現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

自分探し2/100

2014-04-12 | Weblog

前回の玄関からすぐの、いわゆる和室のリビング扱いの部屋は、和室だから当然、畳が敷き詰められている。毎年、夏場?夏になる間には、畳を1枚1枚上げて、DDTという白い殺虫剤の粉をまいていた。近所も似たようなことを行っていたと思う。畳を1枚ずつ、親父が独りで上げていくのだが、さぞ力もいるし、大変だったとは思うが、文句の一つも言わずにやっていた気がする。(今、考えれば、日常の中であっても、もくもくとやる、そういう時代だったのかなと感心する。)その畳を上げると、板が敷き詰められているのだが、通常は板が床の梁にあたる所に釘でうちつけられているのだが、まんなかあたりの10枚程度は、ただ置いてあるだけ。はがせる。はがすと、地面が見えてくるのだが、いわゆる防空壕だ。1年に一度ぐらいしか、そういう状態にならないから、その時とばかり、懐中電灯をもってもぐっていた。それなりの湿気もあり、決して居心地のいいものでもなかったと記憶している。畳を上げることは、自分の家だけで行えたが、さすがに畳の張り替えは、畳屋さんでないとできない。自分が記憶の限りでは、1回か、2回、畳の張り替えや、新調したことがあったと思う。新しい畳のほど、気持ちのいいものはなかった。緑色の色合いといい、ま新しい畳の香りがなんともいえなかった。

ほtんどすべての部屋の間仕切りというか、ドアは、襖(ふすま)で、ふすまの張り替えは、すべて親父がひとりで行っていた。ふすまをすべて外して、紙をはがし、桟を外して、のりづけして、新しい紙をかぶせる。シワを伸ばし、乾かす。畳を上げるのと同様、手間もかかるし、力も要る。手先もそれなりに器用でなくてはできない。広い家ではないのに、よくそんなことができたものだと素直に思う。今、自分の住まいでやろうと思っても、家の中に障害物が多く、外した襖をどうやって立て懸けておくのと考えてしまう。

西側の玄関を入って、すぐ前が、和室といったが、若干、斜め右前に、その部屋があり、玄関を入って正面左は、2階へ上る階段がある。会談を上がって、すぐ右に4畳半ぐらいの和室と、その西側に、6畳ぐらいの和室だった。いわゆる、1階のリビング和室の、真上にあたる。1階と2階を結ぶ階段には、手すりがなく、よく足を滑らせ落ちたらしい。しこたまお尻を打って、危なかったようで、ここにも自作の手すりを親父が取り付けた。赤茶色のニスを塗ってあったその絵が、妙にはっきりと記憶に残っている。自宅に電話が設置されるまでには、かなりの年数が経ってからのことになるのだが、それまでは、ずっと「呼び出し」欄に、近所の方で、電話設置をされている家の電話番号を、書かせていただくというものだ。その電話が、設置されたときの設置場所が、玄関を入ってすぐ斜め左の、階段下の、あがりかまち、の場所に、電話台を置き、その上に黒電話が置かれたものだから、階段の3段目や4段目に腰をかけて、長電話するという絵図柄、光景となるのだが、それは、ずっとずっと後のことだ。自分の生家の変わったところは、まだほtんどどの家にも、自家用車などないのに、車はあるものの、電話をいつまでもつけてもらえなかったことだ。学校関係などの書類に、さきいほどの呼び出し欄に、他人の電話番号を書かなければならない、ひけ目、すごくいやだった。正直、なんとなく電話コンプレックスを意識するしないはあるが、なんで電話がないの?という気持ちはあった。これだけ、このことを書くということも、その一端だと思う。

長屋、どこまでが、同じ大家さんの持ち物だったのかよく知らないが、北隣が、湯浅さんというような名前だったと思う。南隣は、伊藤さん、その南隣も伊藤さん。兄弟だったらしい。向かいの家は、土丸谷さん、1件とんで、南隣が、やはり伊藤さん。この3軒の伊藤さんは、すべて兄弟だったと記憶している。3人目の伊藤さんの南隣は、大前さんというお家だった。長屋の一番端の、家々の名前がよく覚えていない。向かいの家とは、舗装されていない土の道で、幅は、3メートルあるかないかだ。地面に穴を掘って、ビー玉で遊んだものだ。また、釘などで、土の上にいろいろな模様を書いて、石を投げて止まったところの指示に従う遊びや、関西では、ケンパと呼んでいた遊びをした。