現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

勝てば官軍、負ければ賊軍

2014-06-08 | Weblog

1944年6月6日、第二次世界大戦末期、フランスのノルマンディ海岸へ連合軍が、ドイツ軍一掃するための上陸作戦が始まった。これを記念しして、戦勝国が記念式典を開催している。なんだかんだいっていても、G8から外れたロシアとUSAがここで密談だ。あちこちで戦勝国による勝利記念式典が行われているが、報道されないだけだ。年配の男組は必ず軍服を身にまとう。自分たちの行為を誇らしげに思っていることは明白だ。

所変わって、USAのウイスコンシン州、ミルウォーキー、シカゴから飛行機で飛び、ホリデイインに宿泊。日本で、ディズニーランドなどへ、車で行く。駐車場が広いが渋滞するし、満杯だ。ここはオシュコシュの航空ショー会場。みんな自家用機で会場に来るから、駐車場でなく、駐機場が満杯だ。湖の岸には、水上機が、駐機場を避けて、ボート代わりに係留される。マニアから見たら、駐機場だけで、日本では絶対目にすることのない、展示場だ。セスナだけでなく、現役で飛んでいる、戦闘機で訪れる。デモ飛行。双発の爆撃機、B-25が飛来する。ハワイ真珠湾の後、米軍の作戦で、爆撃機を空母に搭載、無理やり、西太平洋から発艦させて、帰りの燃料分なし、各国側へ逃げるという作戦で、日本本州への爆撃を敢行したものだ。それになぞったらしく、会場のアナウンスで、現在、東京に爆弾投下。地上で花火の仕掛けが爆発。作戦成功となる。軍服姿の老人が、拍手と歓声。日本人をその会場でみかけなかったが、そんなの関係ない。同じことを日本やドイツでやったら大変だ。戦勝国といっても、戦争という事態にかこつけて非道なことを行っているのに、それらは許容されていく。

国連というより、戦勝国会議といったほうが正しいかもしれない。70年たっても、勝てば官軍、負ければ賊軍だ。


自分探し 13/100

2014-06-06 | Weblog

USAに本社を置く会社が、日本に法人を設立することになり、設立以前から、その一員に加わった。設立登記手続きなどは、依頼した弁護士事務所でフォローしてくれるが、そういった専門家に任せる諸手続き以外のことは、すべて独りで行った。その時、住まいは福岡だったため、単身上京して、ホテル暮らしだった。いろいろなことに着手しなければならないが、まずはオフィスを決定しなければならない。まあ、土地価格が違うことなど、頭の中にしか知識のない米国人は、スペースの広いところを最初は望んだが、そんあ簡単ににはかなえられず、いつしか、この広さで、この金額かといった中で、最後はあきらめてもらうしかなかった。そのため、当然、ロケーションとしては、都心から離れてしまう。それでもさらにびっくりしたのは、新築物件で、室内の壁に、約10cmぐらいの傷というか、クラックというか、壁紙が切れているだけのようなことにも目をつけて、これは賃料を安くする交渉材料になると自信たっぷりに言うから、どうぞやってみてくださいと体験してもらうことを勧めるだけだった。相手から、だめと言われて、交渉の余地がないとわかるのに、そう時間はかからなかった。契約書を交わすと同時に、さらに公正証書作成も求められた。それというのも、本社がUSAということからくる不動産会社からの要求で、それに印紙代がかかるというと、契約書と公正証書の違いや意味合いを説明するのには閉口した。一言でいえば、郷に入れば郷に従えだ。

