チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ヴェネツィアの恋人

2013年03月10日 23時55分00秒 | 読書
高野史緒『ヴェネツィアの恋人』(河出書房13)

 高野史緒初の短篇集――なのだが……あれ、これだけ? もっと書いてるはずよなあ。二分冊という形なんでしょうか。
 とまれ、まずは冒頭の「ガスパリーニ」を読みました。
 うーん。いいですねえ。というか、劈頭から超傑作をバシンとぶつけられた感じ。
 音楽小説です。音楽小説にして芸術家小説というべきか。「楽器はね、人を見るんです。自分にふさわしい弾き手を選んで、自分からその人のところにやって来るんです。不思議でしょう? 人はその命令に従わなければならない」(18p)という、前半に出てくるこの言葉が、本小説を語り盡しています。その意味で、主題は「運命」といってもよいかもしれません。
 主人公は日本人女性でヴァイオリン弾きの音楽家(の卵?)。それなりの自負心を持って東欧の音楽院の講習会に参加するも、井の中の蛙であったことを思い知らされ、放心状態で帰途に着く、というよりも急いでその地を逃げ出す。
 物語は、そんな次第で鉄道に乗ってパリまで来た主人公が、なんとなくふらふらと(おそらく)東駅で降り、メトロ(おそらく4号線)でモンパルナスの駅に降りたところから始まります。
 この発端のシーン、(当板で何十回となく唱えて耳にタコができておられるかもしれませんが)まさに「幻想小説」の開始を意味する「シグナル」ですね。「城」しかり。「クレプシドラ・サナトリウム」しかり。本邦でいえば「神聖代」がそう。
 主人公の女性と一緒に、我々も又、鉄道を降りて「幻想のパリ」に迷い込みます。
 それにしても、なぜ主人公はふらりとここに来てしまったのでしょうか? それはいうまでもなく上に引用したとおり。定まったことだったのです。「私が流れ者のようにこの街にやって来たのも、すべてはガスパロのヴァイオリンが私を選んだが故なのだ」(27p)。タイトルの「ガスパリーニ」は、このガスパロのヴァイオリンのこと。ストラディバリのそれのような名器なのでしょうか。
 主人公は(おそらく)リュクサンブール宮殿の近くのホテルを宿とするのですが、これも定まっていたこと。そして又、ホテルのオーナーが、最近、このガスパリーニを(もう一軒所有していたホテルを売却してまでして)購入していたというのも、オーナーは自分の意志だと思っていますが、実はガスパリーニが、そう仕向けさせたのだったのかも。
 楽器とは音楽家にとって何でしょうか。「それは異世界の生命体の一部だ」「ヴァイオリンとは何処とも知れぬ世界からこの世に突き出されたそれの器官なのだ。それが放出する音楽という毒液を私の体内に注入するための手段なのだ」(23p)。このイメージがいいですねえ。そしてそれが一般論ではなく、具体的な事実を述べたものであるのも、この小説世界が「幻想のパリ」なのだからでしょうか。
 これを異空間から触手をのばして音楽家の魂を絡めとるために、はるけくも「16世紀の半ば頃からずっと私を待っていた」(このイメージもよいです)「古きもの」の眷属とみれば、本篇はたしかに、あの邪悪な神話の一エピソードともみなせるわけで、そういえば、ふと「エーリッヒ・ツァン」を思い出したのも、あながち故ないことではなかったのかもしれません(^^;

