チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

明日を越える旅

2007年01月14日 18時53分59秒 | 読書
ロバート・シェクリイ『明日を越える旅』宇野利泰訳(ハヤカワSFシリーズ、65)

 ラファティ『宇宙舟歌』の感想文で、『宇宙舟歌』を、『脱走と追跡のサンバ』や本篇『明日を越える旅』と並べてその類似性を指摘したことがある(あとで「タイタンの妖女」も追加)。その稿では、伊藤典夫が筒井康隆を評して「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」といったことに引っ掛けて、「実のところ他ならぬシェクリイだって、案外「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」だったのではないだろうか」と書いたのだったが、これは我ながらいい得て妙であったなあ、と本篇を再読して、私は改めてそう感じたのだった。

 これらの3篇(乃至4篇)は、ホメロス的遍歴譚であることをいわば共通のモチーフにしており、オデュセウス同様不可抗力的な運命(偶然)に巻き込まれる姿を、併し一種喜劇的な様相を湛えた不条理小説として描いている点できわめてよく似かよっている。とりわけ本篇は、「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」の典型的作品で、そのなかに籠められたニヒリズムとそれに裏打ちされた皮肉な、併し文明批評的な視線は、むしろ「テンポがのろくて場面転換のない筒井康隆」といいたいほど。

 たしかに第1作品集『人間の手がまだ触れない』(原書、54)のシェクリイは「テンポがよくて場面転換のあざやかな」シェクリイであった。しかしそれは、ある意味シェクリイが自身の「主体性を封印」することによって可能となったものだったように思われる。だがシェクリイはそのような窮屈な書き方に、次第に不満を覚えていったのではないだろうか。
 ひきつづく『宇宙市民』(同、55)や『地球巡礼』(同、57)から本書の前作『ロボット文明』(同、60)までを時系列的に通読すると、シェクリイが次第にその作品世界に主体性を反映させていく過程を辿ることができるかも知れない。その意味で本篇(同、62)において、読者はシェクリイがスマートな「短篇の名手」の殻を完全に脱ぎ捨てた姿を見ることができるだろう。

 電力会社に勤める父の仕事の関係で、タヒチ近傍の南海の島で(文明の汚濁にまみれず)育った主人公は、父の死後、電力会社から父の仕事を引き継ぐように要請され、受諾する。ところが世界経済の悪化によるアメリカの本社の政策変更で当地の電力事業は放棄され、主人公は失職する。そのため主人公はアメリカにわたって一旗あげようとするも、着いた先のサンフランシスコで知り合った麻薬中毒の娘を官憲から救おうとして逆に逮捕され(当の娘は金持ちの親の力で即釈放される不条理)、共産党のスパイ容疑までかけられ(ここで「法」という「不条理」が考察される)、10年の刑と10年の執行猶予が(やはり法の不条理により)確定する。その後、主人公は刑務所の中が実は(ある種の人々にとっては)ユートピアであることを知ったり、ヒッチハイクで乗せて貰ったトラックの三人の運転手の、かつて正義を信じていた男が科学に、科学に裏切られた男が宗教に、宗教に見捨てられた男が正義に、それぞれ新たな価値を見出した身の上話を聞き、結局三人ともおのれの受難にばかり気を取られて他人の体験から何も学習していないことに失望する……

 という具合に、「シェクリイらしい」価値転換が、ただし初期とは違って単なるストーリー上の技法としてではなく、主体性の問題として「のろいテンポで場面転換もなく」語られ、最後は何ともばかばかしい行き違いで世界があっけなく破滅するゆくたては、『猫のゆりかご』のそれにまさるとも劣らず、その凄まじいまでの「やる気のなさ(?)」に溢れたニヒリズムには、間違いなくヴォネガットに通底するものがあるように感じる。

 以上のような次第で、この作品は、このようなスタイルで書かれなければならなかったのだ……という必然性を、私は強く感じるものだけれど、ただ初期の作風に「シェクリイらしさ」を感じる読者には、本篇が「シェクリイらしく」なく映るのはある意味仕方がないのかもしれず、福島正実が解説で「その作品としての評価は海外では中程度」というのはまあそうだろうなと納得もするし、同時に「筆者などは、彼の代表作としてもいいと思っている」という力こぶを籠めた評価には大いに共感するのである。
  〈装幀〉中島靖侃
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紀伊国古墳空白期と武内宿禰