なんとか、事務所の賃貸が始まった。事務所に行く。中に何もない。がらんとしたままだ。当時は、灰皿を買ってきて、床に座っていた。まだ自動車電話はそこそこあったが、個人がケータイを所有していなので、まずは電話が必要だった。また、いつまでも床にすわっていられないので、ひとつのデスクと椅子の準備にかかった。電話とデスクが整ってから、外へ出かけなけらばならないので、留守を守るアシスタントの募集にかかった。まだ、オフィスに社名入り看板もなかったので、段ボールの切れ端に、黒いマジックで、手書きで書いて、ガムテープで、玄関ドアにはったものだ。10人ぐらいの募集があり、面接をした。おそらく、まずは玄関前で、ためらったことだと思う。中に入ってきて、さらに何もなく、デスク一つを挟んで、椅子が2脚あるだけ。ゼロからのスタートということを強調したら、以外にも、結構、みんな気に入ってくれた。それ以前の会社で、各地方の営業所で、SECOMとのつながりが深く、また、小生自身もSECOMの重要性をわかっていたので、すぐに連絡を取り、ドア自体をSECOM仕様にしなければだめなこともわかっていたので、即作業依頼した。セキュリティだけは一流だった。SECOMの営業マンが、小生の以前の会社が、全国でどれだけの契約金額なのか調べて把握しており、小生も営業所長だったため、金額わかっていたので、それと同等レベルにしてもらった。ついでに、玄関ドアに貼る、社名の看板もタダでつけさせた。それ以降、その営業マンも、何も用事がないのに立ち寄ったり、結婚相談にのったりと付き合いをさせてもらった。

毎月の会計レポートのために、会計事務所を訪ねる。給与計算、社会保険計算のために、社労士事務所を訪ねる。法人としての保険関係もあるので、それらの方々ともお付き合いする。それ以前の会社で、仙台営業所長、福岡営業所長と経験していることが、すごく役に立った。以前にも書いたが、設立当初の銀行は、名前はだれでも知っている銀行だが、何もしてくれないので、地元の信用金庫に取引行を切り替えた。はっきり申すと、大手銀行は零細・個人には、愛情を注ぐことがなく、あくまでも、one of them 扱いだ。それは、これから始まる営業取引でも同様に言えることとなっていく。

先のSECOMの営業マンや、それ以外のたとえばリコーの営業マンなども、近くに来たら、立ち寄ってくれて、他の会社と何か違ってる所を感じるとよく言われたものだ。、


西武ライオンズ

2014-06-05 | Weblog

西武ライオンズの伊原監督(65歳)が陣頭指揮から離脱とのこと。今年の1月から2月のころ、ラジオの今年のプロ野球ペナントレースの戦いに挑む新しく就任する伊原監督のインタビューがあった。その時語っていたことだが、まずは現有投手力でも十分戦える潜在的戦力はある。最近の若者へ厳しく指導していく。まずはユニフォームの着方からだ。ユニフォームの裾をだらしなく被せているだけの着方は禁止。ヤンキースの田中マー君のような着用はだめということだ。メジャーリーグでも、マー君と同様の選手を多く見つける。イチローの着方はOKだ。どうだろう。今、日本のプロ野球界では、最近の着用のしかた、マー君と同じようなほうが、7割以上占めているのではと推測する。もしかしたら、割合はそれ以上かもしれない。見た目はなんとなくだらしない。それでも支障がないのであれば、この流れはとめられないだろう。従来の着方は、全く違うものではあるが、昔の兵隊さんのゲートルのように思える時もある。実際に、まじかにゲートルと触れたことはないが。ただし、きっちりと織り込んでいるので、引きしまっている感じは出る。

約4年間、少年野球のコーチングスタッフとして関わった。当時でも、少年サッカークラブと比較して、野球系は体質が古いと思ったことがある。頭は丸刈りがベターだが、基本的に短め。それに比べて、FC(サッカー)系は、自由で、染めているガキまでいた。野球は、練習開始にあたり、誰もいないグランドに向かい、「グランドに礼」でスタート、終了時は、誰もいないグランドに向かい、「ありがとうございました。」 FC系も練習終了時にグランド整備(ならし)をしているのだろうが、雑。時にはやっていないことが明白ということもあった。もちろん、ユニフォームはおそらく今でも全国、昔風を貫いていることだろう。(だらしない風に着用している少年チームをほとんど目にしたことがないから。) 大人のコーチングスタッフは、特に野球系は、そのような指導方法で自己満足しているように思えた。

