現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

規律・秩序VS創造性

2014-06-16 | Weblog

仕事で大阪・西神戸へ出かけることになったため、PCから離れていた。2014年6月15日、サッカーワールドカップ一色の様相だった。初戦の負けが決まり、翌日の朝刊コラムに、規律・秩序を重視する日本の国民性とある。規律という言葉といい、秩序という言葉も非常に響きがいい言葉だと思う。この言葉自体に対して、いきなり反論を唱えることもなかろうと思う。ただし規律・秩序が重んじられるならば、もちろん程度の差、程度問題であるが、学校教育の場でも、規律・秩序が保たれて、荒廃することなどないようにも思うが。街中でも理不尽な事件などおこらないと思うが、小生の目には規律・秩序が乱れてりるとしか現代の世相は、そのようにしか写らないが。規律・秩序をマニュアルと読み変えると、少し状況が異なってくると考えるが。規律・秩序という言葉には、なんか、その中に倫理観なるものが含まれるように思う。それに比して、マニュアルの場合は、その中に愛情など感じることなどない。日本人は、マニュアルが好きなでけなのではないのか?

約30年前、小型船舶免許の実技試験で、たまたま一緒になった受験者が、自分の番になって、教官に、走らせるようにと指示をだされると、「どちらの方向へ」と尋ねて、教官から「海の上には白線が書かれていないので、自分で判断してください」 と言われていた。360度、どこにでも行ける自由をこの方は満喫できないのだと思った。新聞のコラムでは、サッカーの個人技量にいて、日本のプレーヤーには創造性を以って育てられてきた背景を感じられないと論じている。小生は、創造性というか、自然に自分自身に枠を設けてしまう習性がつけられるような教育というか、小さく固まるような方針を貫かれてきたように思うが。

海外で、初めて水上スキーにトライした時、いきなりボートからスキー板を2枚、海に投げ込まれ、お前も海に飛び込めと言われた。その後、板をつけろとボートの上から指示され、ずっと腕を伸ばしたままこれるのだという指示のみをもらって、5回ほどチャレンジして滑走できるようになった。

USAで、クレー射撃に連れていってもらっ時に、生まれて初めて実弾が出る、ライフル。拳銃を手にしたのに、ライフルと散弾をひと箱分渡され、肩と胸にこう支えると教えられただけで、いきなり本番。それでもなんとか、35%ぐらいはヒットしたと思う。

日本で、短期(1か月、2か月?)の、臨時テニススクールに申し込んだ。実際に参加してみると、理屈や説明ばかりで、60分程度のレッスンで、実際にボールを打つ時間といったら、5分ぐらいではないか。もちろん何人も参加しているので独占というわけにはいかないが。テニスをやったというか、やった気分になる程度だ。毎回、汗もかかない。

自分は体育館で初心者にバドミントンを教える。相手は、社会人で筋トレなどやっておらず、大会を目指しているわけでない。それゆえ、教える時は、できるかぎり参加してもらって、たくさん汗をかいた、こんなにハードなんだということがわかる、少し休ませてくださいと相手から言われる程度に上手く、持っていく。こんなにラリーが長く、普通は続かないと言われる。続くから当然、しんどくて汗をかく。点数の数え方など教えない、というかコートに入りながら自然に覚える方向へ持っていく。黒板を使った授業でないのだから。面白く、楽しくなければ、なんのために俺はここにいるのかと小生は思ってしまうので、できるかぎり楽しく、かつ筋肉痛になるように、上手く持っていく。

格好や理屈でないと思う。まずは全体はこんなもんですよと、と体験してもらわないと、その後の基本練習が何に繋がっていくか、その意味がわからなければ、やる気も失せる。現在の日本は、何か問題が発生すると、イコール、対策のマニュアル策定での対応となる。魂の入ってない、対策など継続性がなく、実効性にも疑問が残る。対策を作成したという行為が目的化していないか。信頼できるコメンテーターは弁護士ばかりを集めるが、弁護士と警察に実際に問題解決してもらったことはないが、このことは改めて取り上げよう。