ラジオでも連日、政治の話題として、集団的自衛権のことを取り上げている。国民側は、今は使われなくなった言葉でいうと、しらけている。何故か? 小生なりの分析は、やはり核心のことを触れていないからだと思う。昔、米国人から、ビールはビール、コーヒーはコーヒー。と言われたことがある。今でもそうだが、日本では、いろいろな名前で販売合戦を繰り広げる。これは、冬に飲むとおいしいビール、。これは秋の季節に合うビールなどと説明したら、ビールはビールと言われた。さらに、電動で動く刃物の機械で、スイッチの取付位置でもめた時のことだ。日本人は手もとに近いところが操作性が良いと言って、引き下がらない。国産品はすべて、考えられているとも主張した。操作性という言葉に変えて、少し離れた位置の場合、困ることがあるか? と聞いてきた。刃物なので、相手を傷つけそうになった時に、とっさにスイッチを止められると日本の顧客は回答した。米国人は、とっさの時は、まずは刃物を遠ざけるだろうと回答してきた。それから、スイッチを切ればいいと。ようは大事なことは、刃物を遠ざけることで、スイッチの位置の問題でないと。
集団的自衛権と個別的自衛権。おそらくだが、その米国人と話合えば、どちらも自衛権だろう。集団的、個別的、場面をああだこうだと想定すること自体がナンセンスと言うだろう。自国民が危機に直面している時、集団的だとか、個別的と言ってられないだろう。まずは自国が動くことが先決と思うが。また、たとえ国連でも、米国でも頼んできたとしても、それが、できない内容だったら、毅然としっかりとした理由をつけて断ればいいと思う。その時、金だけは供与するという結論なら、それはそれで立派な結論だと思うが。
改憲か、憲法解釈か? 改憲に向かったところで、おそらく同じ議論が繰り返され、収拾がつかぬであろう。 それでも、うやむやな解決に終わってしまうよりはましだと思う。きっちりと、最悪想定も説明して、ただし、根本は国民と国を守るための行動だということを示すべきだ。今、連立を組んでいる、ひとつの政党の出方へ話しをすり変えているが、本来は、一番、大多数を占める自民党の中で、まずはひとつの結論へまとめることが、まずは大切で、そのプロセスを今度は、国民に問えば、同じプロセスとなり、反対意見もあるだろうが、もう少し、ましな展開になるような気がするが。
先日、規律と秩序のことに触れたが、この二つについては、海外でも十分に重点が置かれていると思う。日本で気にしているのは、形式的なこと、体裁であって、友好国、同盟国、密接な関係にある国、などの、枝葉末節の、表現文言など、それこそ、大のおとな が、寄ってたかって議論することかと思う。
米国の田舎、例えば、イリノイ州とアイオワ州の二つにいると、道路の幅も、畑も、すべてが大きいので、小さなことにことにこだわっていられないと自然にそう思ってくる。すぐ近くに見える、WALMARTの店に歩いて向かっていっても、なかなか着かない。ようは、周りに比べるものがないので、近くに思えるが、実際、かなりの距離があり、店舗自体も巨大なのだ。イリノイ州とアイオワ州の二つの面積だけで、29万6000平方キロで、日本の37万の約80%を占めてしまう。イリノイ・シカゴに隣接するミシガン湖、まるで海だ。どうしてか? 五大湖合計で、24万平方平方キロ。日本の66%となる。計算上だが、今の日本には1億2000万の人がいるが、日本に、わずか600万人程度しか住んでないぐらいの土地感覚だ。イリノイから、アイオワへ買い物に向かう。料金だだの普通の国道。しかし、まるで高速道路。ガードレールなどまったくない。インターチェンジというか、ジャンクションというか、信号もない。一直線に伸びる。カーナビなんて要らない。ガソリン代も、現時点でも、100円程度。これでも高くなったほうだ。わずか15年、20年前では、日本の3分の1か4分の1程度。ようは、1ガロンが、日本の1リッター料金だったと記憶している。日本でいうほど、ハイブリッド車の必要性を感じていない。せぜい、燃費効率が改善された、ガソリン車があれば、それで十分だ。彼らは、次の世代は次の世代が考えればいいという考えも存在している。我々の死後のことは、そkれこそ、その時代を生きている者が作っていくのだから。日本では、結構、未来のことを語る割には、希望がでる対策がとられないし、むしろ悪くなっていくばかりと感じるが、言葉だけは、子孫につけをのこしたくないと言っているだけの中、順繰りに、去っていっているような気がしてならない。