先の伊原監督だが、伊原さんのことはあまり知らない。ただし、3塁の走塁コーチャーボックスに立ち、選手の走塁指示が絶妙と紹介されていたことを覚えている。正直、それぐらいだ。ラジオのインタビューを聞いていて、正直、「自信満々に言っているけれど、そんな化石時代のことばかりで大丈夫かな?」 と思った。そう考えること、現状にメスを入れたい気持ちはすごくわかったが、本当にそれだけでいいの?と思った。一番違和感を感じたのが、グランドに集合したときとか、食事の時に、ひとりひとりスピーチさせるというものだ。自分の時代には、それがすごく功を奏したとのことだが、そんなことで、野球力がアップするなら、みんなそれをやればいいのではと素直に思った。自分が選手だと仮定したら、なんかぞっとするなと直感した。どうも、この手の、小生は、こりくつ(小理屈)と勝手に呼んでいるが、へりくつ でもなし、やたら正当性をもっておしつけてくる、本人も確証があるわけでもないのがみえみえなのに、あえてそれを押し通してくる。そういうものは好きになれない。

日本ハムの二刀流をやっている大谷選手。入団時のひとつのポイントだったと言っても、それだけにこだわっているような気がしてならない。なんか彼一人のために、チームすべてが、巻き込まれている気がする。楽しいのは、大谷本人だけ。自分が同チーム員と仮定したら、面白くもなんともないだろう。チーム成績は低迷している。彼を持ち上げるだけ、レギュラーになれない数人がいるはずだ。もちろん、それらの者たちが、大谷を押しのけるレベルをみせつければいいのだろうが、それとは別に、大谷との密約めいたものがあるいうか、大谷を大切に考慮しまうよみたいな、腫れ物に触るような雰囲気を感じてしかたない。

すべてが最新式のしくみがいいと言うこともないし、そうかといって大昔そのまま何も変えないというのも、というより、朗読会とか、なんか儀式めいたことは好きになれないなあ。


自分探し 12/100

2014-06-04 | Weblog

今朝の事件関連ニュースで、容疑者が中学生の頃、不登校だったと伝えていた。小生がその年代というか、中学生の時は、1クラス約45名程度で、1,2人、卒業したら、ヤクザの使い走りのチンピラへ向かうかなと思われる奴はいたが、そいつらも教室ではイジメ的な兆しを発見すれば、生徒間で止めに入ったものだ。今よりも、持ち物検査などおおらかだったと思うが、今のような凶器的なものをわざわざかざす者は出なかった。通学していた中学が変わっていたのかどうかわからないが、昼休みは、家へ戻り、昼飯を食べてきてもOKで、1年生の頃は、ほとんど家に戻っていたと記憶している。2年生からは、自分が戻るのが面倒なので、購買部で朝、パンを予約して昼に番号札と交換というパターンになった。そんな状態だから、校門を通過するのに、今で言う、あいさつ運動や、服装検査など、それらを無視してでもという風潮になかった。生徒必携(生徒手帳)には、学校の校訓や、服装規定など書かれていた。男子は黒の詰襟。白いプラスティックのカラーをつけるやつ。学生帽も一応、かぶり方は別として、ほぼ全員所持していた。黒のズボンは、擦り切れて、テカってきていた。頭髪は、ぼうず。(5分刈り程度)だったか? さすがに、小学校6年最後に、丸坊主にされることは、すごく嫌だったが、それも初回だけ。不良がいたとしても、髪をわざと伸ばす者はいなかった。悪ガキも、そこそこ従順ということだ。そのため、不登校という状況がよく理解できない。もちろん、現代は、そのように精神的に追い込まれて、親も無理矢理引っ張っていけないので、という状況までは理解できる。3年B組金八先生や、積木くずしでも描かれていたようなことが現実起こっているということだろう。生徒自ら協力し合って、そのような子を誘導はできないのだろうか?先生であれ親であれ大人が、がりがり関与しても上手く解決できないことは、比較的容易に推測できることではないだろうか?現在は、どこの学校でも、職員並みに毎日、学校へ顔を出す、モンスター何ちゃらに近い存在があると聞く。それらの方に、なんのために毎日出向いているか知る由もないが、こういった方面の問題解決にも尽力いただきたいものだ。

