現代今昔物語―自分流儀。伝承。贈ることば、子供たちへ。不変のストーリー

我が息子と娘へ伝承したいメッセージをというのがきっかけで、時代が違っても考えかたは不滅といった内容を新世代達へ残したい。

自分探し 3/100

2014-04-14 | Weblog

かなりの人生を経て、自分の性格や考え方などが、親・家族の影響が大きかったと改めて気づかされる場面などがある。そういえば、自分がこのように考えるのは、あの頃、しきりにそのように教えられていたとかを思い出す。西側の玄関を入ると、あがりかまちがあり、すぐに南北の廊下がある。廊下の左端が階段で、階段横が和室(リビング用)というわけだ。おふくろが、よく口にしていたのが、どの部屋に行くにも、どこかの部屋を通らねばならず、部屋が分かれているといっても、それぞれが個室になっているわけでもないので、それが嫌だと何かにつけて口に出していたものだ。やはり、そのことをずっと耳にしていたものだから、自分も大人になって、部屋を見る時に、その辺りのところがどうなっているのかを知らず知らずのうちに気にしている自分に気づく。

自分が誕生した時には、父方は、祖父・祖母の2人が健在だったが、母方は、祖母のみであった。祖父は、ちょうど生まれる前年に亡くなったとのことで、その祖父の生まれ変わりと言い合っていたみたいだ。それゆえ、曾祖父や曾祖母というものは知らない。写真も見たことがない。ただし、祖父・祖母・祖母の3人は、すべて大阪市内にいたので、それほど、疎遠でもなかったし、日常の中で、会いに行っていた。やはり物理的というか地理的に遠方であれば、自然と疎遠になるし、まして子供単独で会いに行ける距離とそうでない距離がある。

その点、母方の祖母は、ほとんど1駅分の距離に住んでいたので、歩いていくことができていた。祖母も長屋暮らしだが、その前には、イチジクの木があり、実がなれば、取って食べていた。母は今で言う潔癖が強すぎるぐらいだったが、どうも祖母から、そのように叩きこまれたおうだ。母方は、聞いたところによると、元来は大阪でなく、三重県の四日市出身みたいだ。一度だけ、電車で、四日市へなんの用事かわからないが、出向いた記憶があるが、行ったというだけの記憶しかない。祖母は、母の姉(おば)と、姉の娘(いとこ)と一緒に暮らしていた。姉はわけあって離婚したとのことだった。姉(おば)の元ご主人は、宮崎県とつながりがあるように勝手に推測している。

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