「錠前屋」

  レシ  
 お話は、マリー・アントワネットが断頭台の露と消えてから2か月後、フランス革命共和暦2年フリメール20日(1793年12月10日)に開幕します。  
 パリの法学校を卒業し、6年ぶりにセーヌ川沿いのノルマンディーの鄙びた田舎町に帰郷したヴィクトールは、安酒場で錠前屋の男を見かけて驚く。なんとマダム・カペーより早く一年近く前に処刑されたムッシュー・カペーにそっくりだったからです。  
 聞けば錠前屋は、半年ほど前、どこからともなくやってきて町はずれにひっそりと居ついたのだそうで、町の人々とは殆んど交際がなく、ただし腕は一流で、町民は不気味がりながらも重宝していたのだそうです。そのときヴィクトールの脳裏に「身代わり」という言葉が浮かびます……  
 ヴィクトールが「身代わり説」を思いついたのは、たまたま手に入れた青本(当時のフランスでは大衆向きの小説の類(青本)を行商する商人がいた)が、不思議な青本で、発行年が2000年となっており、その内容といえば、脱出未遂に終わったヴァレンヌ事件の際、ルイ王のみ身代わりと入れ替わることに成功します。実は彼を救出したのはチェス人形「トルコ人」(「デカルトの密室」にも出てましたね)で有名なケンプラン男爵らで、錠前屋などに身をやつして田舎に隠れ潜み、密かに制作した機械人形軍団「神の援軍」をもって共和派に復讐してゆく……そんな話を読んでいたからです。  
 しかもヴィクトールは、町で3か月前から埋葬者の皮が剥がされるという猟奇事件が起っていることを知ります。このふたつの状況証拠が、彼の頭のなかで一つになったとき……  
 いやー本篇も非常に面白かった。あまりに面白すぎて、私の妄想はさらに展開していくのです。なぜ主人公の名前はヴィクトールなんでしょうか。この小説世界の年から26年後の1816年(ヴィクトールは46歳です)、レマン湖畔のディオダティ荘で語られたお話に登場する重要人物の名は、一体何という名前でしたっけ(笑)。本篇は幻想のフランス第一共和国の田舎に起ったお話。その世界が、四半世紀後にジュネーブに現出した幻想世界と通底していても、ちっとも不思議ではないんじゃないでしょうか(>おい)(^^;

「スズダリの鐘つき男」  
 今回の舞台はロシア平原のど真ん中。モスクワから東北に4時間半の町、スズダリ。実在する町です。(→この画像はネットで見つけたスズダリ全景。まさに著者の描写どおりのたたずまい)  
 なのですが、主人公は「車」でこの地に到着して、本篇は開始されるのです。幻想小説の定義(笑)に照らして、著者の誘うこの地が、トラベルミステリーのごとき、現実のスズダリではないのは言うまでもありません。  
 というか、この小説世界自体が、「この現実世界」とは何ほどか異なっている。モスクワ南郊のヤスナヤポリャーナには宇宙港が存在するらしく、スズダリでも明け方には「ヤスナヤ・ポリャーナから軌道上に打ち上げられる貨物定期便の光芒と軌跡」(66p)が望めるようです。ではこの世界は未来のロシアなのか?  
 どうもそうではないらしいのです。この世界では、ソ連が依然として続いているらしい(例えば65p「党の意向」、70pの宗教を偉大に見せるわけには行かない党の苦悩、82p「政治犯」「西側」、83p「この無神論の国」等から判断)。つまりSF的にいえば、本篇の作品世界は別の時間線ということになり、未来なのかどうかは確定しません。  
 だからかどうか、きわめつけは主人公で、彼はスイス人(65p、90p)で医者(精神科医?)。スズダリの北のはずれのスパソ・エフフィミエフ修道院(→修道院の画像。イワンが自転車を立てかけたのは、一番上の画像(案内図)の(1)の位置でしょうか)に付設された精神病棟に、治療と自説の研究のためにチューリヒからやって来たのですが、元型などと口走り、チューリヒ湖の畔に「自ら石を積んで造った別荘」(94p)を所有しているというのです。とくればこの男、誰あろうC・G・ユングその人じゃないですか(^^;。まさに手術台の上のミシンとこうもり傘。  
 宇宙基地がすでに存在し、遺伝子工学の発展が国際紛争を巻き起こすほどになっている(77p)この近未来的世界において、ユングがやって来た中世的な修道院の精神病棟は、19世紀生まれのユングですら驚くほど、前近代的なままの隔離政策が取られている。それは逆にいえば、ユングにとって、理想的な研究環境だった。自説に都合の良い結果がどんどん出てきてウハウハのユングでしたが、その意味するところにはっと気づいたときには……既に魔の手が背後に忍び寄っていたのでした!?  
 追記。スイスの山国育ちのユングがロシアの大平原のただなかでアゴラフォビアに罹るのだが、これはひざポンでした(<おい)(^^;  
  