小生の中学校の校区というと、近隣の3つの小学校から上がってきていたが、そのうち2つの小学校はマンモス小学校に近い人数だったが、小生の小学校だけ、3クラスの1クラス36人ぐらいだけだった。当時としては、少ないレベルだ。それゆえ、中学校に上がり、1クラス45名、それが15クラスといきなりなったことには驚くというか、これが中学で、小学校とはやっぱり違うんだという気持ちのほうが強かった。まして、頭は丸坊主にされており、黒ずくめの制服にその差を感じずにはいられなかった。

これからも何回か書くと思うが、おふくろは料理が上手いほうだった。にもかかわらず、弁当を持たせるということに、それほど積極的ではなかった。小学校の遠足にも、近くのすし屋の巻きずしやかっぱ巻きを持たせられることも多くあった。運動会時は、弁当だったが、その理由は何故かわからないままだ。中学校へ上ってからも、帰ってこれるんやったら、家で食べればいいとなったし、その時期を過ぎると、購買部でのパン食ですませるようにとなった。男子が持っている、鉄製(アルミ製?)の平たい弁当箱を持ちたかったが、なぜかそれを買ってもらうことはなかった。もしかして、あのタイプが嫌いだたのかもしれない。おふくろが異常なまでに潔癖だということを知ったのは、ここ10年ぐらいだ。子供、家族の使ったお湯のみなどで、自分が飲むというのが考えられなかったそうだ。もちろん孫が食べ残した、別に汚れていないものにも、もちろん手をつけることはない。自分専用の箸や、茶碗、コップはどこまでも自分専用だ。だから他人にも同様に対応するが。おふくろはすぐに他人様には迷惑をかけていないと言う。それも繰り返し言う。それはそれで確かかもしれないが、かといって許容範囲が少ないというのも確かだ。


自分探し 11/100

2014-06-03 | Weblog

学校から一郎くん家(ち)までは、1メートル。八郎くん家(ち)までは、8メートル。それでは、先生(ち)までは、何メートルでしょう? これも、昔、飲み屋などで言っていたなぞなぞのひとつ。

孔子の「不惑(惑わず)」年齢などとっくに過ぎても、迷い放しだ。人間の煩悩の数だけ、除夜の鐘の108ツ。一説には、四苦八苦(4x9、8x9) 36+72=108と言われる。身体で考えるのが脳で、心で考えるのが悩みとなるのか? 八十八の道があるから、迷いとなるのなら、悩むことも自然なことだ。

年齢を重ねる毎に、頭をよぎる事が多くなり、自分の性分がどのように形成されていったかを自問自答している自分に気づく。今の時点では、やはり家の中というか、家族というか、親からの教え、説教環境が大きいのかなという考えだ。そんなことに、若い時から気づいてきた方々は、今度は次世代(自分の子孫たち)への教育に上手く、反映させて、間違いのないような方向性を示しているのだろう。残念ながら、小生の場合は、そんな気づきもなく、自分の利己的な思いで子育てしてきたものだから、まるで鏡を見ているようで、舵を別角度にしていたらどうだただろうと振り返ることがあるのは事実だ。小生の親父は、税務署勤めの国家公務員、おふくろは、今の言葉でいうなら専業主婦だった。当時は、特に国家公務員の給料が安く、毎日、「安月給で、公務員なんかになるものじゃない」と何百回と聞かされた。やはりそういった繰り返しの親からの言葉の伝達の影響は大きいものがあったと思う。基本的には両親はまじめな人だったことは間違いない。ただ、今考えると、変わっているということでもないのだろうが、親父・おふくろ2人そろって、外出することが好きだったという点は、他の家とは、少し違っていたように思う。TVがない時からも、洋画を見によく出かけていた。また、日曜は、親父の趣味(Uコン、ラジコン)から、ほとんどその関係場所へ出かけることが圧倒的に多かった。そのため、当時は持っているほうがマイナーな、自動車を早くから利用していた。外出先にでかけても親父・おふくろコンビで来ているのは、ごくわずかだった。かすかな記憶だが、産婦人科の先生は家族を連れもってきていたが。自分の家、家族の行動が、他と少し違っているということには、当時は全く思いもしなかった。あくまでも、今、思い起こしてみれば、という強い思いである。放任主義といえば、それなりの意味もあるだろうが、少なくとも過干渉ということはなかったと言える。ただ、やはり今考えれば、子供への育児・教育などに関わることより、それよりも自分達でトライしていきたい、やりたいことへの執着が、かなり強い気持ちであったのではないかと思う。そのため、結果的に放任主義に見える形で終始しているが、それを目指したものでなかったのだ。自分自身も、そのことについても無意識のうちに、親の代から踏襲しているところがあるなという気がしている。それらが、日々の教育のどこかに、知らず知らずのうちに浸み出していて、同じようなDNA形成へと繋がっていっている。

