円滑に運営していく能力や経験があるとは思えない。まずはどう考えても彼らの知的能力は決して高くはない。教養の類もどう考えてもさほどあるまい。しかも10代、遅くとも20代前半に「相撲界」という狭く特殊な社会に入り、それ以外の世間を知らないままにきた人々である。そんな人間に社会通念に基づいて等と説教しても、あまり理解されないであろう。ならば、彼らから協会運営の実権を奪ってしまうしかないのではないか。

相撲協会にとって特に運の悪いことには、理事長が武蔵川であるということだ。「理事長は日本人の心がわからない」とまるで東郷外相に軍部が言い放ったようなことはすまいが、やはりその出自ゆえに思いきった行動は取れないのではないだろうか。半島にルーツを持つ相撲取りは武蔵川だけではない。古くは力道山もそうだ。武蔵川自体、横綱になれた。またあの大横綱も純粋な日本人ではない。民族的に日本人ではない横綱は昔からいるわけだし、民族的に日本人ではない人間が理事長にまで昇りつめたことからも、相撲界があながち閉鎖的、守旧的な社会とは言い切れないようにも思える。が、やはり理事長ともなると、ましてや旧習に重大な変更を加えようとすれば、出自が障害になるのではないだろうか。

一部では元鷲羽山の出羽の海が理事長ならという声もあるという。が、この際、武蔵川は引責辞任し、新理事長ならびに新体制はこれまでとはまったく違ったものにしつつ改革を行うというのは?

子供の頃から相撲に慣れ親しむ者としては、今の惨状は実にもどかしい限りである。
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