 いやあめっちゃ面白いです(^^)。本篇に至って、高野史緒の近作に連なるモチーフが現れはじめましたね。しかしそれにしても、よくもまあ、こんなヘンテコな話を思いつくものですなあ。そのイマジネーションに脱帽。  

「空忘の鉢」  
 いやー面白かった。本篇、まず言語SFとしての一面があります。舞台はアンドロポフ時代(1985)のソ連。カザフ共和国の首都アルマ・アタです。主人公はカザフ大学の助教授で、専攻は失われた古代言語の黄華文字。  
 かつてシルクロード国家の一つに黄華国があった。中国とカザフの国境のアラタウ山脈の山中に存在したとされます。何の変哲もない小国というのが定説だったが、主人公はその国に独自の文字があったことを発見する。それは漢字に似た表意文字で、偏や冠などの部首を複雑に組み合わせることで、漢字6文字分をたった一文字で表せられる驚異の文字だったのです。しかも庶民が通常用いるのではないらしい(未解読の)太陽文字となると、一体どれほどの影響力があるのか!(読者は後で思い知るでしょう)  
 余談ですが、おそらく著者は執筆中、ディレーニイ『バベル17』を間違いなく意識していたと思いますね。ディレーニイ何するものぞと(>おい)(笑)。たしかに黄華文字、いや太陽文字となりますと(あとで判明するのですが)ディレーニイが生み出した超言語バベル17以上のとんでもない威力を発揮します!  
 閑話休題。主人公は文献考証で、黄華国の比定地を割り出します。中ソ国境という場所が場所だけに、現地調査は端から許されるとは考えられません。そこで主人公は、ソ連の軍事衛星が当該地域を撮った写真の閲覧を、党と軍に懇請します。現在なら10センチ、20センチ単位の解像度らしいですが、1980年代当時の解像度でも、遺跡の存在の有無くらいは簡単に識別できそうですね。いや、実際できたのです。ただし・・・(えーはっきり書きたいところですが、さすがにこれを書いてしまうわけにはいきません。よって以下略!)(^^;。  
 ともあれそういう経緯で、参謀本部情報局が興味を示します(スパイの暗号に格好の言語ですものね)。主人公は戦略ミサイル軍の高級将校に呼び出されます。
 ――このような設定だけ見れば、幻の超表意文字をめぐって中ソのスパイが暗闘する、あたかも山田正紀の書きそうな冒険SFが想像されるわけですが(実際主人公の周囲には中国スパイの影が……)、もちろんそんな展開にはなりません。著者はここで、第二のアイデアを投入します。  
 主人公を呼び出した黒髪の将校は、主人公自身が驚くほどその研究成果に通じていたのです。将校は主人公が発見した、漢語と黄華語が併記された古文書を話題にします。それは「空忘の碗」というべき物語(史実?)で、明の宣徳帝によって幽閉されていた黄華の陶工が、「空忘の碗」によって脱出し故国に逃げ帰ったという内容。そうして将校がおもむろに取り出したのは、うっすらと翠色を帯びた、おそろしいほど薄く美しい碗でありました。主人公はその碗を見つめているうちに、すっと気が遠くなりかけ……。  
 この古文書に記された短い物語が大変良いのです。まるで「聊斎志異」のなかの一篇。そういわれても違和感ありません。そしてこのあと、小説世界は一気に確固たる輪郭を喪い幻想性を帯びて、本篇そのものが「聊斎志異」のなかの一篇であるかのように、変容していきます(冒険SFとは全く異なる世界観が開示されます)。  
 冒頭でも言いましたがもう一回言います。いやー面白かった。しかもなお、本篇、10年後のラストシーンがこの作者には珍しくハッピーエンドに(ハッピーエンドでしょう!)大団円に収まってゆく。スパイ衛星のカメラにも捉えられない不可視の国の人情に、心地よく頁を閉じたのでした。  
 ↓はアルマ・アタ(アルマティ)の戦没慰霊碑と〈永遠の炎〉→画像リンク元








