後ろめたいという感じは、複雑な感情です。
好き嫌い、怖い怖くないという感情から、
いくつも枝分かれした末に、ようやく生まれてきている感じがします。
後ろめたさは、客観的な現実に照らしてみれば、
感じる必要などないのに感じてしまう感情でもあります。
たとえば偶々災難を免れたことに後ろめたさを感じるような感覚は、
外に発散させて解消させるには、あまりにデリケートなので、
悶々としたまま重たい時間を過ごすか、知らぬ間に抑圧してしまうことも多いかもしれません。
向き合う準備ができていなければ、心の安定のために抑圧が必要なこともありますが、
先延ばししても、いつか向き合う時がきます。一年前には無意識の抑圧と逃避だったのが、
今年は悶々と過ごすところまできたのだから小さな前進といえば言えます。
後ろめたさは簡単に解消できる感情ではないし、また解消すべきでもないのかもしれません。
後ろめたさを抱えながら、中途半端な自分に留まることをよしとする。
不安定に留まる覚悟をするとき、それが後ろめたさを感ずる人の唯一の道のように思われるのです。
その日、私よりもはるかに葛藤の大きい友人と語り合う機会があって、
後ろめたさを抱えながら中途半端な自分に留まることをよしとするというところで、
友人と私の出した答えは一致していました。
私などは苦しんでいるといえるほどのものでもないけれど、
後ろめたさという葛藤に苦しんでいる人は案外多いのではないか。
しかし、この葛藤について語られることはあまりないようなので書いておきたいと思ったのです。
好き嫌い、怖い怖くないという感情から、
いくつも枝分かれした末に、ようやく生まれてきている感じがします。
後ろめたさは、客観的な現実に照らしてみれば、
感じる必要などないのに感じてしまう感情でもあります。
たとえば偶々災難を免れたことに後ろめたさを感じるような感覚は、
外に発散させて解消させるには、あまりにデリケートなので、
悶々としたまま重たい時間を過ごすか、知らぬ間に抑圧してしまうことも多いかもしれません。
向き合う準備ができていなければ、心の安定のために抑圧が必要なこともありますが、
先延ばししても、いつか向き合う時がきます。一年前には無意識の抑圧と逃避だったのが、
今年は悶々と過ごすところまできたのだから小さな前進といえば言えます。
後ろめたさは簡単に解消できる感情ではないし、また解消すべきでもないのかもしれません。
後ろめたさを抱えながら、中途半端な自分に留まることをよしとする。
不安定に留まる覚悟をするとき、それが後ろめたさを感ずる人の唯一の道のように思われるのです。
その日、私よりもはるかに葛藤の大きい友人と語り合う機会があって、
後ろめたさを抱えながら中途半端な自分に留まることをよしとするというところで、
友人と私の出した答えは一致していました。
私などは苦しんでいるといえるほどのものでもないけれど、
後ろめたさという葛藤に苦しんでいる人は案外多いのではないか。
しかし、この葛藤について語られることはあまりないようなので書いておきたいと思ったのです。