2007年01月14日 14時05分05秒 | 別天古代史
 (財)和歌山県文化センター編『謎の古代豪族 紀氏』(清文堂、99)を読んでいて、いささか空想心を呼び覚まされたので、備忘として記載しておきます。
 本書は97年に行なわれたシンポジウム「紀伊国がひかり輝いた時代――謎の古代豪族 紀氏」の記録集で、講師は水野正好(奈良大学)、栄原永遠男(大阪市大)、永島暉臣慎(大阪市文化財協会)、中村貞史(紀伊風土記の丘)、大野左千夫(和歌山市立博物館)。

 本書で特に触発されたところは、和歌山には3世紀末から4世紀末にかけて、他の近畿地方と比較して古墳が質量ともに極端に少ないという事実(100メートルを超える前方後円墳は皆無で、4世紀前半と目される秋月古墳がぽつんと唯一、その後は4世紀末5世紀初頭の花山古墳群まで空白)。
 当地が、当時人跡稀な地域であった訳ではなく、紀ノ川は大和川と並ぶ大和への大動脈であり、河口はヤマト王権の重要な大陸への基地(後述する武内宿禰と同時代の仲哀天皇も紀伊津<徳勒津>から九州へ出発している)であったわけで、非常に不審であると本書に収められた「討論会」の記録でも話題になっています。

 「紀氏の中枢は、都のある大和河内へ出て執政を助け、「紀臣」のような立場になり、大和朝廷を動かす重要人物になっている、そうした可能性があるのではないか(……)大和で大きな古墳を作っているかもしれない」(135p)

 この議論を読んで、直ちに閃いたのは、武内宿禰の存在なのでした。
 紀によれば、武内宿禰は崇神天皇の異父兄である彦太忍信命の子・家主忍男武雄命を父、紀直遠祖菟道彦の娘・影姫を母とします。
 ところがその一方では、武内宿禰の子供である紀角宿禰を以って紀臣の祖とされています。紀直と紀臣は別系統ということなのかもしれませんが(本書では、同族であり6世紀に分かれたとされていますが)、武内宿禰の「内」が大和国宇智郡(五条市)であると比定される(岩波「日本書紀」註に拠る)ところからも、武内宿禰が紀州在地の豪族(紀直遠祖?)を後ろ盾として中央で活躍していたことは間違いないのではないでしょうか。

 おそらく武内宿禰は五条市に居館し、北は御所市、西は橋本市あたりまでを本拠地としていたのかも知れません。今でこそ五条市と聞けば奥地の印象ですが、御所からは水越峠を抜ければ、橋本からは紀見峠を抜ければ、当時の表玄関である河内湾南岸まで指呼の間ですし、大和から紀ノ川水運を利用する際の元締め的な立地であったはずです。

 つまり今から思えば、五条市地域は大和王権の南の大門だったのであり、逆にいえば大和王権の首根っこを押さえるピンポイント的要所だったんですね。しかもあれほどの傑物ですから、彼は当然紀ノ川沿いの紀直遠祖氏本貫地域も直轄して、最も重要な紀伊津を管掌していたに違いありません。

 その武内宿禰ですが、彼はいつ頃の人であるのか?
 私が比較的信頼している山本武夫『日本書紀の新年代解読』には「武内宿禰の年齢」に関する考察があります。本稿では根拠を引用しませんが(興味のある方は各自で当ってください)、それに従えば武内宿禰は(324~341)年生で(417~442)年没とされています(ただし442年の根拠は「玉田宿禰がこの年武内宿禰の墓域に逃げた」という記事に拠るので442年には確実に亡くなっている。没年はもっと以前と考えられる)。
 つまり武内宿禰は(実在の人物だったのならば)4世紀前半から5世紀初頭にかけて生存していたことになり、これは実に紀伊国の古墳空白期と重なるのです。

 何を仄めかしているかといいますと、秋月古墳の埋葬者(影姫の父親菟道彦?)が死んだ後、紀ノ川沿いの紀伊国を支配したのが他ならぬ武内宿禰であり、その存命中この地には武内宿禰に派遣された官僚はいても在地の豪族で大きな古墳を作るほどの権力を持ったものはなかった、もしくは存在できなかったのではなかったろうか、ということです。

 そうして5世紀初頭以降、堰を切ったように紀伊には古墳が他地域にもまして数多く作られていくことが本書に述べられていますが、その事実は、まさに5世紀初頭に「世の長人(ながひと)」と謳われた一代の英傑武内宿禰が亡くなったとする前出山本武夫説を保証する考古学的傍証となるのではないか。
 なぜなら彼の遺領は,その子らとされる平群、蘇我、葛城、巨勢の各氏によって分割継承され、いうまでもなく紀伊国もまた在地の紀(直?)氏の領有するところとなったのです。言い換えれば紀氏の頭を押さえつけ、古墳建造を阻害していたとんでもない重石が取れた、その結果であろうと想像するのです。
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