「ヴェネツィアの恋人」 
 著者の作品にはめずらしく、SFのフレームで解釈しやすい話で、一読、想起したのは眉村卓『夕焼けの回転木馬』でした。  
 本篇の起点はヴェネツィアの或る夜です。マルセイユの劇場で、まだ群舞を舞う踊り手の一人でしかなかったヴィオレッタは、客演に赴くプリマに帯同して行ったヴェネツィアの劇場で、若者ホルツァーと運命的な邂逅を果たす。  
 この時一体何が起こったのでしょうか。翌朝、ヴィオレッタのもとからホルツァーは姿を消しており、ホルツァーのもとからはヴィオレッタが姿を消していたのでした。  
 SF的には、ふたりの時間線がこのとき分岐したのだと私は想像します。その結果として、それぞれの時間線上の相手(ホルツァーの時間線上のヴィオレッタ。ヴィオレッタの時間線上のホルツァー)は、ヴェネツィアでの記憶を持っていません。それでも、直接の記憶はなくても無意識裡には相手を特別な存在として(予め)知っていて(この知っている者は、ひょっとしたらユング的な何かかもしれません)、あこがれを抱いているのです。で、再会して、否、再会ではなく憧れの人に初めて出会って、そこで聞かされた、自分の記憶にない「ヴェネツィアの運命的邂逅」が、たしかに無意識の奥底から事実のような確信を持って浮上してきます。  
 そのとき、彼(彼女)の前に、(そこには確か何も存在していなかったはずの)占いの店が出現する。彼(彼女)は抗いがたい力に促されるように店に入っていき……  
 ここからふたりの、無数の並行世界での出会いと別れが繰り返されていく。それが『夕焼けの回転木馬』の、別の時間流にどんどんはね跳ばされていく物語を想起させたのでしたが、又私はそれとは別に、占いの店の存在形式には人がそれを必要とした時にその人の前にひょいと出現するイシャーの武器店を重ねてみてしまいましたし、占い女の意図は判然としないながら、その結果、永遠に出会い、すれ違っていくふたりの関係は、時間シーソーとなって行ったり来たりしながら次第に遠く離れていってしまうマカリスターの運命を感じてしまったのですが、これはさすがに読み過ぎですなあ(^^;  