冒頭のなぞなぞの答えは、10メートル。(1000センチ。→ 先生ん家(ち)


トマス杯

2014-06-02 | Weblog

ほとんど報道されないが、日本男子バドミントンチームが、世界一になった。テニスで言うと、国別対抗の最高峰のデビスカップで優勝するのと同じ意味合いだ。オリンピックの金メダルに勝るとも劣らない快挙だ。第1回から約70,80年経っているが、その間、男子は一度も優勝したことがなかった。女子の場合は、約40年前に、通算で5度ほど、世界一になっていたが。その5回の優勝で、シングルスでリード役を担っていたのが、新沼謙二の連れ合いの、湯木博恵だった。数年前に年若くして残念ながら他界されたが。湯木と、中山紀子という2人のシングルスプレーヤーが群を抜いていた。ダブルスは、新潟青陵出身の相沢・竹中コンビがルックスとともに最強だった。

男子ははっきりいって、今まで歯が立たなかった。準決勝で中国に勝ったのが大きい要因だ。その中国は、理由は全くわからないが、トップシングルスプレーヤーが、第1、第2シングルへ出場できない状況だったことも、ついていたという背景もあるが、それは相手側の事情ゆえ、中国に勝って、決勝で2対2となり、第3シングルス同士で結果が出る場面で、しかもフルセットにもつれ込み、最終的にマレーシアに競り勝った。70年もの長い間、挑み続けたものの優勝出来なかったことに、今回はチャンピオンになったのだから、快挙である。もっと偉大な快挙として取り上げてもいいのにと思う。もし、これがテニスだったら、松岡修三や、伊達、杉山が出てきて、盛り上げるだろう。

非常に暑い日が続いている。なんとなく身体が慣れず、思考能力まで低下する。神戸大学体育会バドミントン部OBだが、この6月29日(日)に年に一度のOB・OG戦だ。卒業して、2年目に一度、参加したことがあるが、それ以来、全く参加していない。途中、住所が転々としたため、案内も来ない時期も、20年ぐらいはあった。正直、それなりのプレーが出来るなら、参加を考えるが、現在は、全くプレーにならない状態ゆえ、あまり積極的な気持ちになれない。25年前ぐらいであれば、転勤先のそれぞれの土地で、クラブに所属して大会にも出ていたのであるが、現在は4月から少し、近隣で再開したとはいえ、ほとんど羽根つきといわんばかりの内容にて、左足のふくらはぎを痛めたり、次は右足のアキレスけん周辺を傷めたり、スマッシュを強く出そうとしても、面がフラットになっていないのか、切れた球になったりで、正直、さっぱりの状態。自分自身が嫌になってくる。自分と同年代の者で、継続してプレーをしていると聞き及ぶ。過ぎた年月をどうのこうの思ってもと思うが、気持ちを切り替えていくしかないか。