前回の玄関からすぐの、いわゆる和室のリビング扱いの部屋は、和室だから当然、畳が敷き詰められている。毎年、夏場?夏になる間には、畳を1枚1枚上げて、DDTという白い殺虫剤の粉をまいていた。近所も似たようなことを行っていたと思う。畳を1枚ずつ、親父が独りで上げていくのだが、さぞ力もいるし、大変だったとは思うが、文句の一つも言わずにやっていた気がする。(今、考えれば、日常の中であっても、もくもくとやる、そういう時代だったのかなと感心する。)その畳を上げると、板が敷き詰められているのだが、通常は板が床の梁にあたる所に釘でうちつけられているのだが、まんなかあたりの10枚程度は、ただ置いてあるだけ。はがせる。はがすと、地面が見えてくるのだが、いわゆる防空壕だ。1年に一度ぐらいしか、そういう状態にならないから、その時とばかり、懐中電灯をもってもぐっていた。それなりの湿気もあり、決して居心地のいいものでもなかったと記憶している。畳を上げることは、自分の家だけで行えたが、さすがに畳の張り替えは、畳屋さんでないとできない。自分が記憶の限りでは、1回か、2回、畳の張り替えや、新調したことがあったと思う。新しい畳のほど、気持ちのいいものはなかった。緑色の色合いといい、ま新しい畳の香りがなんともいえなかった。
ほtんどすべての部屋の間仕切りというか、ドアは、襖(ふすま)で、ふすまの張り替えは、すべて親父がひとりで行っていた。ふすまをすべて外して、紙をはがし、桟を外して、のりづけして、新しい紙をかぶせる。シワを伸ばし、乾かす。畳を上げるのと同様、手間もかかるし、力も要る。手先もそれなりに器用でなくてはできない。広い家ではないのに、よくそんなことができたものだと素直に思う。今、自分の住まいでやろうと思っても、家の中に障害物が多く、外した襖をどうやって立て懸けておくのと考えてしまう。
西側の玄関を入って、すぐ前が、和室といったが、若干、斜め右前に、その部屋があり、玄関を入って正面左は、2階へ上る階段がある。会談を上がって、すぐ右に4畳半ぐらいの和室と、その西側に、6畳ぐらいの和室だった。いわゆる、1階のリビング和室の、真上にあたる。1階と2階を結ぶ階段には、手すりがなく、よく足を滑らせ落ちたらしい。しこたまお尻を打って、危なかったようで、ここにも自作の手すりを親父が取り付けた。赤茶色のニスを塗ってあったその絵が、妙にはっきりと記憶に残っている。自宅に電話が設置されるまでには、かなりの年数が経ってからのことになるのだが、それまでは、ずっと「呼び出し」欄に、近所の方で、電話設置をされている家の電話番号を、書かせていただくというものだ。その電話が、設置されたときの設置場所が、玄関を入ってすぐ斜め左の、階段下の、あがりかまち、の場所に、電話台を置き、その上に黒電話が置かれたものだから、階段の3段目や4段目に腰をかけて、長電話するという絵図柄、光景となるのだが、それは、ずっとずっと後のことだ。自分の生家の変わったところは、まだほtんどどの家にも、自家用車などないのに、車はあるものの、電話をいつまでもつけてもらえなかったことだ。学校関係などの書類に、さきいほどの呼び出し欄に、他人の電話番号を書かなければならない、ひけ目、すごくいやだった。正直、なんとなく電話コンプレックスを意識するしないはあるが、なんで電話がないの?という気持ちはあった。これだけ、このことを書くということも、その一端だと思う。
長屋、どこまでが、同じ大家さんの持ち物だったのかよく知らないが、北隣が、湯浅さんというような名前だったと思う。南隣は、伊藤さん、その南隣も伊藤さん。兄弟だったらしい。向かいの家は、土丸谷さん、1件とんで、南隣が、やはり伊藤さん。この3軒の伊藤さんは、すべて兄弟だったと記憶している。3人目の伊藤さんの南隣は、大前さんというお家だった。長屋の一番端の、家々の名前がよく覚えていない。向かいの家とは、舗装されていない土の道で、幅は、3メートルあるかないかだ。地面に穴を掘って、ビー玉で遊んだものだ。また、釘などで、土の上にいろいろな模様を書いて、石を投げて止まったところの指示に従う遊びや、関西では、ケンパと呼んでいた遊びをした。