「白鳥の騎士」  
 面白かった。白鳥の騎士とは、言うまでもなくローエングリン。  
 言うまでもなく、というのは、ちょっと知ったかぶりでしたかね。実はワグナーも歌劇も殆んど知らないのです。ジャズ住職が最近、というか、もう1年以上前からずっとワグナーを聴きつづけていまして(→ここ)、何をトチ狂ったのか(だって志向性がジャズとはまぎゃくじゃないですか)と思う一方で、そんなにいいのん?ワシも聴いてみようかなと思っていたところ、そんなレベルです。  
 本篇、筆法(スタイル)が本集中では異色で、いわば「ストーリー」本位で書き上げられています。要するにリニアな、長編小説の筆法ですね。他の収録作品は、一応時間の流れはありますが真のストーリー性はなく、一種「絵画」のように現前していて、読者は、絵画を鑑賞するとき鼻の先まで近づいて部分を見たり後ろに下がって全体を見たりするように、何度もふりかえって確認したり、それを頭のなかで全体の中での位置を確認したりしながら読み進めていく、そういう風に読むべく、作られているのに対して、いわば三銃士やああ無情のように、順々に読んでいけばよい。というかだれでも自然にそういう風に読むでしょう。  
 したがって読後の印象は短い長編小説です(もっとも実際200枚以上あるわけで、純文学の通例ならばじゅうぶん長篇の範疇です。この作品一本で一冊の本だったとしても十分ありえます)。  
 要するに本篇は物語なんですね。主人公はバイエルン王ルートヴィヒ2世。この王は多くの作品でそれこそいろいろな視座から描かれ、既に描き盡されているといってもよいですが、本篇の狂王はこれはまたとんでもない、一種オールディス的に涜神的なキャラクターに造形されています(本集中では「空忘の鉢」の主人公に近い)。  
 舞台はルートヴィヒ王治下のバイエルン王国。政情的にはプロイセン主導の統一への潮流にさらされているのは史実通り。  
 ところがこの国の存在する時間線では、19世紀末のこの時代、すでにテレビが存在し、さばかりか爛熟の極致の様相を呈しています。  
 このテレビが、白黒の「ぱちりという安っぽい音の後に、低い唸りとともに画面が明るくなり始め」「硝子管が温まるのに数十秒」というシロモノ。昭和30年代後半の光景を想起せずにはいられません。客観的には進みすぎているテクノロジーなのですが、読者からすればなんとも甘美に懐かしくもあって、南ドイツの小国があたかも三丁目の夕日のとなり町あたりに錯覚されなくもなくて楽しい。  
 放送される内容も、雑多な報道記事、醜聞、噂、憶測、そして茶化し、と、この時間線のテレビ同様なのですが、唯一異なっているのが、この幻想のバイエルン王国ではワグナーの楽劇番組が大変な人気で、新作が発表される一方で、異版、再解釈の別バージョンが同時並行的に作られたりしていて「貪欲に消費し尽くす視聴者たちにさえ目眩をおこさせる」ほど。ワグナー楽劇のテレビスタジオである「祝祭歌劇場」の消費電力は、実に首都ミュンヘンの消費電力の四分の一にも達する。幻想の都ミュンヘンは、幻映の都でもあったのです。  
 当然ワグナーの人気は大変なもの。その筆頭がルートヴィヒ王でありまして、その熱狂的傾倒ぶりたるや、政務はそっちのけ、もはや狂気の域に達しています(摂政ルイトポルト公が実権を持って切り回しているのは現実どおり)。その結果、ルートヴィヒはかれこれ20年以上公式に姿を見せていません。若き日の映像だけが日夜テレビに映し出されていますが。  
 そんなルートヴィヒ王、以前からネ申ワグナーに会いたくて仕方がない。しかし、なかなか叶いません。というか現実のワグナーに会うことが出来たものは、関係者でも一部の者以外全く存在しないというのです。  
 そこで病膏肓に入った王様、遂に意を決して単身王宮を脱け出します。そしてミュンヘンの地底に展がる広大な地下世界の何処かに存在するという「祝祭歌劇場」めざして、いわば「ミュンヘン地下オデッセイ」というべき冒険行が開始されます!  
 この地下世界が実によいです。地下世界は多層になっており、最上層は工場地帯で、そこでは教養人ルートヴィヒ王とは正反対な、文化の欠片も持ち合わせない工場労働者たちが働いていました。そしてそのさらに下層が、労働者たちの生活圏で、「電気の照明でかろうじて正気を保っている闇の世界」ながら、「入り組んだ迷路に小さな部屋や飲み屋が詰め込まれ、そこかしこにテレビが光っている」のです。  
 まさに乱歩的風景が現出しているのです。  
 さて「祝祭歌劇場」をめざすルートヴィヒですが、なかなかそこへ至る道が見つからない。持参した食料も食べつくし途方に暮れていたところ、与太者めいた男たちに袋叩きにあいます。そこに突如現れて与太者たちを剣戟で追い払ってくれたのは、凛々しい武者振りの男装の少女「聖杯の騎士パルジファル」でした。実は彼女も「祝祭歌劇場」を探していた。意気投合したふたりは共に「祝祭歌劇場」をめざすのですが……  
 行く手に広がる闇の地下世界――ふたりは無事「祝祭歌劇場」に辿り着けるのでしょうか!?  
 いやそんなストレートな話じゃないのです。最後に明かされる驚愕の真相は……実際に読んでのお楽しみということで。  
 これはぜひとも、「ワグナーSF傑作選」にはイドリス・シーブライト「ヒーロー登場」と共に必ず収録して頂きたいですなあ(>あるのかそんなアンソロジー)(^^;。  

