ロバート・シェクリイ『明日を越える旅』宇野利泰訳(ハヤカワSFシリーズ、65)
ラファティ『宇宙舟歌』の感想文で、『宇宙舟歌』を、『脱走と追跡のサンバ』や本篇『明日を越える旅』と並べてその類似性を指摘したことがある(あとで「タイタンの妖女」も追加)。その稿では、伊藤典夫が筒井康隆を評して「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」といったことに引っ掛けて、「実のところ他ならぬシェクリイだって、案外「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」だったのではないだろうか」と書いたのだったが、これは我ながらいい得て妙であったなあ、と本篇を再読して、私は改めてそう感じたのだった。
これらの3篇(乃至4篇)は、ホメロス的遍歴譚であることをいわば共通のモチーフにしており、オデュセウス同様不可抗力的な運命(偶然)に巻き込まれる姿を、併し一種喜劇的な様相を湛えた不条理小説として描いている点できわめてよく似かよっている。とりわけ本篇は、「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」の典型的作品で、そのなかに籠められたニヒリズムとそれに裏打ちされた皮肉な、併し文明批評的な視線は、むしろ「テンポがのろくて場面転換のない筒井康隆」といいたいほど。
たしかに第1作品集『人間の手がまだ触れない』(原書、54)のシェクリイは「テンポがよくて場面転換のあざやかな」シェクリイであった。しかしそれは、ある意味シェクリイが自身の「主体性を封印」することによって可能となったものだったように思われる。だがシェクリイはそのような窮屈な書き方に、次第に不満を覚えていったのではないだろうか。
ひきつづく『宇宙市民』(同、55)や『地球巡礼』(同、57)から本書の前作『ロボット文明』(同、60)までを時系列的に通読すると、シェクリイが次第にその作品世界に主体性を反映させていく過程を辿ることができるかも知れない。その意味で本篇(同、62)において、読者はシェクリイがスマートな「短篇の名手」の殻を完全に脱ぎ捨てた姿を見ることができるだろう。
電力会社に勤める父の仕事の関係で、タヒチ近傍の南海の島で(文明の汚濁にまみれず)育った主人公は、父の死後、電力会社から父の仕事を引き継ぐように要請され、受諾する。ところが世界経済の悪化によるアメリカの本社の政策変更で当地の電力事業は放棄され、主人公は失職する。そのため主人公はアメリカにわたって一旗あげようとするも、着いた先のサンフランシスコで知り合った麻薬中毒の娘を官憲から救おうとして逆に逮捕され(当の娘は金持ちの親の力で即釈放される不条理)、共産党のスパイ容疑までかけられ(ここで「法」という「不条理」が考察される)、10年の刑と10年の執行猶予が(やはり法の不条理により)確定する。その後、主人公は刑務所の中が実は(ある種の人々にとっては)ユートピアであることを知ったり、ヒッチハイクで乗せて貰ったトラックの三人の運転手の、かつて正義を信じていた男が科学に、科学に裏切られた男が宗教に、宗教に見捨てられた男が正義に、それぞれ新たな価値を見出した身の上話を聞き、結局三人ともおのれの受難にばかり気を取られて他人の体験から何も学習していないことに失望する……
という具合に、「シェクリイらしい」価値転換が、ただし初期とは違って単なるストーリー上の技法としてではなく、主体性の問題として「のろいテンポで場面転換もなく」語られ、最後は何ともばかばかしい行き違いで世界があっけなく破滅するゆくたては、『猫のゆりかご』のそれにまさるとも劣らず、その凄まじいまでの「やる気のなさ(?)」に溢れたニヒリズムには、間違いなくヴォネガットに通底するものがあるように感じる。
以上のような次第で、この作品は、このようなスタイルで書かれなければならなかったのだ……という必然性を、私は強く感じるものだけれど、ただ初期の作風に「シェクリイらしさ」を感じる読者には、本篇が「シェクリイらしく」なく映るのはある意味仕方がないのかもしれず、福島正実が解説で「その作品としての評価は海外では中程度」というのはまあそうだろうなと納得もするし、同時に「筆者などは、彼の代表作としてもいいと思っている」という力こぶを籠めた評価には大いに共感するのである。
