学校から一郎くん家(ち)までは、1メートル。八郎くん家(ち)までは、8メートル。それでは、先生(ち)までは、何メートルでしょう? これも、昔、飲み屋などで言っていたなぞなぞのひとつ。
孔子の「不惑(惑わず)」年齢などとっくに過ぎても、迷い放しだ。人間の煩悩の数だけ、除夜の鐘の108ツ。一説には、四苦八苦(4x9、8x9) 36+72=108と言われる。身体で考えるのが脳で、心で考えるのが悩みとなるのか? 八十八の道があるから、迷いとなるのなら、悩むことも自然なことだ。
年齢を重ねる毎に、頭をよぎる事が多くなり、自分の性分がどのように形成されていったかを自問自答している自分に気づく。今の時点では、やはり家の中というか、家族というか、親からの教え、説教環境が大きいのかなという考えだ。そんなことに、若い時から気づいてきた方々は、今度は次世代(自分の子孫たち)への教育に上手く、反映させて、間違いのないような方向性を示しているのだろう。残念ながら、小生の場合は、そんな気づきもなく、自分の利己的な思いで子育てしてきたものだから、まるで鏡を見ているようで、舵を別角度にしていたらどうだただろうと振り返ることがあるのは事実だ。小生の親父は、税務署勤めの国家公務員、おふくろは、今の言葉でいうなら専業主婦だった。当時は、特に国家公務員の給料が安く、毎日、「安月給で、公務員なんかになるものじゃない」と何百回と聞かされた。やはりそういった繰り返しの親からの言葉の伝達の影響は大きいものがあったと思う。基本的には両親はまじめな人だったことは間違いない。ただ、今考えると、変わっているということでもないのだろうが、親父・おふくろ2人そろって、外出することが好きだったという点は、他の家とは、少し違っていたように思う。TVがない時からも、洋画を見によく出かけていた。また、日曜は、親父の趣味(Uコン、ラジコン)から、ほとんどその関係場所へ出かけることが圧倒的に多かった。そのため、当時は持っているほうがマイナーな、自動車を早くから利用していた。外出先にでかけても親父・おふくろコンビで来ているのは、ごくわずかだった。かすかな記憶だが、産婦人科の先生は家族を連れもってきていたが。自分の家、家族の行動が、他と少し違っているということには、当時は全く思いもしなかった。あくまでも、今、思い起こしてみれば、という強い思いである。放任主義といえば、それなりの意味もあるだろうが、少なくとも過干渉ということはなかったと言える。ただ、やはり今考えれば、子供への育児・教育などに関わることより、それよりも自分達でトライしていきたい、やりたいことへの執着が、かなり強い気持ちであったのではないかと思う。そのため、結果的に放任主義に見える形で終始しているが、それを目指したものでなかったのだ。自分自身も、そのことについても無意識のうちに、親の代から踏襲しているところがあるなという気がしている。それらが、日々の教育のどこかに、知らず知らずのうちに浸み出していて、同じようなDNA形成へと繋がっていっている。
冒頭のなぞなぞの答えは、10メートル。(1000センチ。→ 先生ん家(ち)
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