「ひな菊」  
 本篇の舞台は1952年夏、レニングラード郊外の保養地レーピノ。ここにソ連作曲家同盟の保養所〈音楽家の家〉があります。グルジアの中学理科教師ニーナは、趣味でやっているチェロの演奏を、たまたま当地を訪れたショスタコーヴィチに(演奏よりもむしろ作曲を)みとめられ、作曲家同盟が開催する二週間の『才能ある市民音楽家のためのキャンプ』に抜擢招集される。  
 このときショスタコーヴィチはレニングラード音楽院の教授ではなかったのですが(1948年ジダーノフ批判)、その後猫をかぶって社会主義リアリズムの称揚に邁進し、往年の地位を取り戻しつつあり、それくらいの「横槍」は可能だったようですね。  
 だいたい、ショスタコーヴィチって、クラシックに疎い(中学高校の音楽の授業で止まっている)者には、御用音楽家のイメージが強いのではないでしょうか。ウィキペディアなどを確認すれば、それが今言った猫かぶりだった、それも極めて巧妙な猫かぶりだったことが分かります(1936年プラウダ批判からも復権している)。  
 このへん作者も、「私のように、ソヴィエト市民の風上にも置けないろくでもない奴だと言われながらも、彼らの喜ぶ言葉遣いで話すすべを身につけている者(……)は、それでも生き延びることができる」と、作中のショスタコーヴィチに言わせていますね*。  
 しかしながら、この(作中の)ショスタコーヴィチ、音楽の才はどうであれ、人間としてどんなものなのかといえば、もとよりそれと楽才とは相関するはずもないわけです。実際のところニーナが選抜された(ショスタコーヴィチの口添えがあった)理由も純粋に音楽的見地だったのかどうか。  
 それはさておき、〈音楽家の家〉で主人公は、遠い親戚で、数年前に認められレニングラード音楽院に入ったマルガリータに再会します。主人公は、彼女の知っているガキ然としたマルガリータが、年齢以上に妖艶に成熟しているのをみて驚かされます。  
 そのマルガリータをひそかに注視している男がいた。それも男女の関心のせいではなく、純粋に学術的な興味故に。  
 男は音楽院の校医で感染症の専門医。彼は当時ソ連を席巻していた「獲得形質も遺伝する」とするルセンコ学説を、(監視国家相互告げ口国家であるがゆえに)誰もがそれに、(内心は別にして)異を唱えないなかで、あっけらかんと公然と批判してはばからないところがあって、主人公も少々腰を引き気味なのですが、彼はソ連の音楽関係者に、感染力は極めて弱い未知の感染症が、その弱さを補うためある種のホルモンを感染者に増大させ、音楽家という一種の孤島に住む人々のみに、広がっている可能性を予想していたのです。それはむろん、ウィルスの利己的行動なのですが……。  
 かくして物語は、校医に好意を持った(感染者)マルガリータが、主人公と校医の仲を疑ったことから、予想もしなかった結末を迎えるのでしたが……  
 ショスタコーヴィチ、ルイセンコ学説、スターリンソ連というお題が、きっちり一つにまとまるラストは見事。翌年の1953年は、そういう年だったんですねえ!  
*というような知識は予め持っていないと、本編の面白さは半減すると思いますので(ショスタコーヴィチと校医の対比とか)、はばかりながら贅言を加えさせていただきました(^^;。  
追記。あ、*註は、作者に「もっと説明しろ」と言ってるんじゃないですよ。逐一説明を入れられたら折角の小説の美しい姿が完全に消え去ってしまいます。これでいいのであります。念のため。  
 ということで、高野史緒『ヴェネツィアの恋人』(河出書房13)の読了とします。  

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