〈装幀〉中島靖侃
ラファティ『宇宙舟歌』の感想文で、『宇宙舟歌』を、『脱走と追跡のサンバ』や本篇『明日を越える旅』と並べてその類似性を指摘したことがある(あとで「タイタンの妖女」も追加)。その稿では、伊藤典夫が筒井康隆を評して「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」といったことに引っ掛けて、「実のところ他ならぬシェクリイだって、案外「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」だったのではないだろうか」と書いたのだったが、これは我ながらいい得て妙であったなあ、と本篇を再読して、私は改めてそう感じたのだった。
これらの3篇(乃至4篇)は、ホメロス的遍歴譚であることをいわば共通のモチーフにしており、オデュセウス同様不可抗力的な運命(偶然)に巻き込まれる姿を、併し一種喜劇的な様相を湛えた不条理小説として描いている点できわめてよく似かよっている。とりわけ本篇は、「テンポがのろくて場面転換のないシェクリイ」の典型的作品で、そのなかに籠められたニヒリズムとそれに裏打ちされた皮肉な、併し文明批評的な視線は、むしろ「テンポがのろくて場面転換のない筒井康隆」といいたいほど。
たしかに第1作品集『人間の手がまだ触れない』(原書、54)のシェクリイは「テンポがよくて場面転換のあざやかな」シェクリイであった。しかしそれは、ある意味シェクリイが自身の「主体性を封印」することによって可能となったものだったように思われる。だがシェクリイはそのような窮屈な書き方に、次第に不満を覚えていったのではないだろうか。
ひきつづく『宇宙市民』(同、55)や『地球巡礼』(同、57)から本書の前作『ロボット文明』(同、60)までを時系列的に通読すると、シェクリイが次第にその作品世界に主体性を反映させていく過程を辿ることができるかも知れない。その意味で本篇(同、62)において、読者はシェクリイがスマートな「短篇の名手」の殻を完全に脱ぎ捨てた姿を見ることができるだろう。
電力会社に勤める父の仕事の関係で、タヒチ近傍の南海の島で(文明の汚濁にまみれず)育った主人公は、父の死後、電力会社から父の仕事を引き継ぐように要請され、受諾する。ところが世界経済の悪化によるアメリカの本社の政策変更で当地の電力事業は放棄され、主人公は失職する。そのため主人公はアメリカにわたって一旗あげようとするも、着いた先のサンフランシスコで知り合った麻薬中毒の娘を官憲から救おうとして逆に逮捕され(当の娘は金持ちの親の力で即釈放される不条理)、共産党のスパイ容疑までかけられ(ここで「法」という「不条理」が考察される)、10年の刑と10年の執行猶予が(やはり法の不条理により)確定する。その後、主人公は刑務所の中が実は(ある種の人々にとっては)ユートピアであることを知ったり、ヒッチハイクで乗せて貰ったトラックの三人の運転手の、かつて正義を信じていた男が科学に、科学に裏切られた男が宗教に、宗教に見捨てられた男が正義に、それぞれ新たな価値を見出した身の上話を聞き、結局三人ともおのれの受難にばかり気を取られて他人の体験から何も学習していないことに失望する……
という具合に、「シェクリイらしい」価値転換が、ただし初期とは違って単なるストーリー上の技法としてではなく、主体性の問題として「のろいテンポで場面転換もなく」語られ、最後は何ともばかばかしい行き違いで世界があっけなく破滅するゆくたては、『猫のゆりかご』のそれにまさるとも劣らず、その凄まじいまでの「やる気のなさ(?)」に溢れたニヒリズムには、間違いなくヴォネガットに通底するものがあるように感じる。
以上のような次第で、この作品は、このようなスタイルで書かれなければならなかったのだ……という必然性を、私は強く感じるものだけれど、ただ初期の作風に「シェクリイらしさ」を感じる読者には、本篇が「シェクリイらしく」なく映るのはある意味仕方がないのかもしれず、福島正実が解説で「その作品としての評価は海外では中程度」というのはまあそうだろうなと納得もするし、同時に「筆者などは、彼の代表作としてもいいと思っている」という力こぶを籠めた評価には大いに共感するのである。
〈装幀〉中島靖侃