あのとき言われた、あの一言、あの場面を思い出すだけで怒り心頭という出来事。平素は注意深く思い出さないようにしていても、ちょっとしたことがきっかけで意識に上ってきて慌てることがあります。
そんなとき、来る感情に備えて考え方を整理しておくことができれば、怒りの嵐は長引きません。
感情は生々しく残っていたとしても、その体験の意味を掴むことで、怒りの感情は生きるエネルギーに変えることができます。体験の解釈いかんで、イヤな記憶が人生の強い味方に変身するとは驚きですが、本当です。
わたしの場合は、その怒りの出来事は、内的世界を自分自身によって満たしてゆくこと、誰かや何かに満たしてもらおうとするのでなく、すべてはわたしの自然体から、はじめの一歩を踏み出すべきことを、教えてくれているのだと解釈しています。
自分のこころを正直に見つめたならば、誰かが楽しそうにしていることを、わたしも楽しいのだと勘違いしたり、誰かの喜びに追従したい依存心があったり、ヘンな同一化や置き換えの自己防衛をたくさん見つけるのではないでしょうか。
理解されないという怒りの感情はしばしば、他者依存と結びついているように思われます。
わたしの自然体から、のびのびと踏み出してゆく。わたしが、わたしの悔いのない人生を歩むのだと決意するとき、怒り心頭の当の相手に対しても、穏やかな感情が生まれているのに驚かされるのです。
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ありがとうございます。
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わたしの場合は、その怒りの出来事は、内的世界を自分自身によって満たしてゆくこと、誰かや何かに満たしてもらおうとするのでなく、すべてはわたしの自然体から、はじめの一歩を踏み出すべきことを、教えてくれているのだと解釈しています。
自分のこころを正直に見つめたならば、誰かが楽しそうにしていることを、わたしも楽しいのだと勘違いしたり、誰かの喜びに追従したい依存心があったり、ヘンな同一化や置き換えの自己防衛をたくさん見つけるのではないでしょうか。
理解されないという怒りの感情はしばしば、他者依存と結びついているように思われます。
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